昔、男ありけり。宮仕えいそがしく心もまめならざりけるほどの家刀自(いへとうじ)、まめに思はむといふ人につきて人の国へいにけり。この男宇佐の使にていきけるに、ある国の祇承(しぞう)の官人の妻(め)にてなむあるとききて、「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」といひければ、かはらけとりて出(いだ)したりけるに、さかななりける橘(たちばな)をとりて、
五月(さつき)まつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖(そで)の香ぞする
といひけるにぞ思ひ出でて、尼になりて山に入りてぞありける。
【現代語訳】
昔、ある男がいた。宮廷の勤めが忙しくて、また誠実に妻に愛情をかけることをしないでいた。そのころに妻だった女が、「自分は誠意をもって、あなたを愛する」という人の言葉に従って、地方に行ってしまった。はじめに夫だった男が、宇佐神宮へ派遣される勅使になって赴いたとき、途中のある国の勅使接待の役人の妻に、もとの自分の妻がなっていると聞き、「ここの接待役人の妻である女主人に、私にすすめる素焼きの杯を出させなさい。さもなくば酒は飲みません」と言った。勅使の命にはさからえず、女主人が杯を持って差し出したところ、男は酒のさかなとして出されていた柑子蜜柑(こうじみかん)を取り上げて、
<五月を待って咲き出す橘の花の香りをかぐと、昔の愛しかった人の袖の香りがまざまざと薫ってくるようだ。>
と言ったので、このかつての夫のもとを去ったころを思い出して、女はやりきれない気持ちになり、尼になって山に籠って暮らしたのだった。