ユニフォーム姿になったキングは、二、三度強く首を振ってから空を見た。レースとと
もに西から流れてきた雲で、灰色に覆いつくされている。また雨が降りだしそうだ。キン
グはシューズの紐をたしかめ、ムサと掌を打ちあわせてから、中継ラインに走り寄って
いった。
ニコチャンから襷を受け取ったキングは、走りはじめてすぐに、東体大の と前橋工科
大の選手に追いつかれた。その二校は、平塚中継所であった寛政大との四秒の差を、また
たくまに詰めてきた。
後ろにぴったりとついた二校を、キングは振り向いて確認した。前橋工科大の選手は、
額に早くも大粒の汗を浮かべている。気温は二度。右手から弱い海風が吹きよせる。走り
にくいほど暑いわけでも、走っているのに凍えるほど寒いわけでもない。こいつは体調が
悪いのかもしれない、とキングは思った。
目下の敵は、やはり だ。 は海風を避けるためか、前橋工科大の選手をちゃっかり盾
たてにして、キングの左後方に位置取っている。キングを見返した の目には、明らかに
なぶる色があった。あなたのことなど、いつでも抜ける。さあ、どうします? 問いかけ
を装い、道を明けろと無言で脅迫してくる。
もちろんキングは、 に屈するつもりなどない。そのまま車線の真ん中を走っている
と、 は左側からキングを抜き去った。並ぶことなく、あっというまにキングのまえに出
て、さらに引き離しにかかる。この野郎。キングも負けずにスピードを上げる。三キロ地
点にある湘南大橋を、 を追って駆ける。前橋工科大の選手は、キングと についてこら
れない。荒い呼吸音がどんどん背中から遠ざかった。
キングは、スタミナを温存しろとハイジに言われていたことを忘れた。広く長い橋か
ら、右手の大おお海うな原ばらを眺める余裕もなかった。海は曇天のもと、相模川から流
れこむ真水を拒絶して波立っていた。それを見ないキングの心も、 への闘争心に逆さか
巻まく。キングは、 と自分の実力差を忘れた。
追っても追っても、 との距離は開く。必死に食いつこうとして、キングの呼吸は乱れ
た。沿道から注がれる見物客の視線と歓声も、脳内でぼんやりと乱反射するばかりで現実
感がない。 の背中をにらみつけて、ひたすら走る。
キングはパニック状態にあった。レースという特殊な状況。キングを打ち負かすと宣言
し、実際そのとおりの走りを見せる 。すべてがキングにプレッシャーをかけ、混乱さ
せ、正しい判断能力を奪っていった。
そんなキングを、清瀬が見過ごすはずはない。五キロ地点で、監督車から大家の声が響
いた。
「キング、深呼吸をしろ。なにをそんなにあせってる。こらキング!」
キングは我に返り、意識して一度大きく息を吐いた。がちがちに肩を強張らせていた力
が抜けていった。キングは両腕をまわしてほぐし、リラックスしたことを大家に示した。
「おまえは五キロごとに、深呼吸したほうがいいな」
大家の声には、安堵の響きがあった。「あんまり突っ込んでいくもんだから、ハイジが
あわてて俺に電話してきたぞ」
清瀬の携帯に、沿道に配置した寛政大の学生から情報が入ったのだ。キングが脇目もふ
らず、設定タイムよりもずいぶん速く走っていることを聞き、清瀬は事態を察した。 の
挑発に乗ってはならない。キングの自滅を防ぐために、早いうちに冷静さを取り戻させね
ばならない、と。
監督が選手に声をかけられるのは、五キロごとに一分ずつだ。大家は早口に告げた。
「『大手町で会ったら、遊行寺の来歴を教えてほしい』とハイジが言っていた。聞こえた
か?」
そうだ、遊行寺の坂。ハイジに注意されていたんだっけ。
もう大丈夫、という合図に、キングは再び両腕をまわしてみせた。速度を落とし、慎重
に疲労の度合いを計る。 の背中は、あいだに入った大会関係者の車でさえぎられて見え
なくなり、やがては車そのものも小さくなった。だがキングは、自分のペースを把握し、
着実に前進するよう努めた。本当に戦うべき相手を、思い出したからだ。
に負けてはならないのではない。挑発に軽々と乗って実力を見失う、自分の心に負け
てはいけなかったんだ。
キングは小心であるがゆえに、プライドが高い。傷つけられることを恐れて、ひとと親
しく交われない。そんな臆病な本性を、だれかに知られることすら許せないから、表面上
はひとづきあいのいい明るい人間を装う。
そのおかげで、一緒に騒げる友人は多いほうだったし、竹青荘の住人たちとも、仲良く
やっていけていると思う。でも、悩みを打ち明けられる相手がいるかと問われれば、だれ
も浮かばない。キングが困ったときに、助けてくれるひとがいるかと問われれば、自信が
ない。
清瀬は、キングのプライドを傷つけたりはしない。たとえば八区を走っているのが双子
やユキや走だったら、「いまからそんなペースで、遊行寺の坂を越えられると思うの
か?」と、清瀬ははっきり言ったはずだ。
以前は、清瀬の気づかいに苛立たせられた。小心者のプライドを見透かされている耐え
がたさと、気づかわれることへの喜びが同時に襲い、自己嫌悪が募った。清瀬なら自分を
受け入れてくれるかもしれない、と期待するのが怖かった。清瀬がキングを、「一番の友
人」とは思っていないことが明白だからだ。
寛政大に入学した春、キングは学生課の掲示板の隅に、色あせた間取り図を見つけた。
破格の家賃に魅かれて竹青荘を訪れたキングは、一年生がほかに二人いると聞いて、「ボ
ロアパートに住むのもおもしろいかもしれない」と入居を決めた。同学年の二人とは、言
うまでもなく清瀬とユキだ。
一階の部屋は、すでにすべて埋まっていたので、キングは二〇二号室に入った。二階の
床が抜けるのを避けるため、なるべく一階から空室を埋めるようにしていたらしい。二階
には、いまは神童の部屋である二〇五号室に、四年生が住んでいるだけだった。
その四年生も、いまと変わらず一〇四号室に住んでいたニコチャンも、走の部屋の先住
者である一〇三号室の二年生も、気のいい先輩だった。清瀬やユキとも、頻繁に会話を交
わすようになった。キングは竹青荘の居心地がいいことに安心したが、やはりここでも、
疎外感はぬぐいきれなかった。
つかず離れず、無言で絶妙の距離を築く方法が、キングはどうしてもうまく体得できな
い。どこにいても、だれといても、いつも自分が浮いている気がする。角が立たぬよう愛
想よく振る舞い、けれどだれにも心を開けない。弱みを見せずに見栄を張る。そんなキン
グの内側には、もちろんだれも踏みこんでこようとしない。さびしいと感じるのは屈辱だ
から、愛想ばかりがますますよくなる。
竹青荘の住人たちには、それぞれ特に気の合う相手がいる。たとえば、清瀬と走。ユキ
とニコチャン。双子と王子。ムサと神童。約束したわけでも、示しあわせたわけでもない
のに、なんとなくともにいる時間が多い相手。会話がなくても気にするふうでもなく、ひ
とつの部屋でお互いに好きなことをしていたりする。キングはそういう光景を、竹青荘の
なかで何度も見かけた。