私はいつか歩き出していた。歩きながら、私は今襲われた奇怪な観念を反芻していた。その無稽さを私は確信していたが、一種の秘密な喜びで、それに執着するものが、私の中にあったのである。
道は林の中で丘裾の線をなぞって自然にうねっていた。緑の丘肌が木々のあわいに輝いた。林が途切れると、丘の夢幻的な緑を形づくる雑草が、道傍まで降りて来た。平らな稜線、人に似た矮小な木が、ぽつんと立っているのを、私は認めた。
林が尽き、乾いた砂利と砂に、疎らに草の生えた野へ出た。河原であった。処々島のように点在した高みに、芒の群が遅い午後の光に銀色の穂を輝かせた。川はその向うに、一条の鋼鉄の線をなして横わり、風景を切って遽だしく滑っていた。対岸は多摩の横山ほどの高さの丘陵が、やはり淡い草の緑を連ね、流れを遡って右へ右へと退いて行った。そして遂に崖となって河原へ落ち込んだ下に、一条の黒い煙が立ち上っていた。
煙は比島のこの季節では、収穫を終った玉蜀黍の殻を焼く煙であるはずであった。それは上陸以来、我々を取り巻く眼に見えない比島人の存在を示して、常に我々の地平を飾っていた。
歩哨はすべて地平に上がる煙の動向に注意すべきであった。ゲリラの原始的な合図かも知れないからである。事実不要物を焚く必要から上がる煙であるか、それとも遠方の共謀者と信号する煙であるかを、煙の形から見分けるという困難な任務が、歩哨に課せられていた。
今見る川向うの煙は、明らかにその下で燃やされる物の大きな量を思わせる、幅広の盛んな煙であった。黒いその下部に、私は時々橙色 の焔の先が侵入するのを認めた。
しかし歩哨の習慣を身につけていた私に、煙は開いた河原に姿を現わすのを、躊躇わすのに十分であった。それが単なる野火であるにせよ、ないにせよ、その下に燃焼物と共に比島人がいるのは明瞭であった。そして我々にとって比島人はすべて実際は敵であった。
私は初めて見知らぬ道を選んだことを後悔した。しかし既に死に向って出発してしまった今、引き返すのはいやであった。私は右手に丘を縁取る道なき林の中を迂回して、河原の道が前方で、また別の林に入っているところまで、辿りつくことにした。
垂れ下がる下枝や、足にからむ蔓を、帯剣で切り払いながら、私は進んだ。湿った下草を踏む軍靴は、滑り易かった。方向を失わないため、河原からの明るい反射が、羊歯類をエメラルドに光らす距離を、林縁と保った。そこにも道があった。辿って林の奥に進むと、一軒の小屋があり、人がいた。一人の比島人が眼を見開いて立っていた。
私は立ち止り、銃を構え、素速くあたりへ眼を配った。
「今日は、旦那」
と彼は媚を含んだ声でいった。年の頃三十くらいの顔色の悪い比島人である。色褪せた空色の半ズボンの下から、痩せて汚れた足が出ている。住民の尽く逃亡したはずのこのあたりで、彼の存在がすでに怪しかった。
「今日は」
と私はおぼつかないビサヤ語で機械的に答え、なおも周囲を検討した。静かであった。小屋は一尺しか床上げがしてなく、前後は開け放されて、裏まで見通せた。刺戟性の異臭があたりに漂っていた。
「 You are welcome 」
と比島人は私の手にある銃を見ながら、卑屈に笑った。その時私の口を突いて出たのは、私がそれまで思ってもみなかった、次の言葉であった。
「玉蜀黍はあるか」
男の顔は曇ったが、相変らず「ユー、アー、ウェルカム」を繰り返しながら、いざなうように先に立ち、小屋の裏へ廻った。そこに土を掘って火を仕掛け、大きな鉄鍋がかけてあった。中には黄色いどろどろの液体が泡を吹いていた。傍の土に黄色い山の芋がころがっているところを見ると、それを煮つめているらしい。異臭はその液体から昇って来るのである。
別の小鍋に玉蜀黍の粒をほぐしたのが煮てあった。彼はそれをすくって汚い琺瑯引の皿に盛り、黒い大粒の塩を添えて薦めた。私はその時全然食欲がないのに気がついた。
「ここはお前の家か」
「いや、家は川向うだ」
と彼は答え、木の間越しに川を指さした。臭い山の芋を煮て何にするかは不明であるが、どうやら彼は専らこの作業のため、ここへ来ているらしい。芋はこのあたりで採れるのであろう。「何にするのか」と訊いたが、彼の答えたビサヤ語は、私には理解出来なかった。
私は皿を前にして、ぼんやり床に腰かけていた。男は絶えず張りつけたような笑いを浮べ、私の顔を見詰めていた。
「食べないのか」
私は首を振り、腰の雑嚢にその玉蜀黍を開けながら、食欲がないのに、食物を要求した自分を嫌悪していた。
私は既にその男に対する警戒を解いていた。我々は一般に比島人の性格を見分けるほど、観察の経験も根気も持っていなかったが、絶えず私の視線を迎えて微笑もうとしている彼の顔は、単に圧制者に気に入られようとする、人民の素朴な衝動のほか、何ものも現わしていないように思われた。それに、これは私が生涯の終りに見る、数少ない人間の一人であるべきであった。
彼は突然思いついたという風に、
「芋をやろうか」といった。
「この芋は食えまい」
「いや、ほかのがある。待っててくれ」
彼は立ち上り、林の奥へ歩いて行った。私はぼんやりそのあとを見送っていた。彼は振り向きもせず、ずんずん歩いて、やがて横手の窪地に降りて、見えなくなった。
