昔、女はらから二人ありけり。一人はいやしき男の貧しき、一人はあてなる男もたりけり。いやしき男もたる、しはすのつごもりにうへのきぬを洗ひて手づから張りけり。心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざもならはざりければ、うへのきぬの肩を張り破(や)りてけり。せむ方もなくてただ泣きに泣きけり。これをかのあてなる男ききて、いと心ぐるしかりければ、いときよらなる緑衫(ろうさう)のうへのきぬを見出でてやるとて、
紫の色こき時はめもはるに野なる草木ぞわかれざりける
武蔵野の心なるべし。
【現代語訳】
昔、ある二人の姉妹がいた。一人は身分が低く貧乏な男を夫とし、もう一人は身分の高い男を夫としていた。身分の低い夫をもった女は、十二月の末に、夫が着る正装の上衣を洗って、自らの手で糊(のり)張りをした。注意深くしていたが、そのような雇い女がするような仕事になれていなかったので、上衣の肩の部分を張るときに破いてしまった。女はどうしようもなくてただ泣いていた。このことをあの高貴な男が聞き、たいそう切なく思い、とてもきれいな、六位の人が着る緑色の上衣を探し出して贈るとして、次の歌を詠んだ。
<紫草の根の色が濃くて美しいときは、春の野を見渡すかぎり萌え出た草木がすべて緑一色に見えて区別がつかず、みんな紫草のように思われます。それと同じで、妻がいとしいと、その縁につながる人もすべて区別がつかないのですよ。>
これは、あの「紫の一本(ひともと)ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(一本の紫草を愛するがゆえに、武蔵野の草はみんな愛しい)」の歌の心と同じであろう。