西京大と喜久井大の選手を、走はつづけざまに抜き去った。目の前で繰り広げられる逆
転劇に、観客は興奮してどよめく。走の走りは見るものの脳裏から、贔屓ひいきの大学や
選手のことを瞬時消し去った。賛嘆せずにはいられない、有無を言わせぬ美とスピードと
力強さが、そこにはあった。
十五・二キロ付近で、人垣から給水要員が飛びだしてきた。寛政大のジャージを着た短距
離部員だ。併走する給水要員に、走はしばらく気づかなかった。
「蔵原、蔵原!」
と呼びかけられて、視線を横にやる。差しだされるボトルを見てようやく、「給水か」
と思い出した。気温が低く、路面がしっとりと濡れるほど雪が降っていたので、喉の渇き
は感じなかった。だが、給水要員は必死になって走のスピードに追いすがり、ボトルを差
しだしつづける。走はそれを受け取った。
「藤岡が、区間新記録を出しそうだ!」
給水要員が素早く告げる。そうか、やっぱり、と走は思った。詳しいタイムを聞き返す
間はなかった。併走をやめた給水要員を残し、走はなおも前進する。
藤岡さんは、どれだけの速度でこの道を走ったんだろう。俺は藤岡さんのタイムを抜け
るか。いや、抜かなきゃいけない。
走はいま、八番目を走っていた。秒差がどれだけあるのか、まえを行く選手を視界にと
らえることはできない。走が戦うべき相手は、目に見える選手ではなく、時間だった。形
のない時間というものを、たぐり寄せなければならない。寛政大が、ひとつでも順位を上
げるために。走が、いま自分にできる最高の走りを、箱根駅伝の歴史に刻みつけるため
に。
四車線になり、視界が広がったせいでスピード感がちがってくる。走っても走っても、
なかなかまえに進めていないような気がする。あせるな、と言いきかせ、走は水を口に含
んだ。俺は大丈夫だ。もっと行ける。もっと走れる。全身の細胞が熱い。筋肉がちぎれそ
うに叫んでいる。加速しろ。限界を超えた、その先へ。
ボトルを道端に投げ捨てる。冷たい液体が、体内をすべり落ちた。
「あ……」
走が思わず発した声は、掠れてだれの耳にも届かなかった。
体の底で、なにかが鋭く破裂した。一点で弾けた力が体じゅうに、指の先まで拡散して
いく。拡散ではなく、集合しているのか? エネルギーの流れがあまりにも速すぎて、ど
ちらなのか区別がつかない。渦巻いて身の内に充満する。
音が一気に遠のき、脳髄が冴え渡った。走る自分の姿を、もう一人の自分が俯ふ瞰かん
しているみたいだ。呼吸が急に楽になった。舞い散る雪片のひとつひとつが、ひどく鮮明
に視界をよぎる。
なんだろう、この感覚。熱狂と紙かみ一ひと重えの静寂。そう、とても静かだ。月光が
射す無人の街を走っているようだ。行くべき道が、ほの白く輝いて見える。
このまま還かえってこられなくなりそうなほど、気持ちがいい。怖いぐらいだ。輝く恒
星のほうへ、たった一人で押し流されていく。だれか、俺をつかみとめてくれ。いや、だ
れも邪魔をするな。このままでいい。このままいきたい。もっと遠くへ。灼やきつくされ
てもかまわない。ほら、彼方が見える。きらめくなにかまで、あともう少し。
清瀬はウォーミングアップを終え、王子の携帯電話の画面に見入っていた。テレビの中
継映像が、力走をつづける走から、九区を走り終えようとする藤岡に切りかわる。
「六道大の藤岡選手、一時間〇九分ちょうどで襷リレー! 区間新記録です!」
午後十二時二十二分四十五秒。鶴見中継所は、藤岡の記録更新に湧き返った。清瀬は顔
を上げる。ちょうど、藤岡が中継ラインから中継所の敷地内に入ってきたところだった。
首位に立ったことを喜んで、六道大学陸上部の下級生たちが藤岡を取り囲む。見物客か
ら健闘を称える声をかけられ、記者にはコメントを求められ、走り終えた直後だというの
に、藤岡は座って休むこともできなさそうだ。
少し困惑したふうに、藤岡は快挙に浮き立つ周囲のさまを眺めた。その視線が、中継所
の奥にいた清瀬のうえで止まる。藤岡はひとの輪から抜けだして、清瀬のほうに近づいて
きた。
「王子。大家さんに電話して、藤岡のタイムを伝えるんだ。二十キロ地点で、走に教える
ように、と」
清瀬は王子に小声で指示してから、微笑を浮かべて藤岡に向き直った。「おめでとう」
「心にもないことを」
区間新記録を出したというのに、藤岡は勝ち誇るでもなく無表情なままだ。「蔵原が覆
くつがえすと思っているだろう」
「どうかな」
清瀬の微笑もまた、内心を垣間見せぬ鎧よろいだった。
中継ライン付近が騒がしくなった。房総大の沢地が襷リレーしたようだ。六道大との差
は、一分三十一秒。後続の大学は、まだ気配もない。優勝争いは、六道大と房総大の二校
に絞られた形だ。だが、残り一区間となったいま、九区で藤岡が作った、一分半のタイム
差は大きい。十区を走る両校の選手の実力を考えても、六道大のほうがはるかに優位に
立っている。
「優勝は六道だな」
と清瀬は言った。「きみの走りは、あいかわらず強くて安定していた」
「首位には立った。だが……」
藤岡は言葉を飲みこんだ。近くにいたひとの持つラジオから、中継の声が聞こえてく
る。
「二十キロ地点を過ぎて、寛政大の蔵原選手がまたスピードを上げはじめたようです!
この選手のスタミナには、限界というものがないのでしょうか! もしかしたら、九区の
区間記録がまたもや更新されることになるかもしれません!」
藤岡ははじめて、わずかに笑った。苦いものを食べたのに、無理やり甘いと言おうとし
ているような表情だった。
「清瀬、俺たちはいったい、どこまで行けばいいんだろうな。到達できたと思っても、ま
だ先がある。まだ遠い。俺の目指す走りは……」
清瀬は藤岡の目に、昏くらい絶望の光を見た。孤独に走りつづけ、追い求めつづける、
走と同質の翳かげりを認めた。
きみは一人じゃない。きみのおかげで、走は強くなった。これからもきっと、きみたち
はお互いの存在を糧に、高みを目指していくはずだ。だれも行けなかった場所へ、いつか
たどりつくまで。
そう言おうとして、清瀬は口を閉ざした。うらやましかったからだ。走が。藤岡が。走
りに選ばれた存在が。だから清瀬は、
「でも、やめないんだろう?」
とだけ言った。「きみは、走るのをやめられない。ちがうか?」
「そうだな」
藤岡は、今度こそ心からの笑みを口端に浮かべた。「また一からやり直しだ」