私は改めて荒れはてた小屋の内部を見廻した。汚れた床板は処々はがれ、竹の柱は傾き、あらわな板壁にやもりが匍っていた。そういうがらんとした小屋の内部は、必要以上に生活を飾ろうとしない、比島の農民の投げやりな営みが現われていた。
(この男達の間にまじって、まだ生きられるかも知れない)と私は思った。
男はなかなか帰らなかった。私は不安になった。立ち上った時の彼の素速い動作が思い出された。私は林の奥で、彼の消えたあたりまで行って見た。木々がしんと静まり返っているばかりであった。(逃げたな)と思うと怒りがこみ上げて来た。急いで林の縁まで出て見ると、果して遠く川の方へ転がるように走って行く後姿が見えた。
振り返って私の姿を認めると、拳を威嚇するように頭の上で振り、それからまた駈けて行った。その距離は到底弾の届きそうもない、届いても当りそうもない距離である。彼の姿はやがて輝く芒に隠れた。
私は苦笑した。マニラで比島人の無力な憎悪の眼を見て以来、彼等に友情を求めるのがいかに無益であるか、私はよく知っていたはずである。私は小屋に帰り、山の芋を煮た鍋を蹴返して、その場を去った。彼が逃げた以上、ここに止るのは危険である。
私は大胆に開けた河原に、自分の姿を現わした。彼が川向うまで逃げて行ったところを見れば、この地点は今は安全なのである。それはこの附近に彼が救いを求むべき人のいないことを意味した。少なくとも彼が川向うの仲間を連れて、引き返して来るまでに、ここを去ればよい。
私は足早に砂利を踏んで河原を横切り、前方の林の入口でもとの道に入った。この林の木は小さく幹は細かった。蟻塚が道傍にうず高くつもり、蟻が吹き出すように溢れていた。私は慎重に前方を警戒しながら進んだ。いかに推理によって安全を確信していたとはいえ、私の恐怖にとっては、逃げた男はこの道に比島人のいる可能性だったのである。警戒は私から瞑想を奪った。
林が切れた。川向うには依然として野火が見えた。いつかそれは二つになっていた。遠く、人が向うむきに蹲まった形に孤立した丘の頂上からも、一条の煙が上っていた。
麓の野火は太く真直にあがったが、丘の上の野火は少し昇ると、空の高い所だけに吹く風を示して倒れ、先は箒のようにかすれていた。麓の煙が空気の重さと争うように、早く勢込めて騰るのに対し、丘の煙は細く高く、誇らかに騰って、空の風と戯れるように、揺れて靡いて流れていた。この気象学的常識に反した、異なる形の煙の一つの風景の中の共存は、奇妙な感覚を与えた。
丘の煙は恐らく牧草を焼く火であろうが、我々の所謂「狼煙」にかなり似ていた。しかしなんの合図であろう。
私は焦立った。右手の丘はますます迂回されつつあった。女の背のような優美な側面は、いつか意外に厳しく狭い正面に変り、三角の頂上から、両足をふんばったように、二つの小尾根を左右に投げ落していた。そしてそのあわいの小さな窪みに、肱掛椅子の形の玄武岩を支えていた。先の方の尾根を廻れば、病院のある谷間へ出るかも知れない。私は足を早めた。
また林に入った。中で道は二つに分れていた。左は川沿いに遡る道、右が丘に添う道らしい。右へ取って少し行くと林が尽き、広い草原が拡がった。そしてそこに私はまた野火を見た。
川の側は林が続き、川と一緒に左へ左へとそれて行っていた。前は一粁ばかり草原が砂丘のように、ゆるやかに起伏した果てに、岩を露出した別の丘が、屏風のように立ちふさがっていた。そして私とその丘との中央に、草が半町ほどの幅で燃えていた。人はいなかった。
私はその煙を眺めて立ち尽した。
私の行く先々に、私が行くために、野火が起るということはあり得なかった。一兵士たる私の位置と、野火を起すという作業の社会性を比べてみれば、それは明らかであった。私は孤独な歩行者として選んだコースの偶然によって、順々に見たにすぎない。
私の不安はやはり内地を出て以来の、奇妙な感覚の混乱に属していた。不安の唯一の現実的根拠は、野火のあるところには人がいるということだけであったが、しかしこの一般的な因果関係は、私のこの時の不安の原因として十分ではなかった。現に草原の野火の下には人はいない。原因は私個人に起った事件の系列にあった。私の見た野火の数にあった。
そして私がこうして私の個人的な感覚に悩まされるのは、恐らく私があまり自分に気を取られすぎるからであろう。
私は魔法の解除を求めて、病院のある部落を地平に探した。前に拡がる草原の広さから見て、大体これを目的の谷間の一部と考えることが出来たからである。そして私は遥か右手、岩山の麓に、寄り合うように固っている、見馴れた数軒の家を見つけることが出来た。
あそこにはとにかく同胞がいる。この時私にはこの観念のほかはなかった。
道は燃え続ける野火の中を通っていたが、私はそれを越えて行くことが出来なかった。道をはずれ、肩ほどある萱を分けて、真直に部落を目指して進んだ。
しかし私の眼は煙から離れなかった。日は傾き、いつか風が出ていた。煙は匍って草を蔽い、時々綿のようにちぎれて揚って、川を縁取る林の方へ飛んで行った。
見渡す草原に人影はなかった。誰がこの火をつけたのだろう。これは依然として私が目前の事実からは解決出来ない疑問であった。