いつか私は眠っていた。長い苦しい眠であった。眼をさますと、海に向いた窓が、あかあかと夕日に照されていた。その衰えた赤が悲しかった。依然として内火艇の音が、高く低く海に響いていた。私はこうして長く敵中に止る危険を反省したが、すべては物倦かった。私はまた眠ったらしい。
歌が聞えて来た。それはスペインの旋律から肉感を奪って哀愁だけを残した、あの聞き馴れた比島の歌であって、若い女声であった。私は身をもたげた。夢ではなく、声は光線のようにはっきりと、海に向いた窓から入って来た。
夜はもう遅いらしく、月が出ていた。弱い斜めの光が、海面を銀に光らせていた。一隻のバンカーが光の上に黒く動いていた。二人の人間が乗っていた。
男が舳に坐り、女が櫂を持って、漕ぎながら歌っていた。歌声は平らな海面に柔らげられ、優しくうるんで耳に届いた。時々女は笑った。私は歯ぎしりした。
舟はやがて渚に着き、男がまず飛び上って舟を曳いた。女は男の手にすがって岸に立つと、二人は手を取り合ったまま、笑いながら駈けて来た。
私は何故か彼等がこの家に来るに違いないと確信した。頭を窓の下に隠し、耳を澄ませた。砂を踏む足音と笑い声が近づき、裏の戸が開いた。やがて灯が間の扉の隙間を充たした。
彼等は相変らず笑っていた。私の第一の直感は人目を忍ぶ恋人達が、この死の村を媾曳の場所に選んだということであった。しかし彼等は随分台所に用があるらしかった。忙しくいつまでも音を立てていた。或いは召使かも知れなかった。
彼等がやがて私のいる室へも入って来る可能性があった。事実一人は扉に近づき、隙間から差す光が中断された。
私は音を立てた。話声がとまった。私は立ち上り、銃で扉を排して、彼等の前に出た。
二人は並んで立ち、大きく見開かれた眼が、椰子油の灯を映していた。
「パイゲ・コ・ポスポロ(燐寸をくれ)」と私はいった。
女は叫んだ。こういう叫声を日本語は「悲鳴」と概称しているが、あまり正確ではない。それは凡そ「悲」などという人間的感情とは縁のない、獣の声であった。人類は立ち上って胸腔を自由に保たないならば、こういう声は出せないであろう。
女の顔は歪み、なおもきれぎれに叫びながら、眼は私の顔から離れなかった。私の衝動は怒りであった。
私は射った。弾は女の胸にあたったらしい。空色の薄紗の着物に血斑が急に拡がり、女は胸に右手をあて、奇妙な回転をして、前に倒れた。
男が何か喚いた。片手を前に挙げて、のろのろと後ずさりするその姿勢の、ドストエフスキイの描いたリーザとの著しい類似が、さらに私を駆った。また射った。弾は出なかった。私は装填するのを忘れたのに気がつき、慌しく遊底を動かした。手許が狂って、うまくはまらなかった。
男はこの時進んで銃身を握るべきであった。が、彼の取った行動は全く反対のものであった。バタンと音がし、眼を挙げると、彼の姿は外に消えていた。私も続いて出た。
男は既に浜に降り、月に照された砂の上を、私の覘いを避けるためであろう、S字を描いて駈けていた。舟を押し出し、飛び乗って、忙がしく漕いで行った。私は砂に折り敷き、いい加減に発射した。
銃声は海面を渡り、岬に反射して、長く余韻を引いて、消えて行った。男は一層慌しく櫂を動かした。私は笑って、引き返した。
女の体は既に屍体の外観を現わし始めていた。息が沼から上る瓦斯のように、ぶつぶつ口から洩れていた。私は耳を近づけて、その音の止むまで聞いた。
私をこの行為に導いた運命が誤っているにせよ、私の心が誤っているにせよ、事実において、私が一個の暴兵にすぎないのを、私は納得しなければならなかった。神ばかりではない、人とも交ることが出来ない体である。私はまた私の山に帰らねばならぬ。
私は私の犠牲者がここまで来た理由に好奇心を起し、室に彼等の行為の跡を探した。床板があげられ、下に一つのドンゴロスの袋が口を開けていた。中に薄黒く光る粗い結晶は、彼等人類の生存にとっても、私の生存にとっても、甚だ貴重なものであった。塩であった。