吉田健一
大岡昇平氏の作品を読めば読む程、日本の現代文学に始めて小説と呼ぶに足るものが現れたという感じがする。現代文学というものは日本に前からあった。併しその中で小説は大岡氏の作品が始めてだとするのは奇怪なことに思われるだろうか。確かに日本の現代文学の大部分をなしているのは小説であって、今日でも文士と言えば、小説家の異名のようになっている。作家という言葉が、文学者の意味に普通に使われている。日本の現代文学から小説を取り去れば、何が残るかということも真面目に考えられる。
併し同時に又、何もないから小説でないものまで無理に小説にして日本の現代文学に加えたと見てはならないだろうか。或る日本の現代作家の作品がアメリカに紹介されたら、名エッセイだという評判を取ったそうである。外国の読者が飜訳を通して得た印象は必ずしも当てにならないし、エッセイというのが何を指すかも余りはっきりしないが、例えば島崎藤村が書いたようなものが小説で通るならば、余り理屈っぽいことを言いさえしなければ大概何でも小説であっていい訳で、理屈っぽい所が出て来れば、これは理知小説だとか、心理小説だとかということで珍重される。小説にはそういう便利な所がある。
朝起きて、夜寝るまでのことを丹念に書いても、小説と言えないことはない。大岡氏が戦後に始めて書いた「俘虜記」も、そういう一種の、舞台が外国になっている私小説位に思われているかも知れないのである。併し「俘虜記」は私小説でも、何小説でもない小説であり、この作品で既に大岡氏が他の作家達、殊にそれまでの作家というものとは違っていることがはっきり感じられる。私小説に馴れた読者でも、「俘虜記」が一人称で書いてあるということで、これを大岡氏の戦争中の体験記として受け取ることは出来ない筈なのである。
フィリッピンの自然を見る眼が、それを見ている主人公に移される時に別な眼になっていては、或は、盲になっては、その結果書かれたものを小説とは言えないし、定義などどうでもいいが、その度毎に小説というものが読者に与えている感興は消え失せる。私小説、或は随筆でそれを補うものは、その作品を書いているのがお馴染みの何某氏だという一種の人気に過ぎないので、それならば初めからそういう作品は随筆とか、手記という名称で片付けた方が頭の混乱が省けるというものである。
大岡氏は「俘虜記」で、フィリッピンの自然に対するのと同じ眼で主人公を見ている。これはフィリッピンの自然に対して大岡氏が抒情的になることを妨げないし、又、主人公を見ている大岡氏の眼が残酷だとか、客観的だとかということでもない。ただ大岡氏は、言葉で書かれたものは言葉が伝えることをしか伝えないことを知っている。ここにあるものはフィリッピンの自然でもないし、一人の、或は何人かの日本軍の敗残兵でもないので、あるのはただ大岡氏が書いた言葉と、それが描いている一つの世界だけなのである。
それを実際にどこかにあった世界、或は少くも、我々が氏の作品を読んでいる間、我々の眼前にある世界と我々が感じる所にこの作品が成立している。我々が直接に受ける印象の問題なのであるから、そこには嘘や、作者の人気によるごまかしが入って来る余地はない。嘘と言えば、初めから一切が嘘なのであり、その嘘を支えているものは言葉の他に何もないのである。
これがフィクションであり、小説というものの定義であって、小説にフィクションが必要であるかどうかなどという論議は正気の沙汰ではない。大岡氏は曾て、それも今から十何年も前のことであるが、人生に起る出来事は偶然の寄せ集めであって、或る事件が次にどんな事件を生じるか知れたものではないが、文学では或る作品で一度何か起れば、もうその作品はそれが起ったことの結果から逃れることが出来ないと書いたことがある。
一つの事件が次の事件を呼んで、それを免れないものと感じることが読者に書いてあることの真実に就て納得させるというのが、小説というものの本道なのであって、大岡氏はそれを、「俘虜記」で試みて成功し、次に「武蔵野夫人」でそれが戦場という異常な環境を離れて我々の日常生活に応用されても、我々に同じ一つの充実した小説の世界を与えるに足るものであることを示した。「野火」は大岡氏がその次に作家として試みた冒険である。
「野火」の舞台が再びフィリッピンの戦場に戻っているのは、そうして得られるどぎつい材料で我々の好奇心を惹く為ではない。屍体や戦場というものが我々の日常の感受性にとっては異常であっても、それが現実となった時は、と言うのは、何よりもそれが小説の現実を作り出す作家の材料になった時は、最も平凡な事実の親しさを帯びることは、大岡氏が既に「俘虜記」で我々に明かにしてくれた所である。どんなに奇異な事実だろうと、我々が小説の世界を信じるという異常には及ばないのである。
我々が小説を読む時は、我々が生活して行く為の感覚は一応お預けにして、作者の頭の動きに我々の頭の動きを任せる。作者は自分が描く世界の輪郭を追う眼が正確であることを期しさえすればいいのであって、我々はその世界が我々の日常生活とどういう関係にあるかを問題にしようとは思わない。小説で描かれている現実が、——もしそれが事実そこに描かれているならば、——我々の日常の世界よりも純粋な形を取るのはその為である。
それは、小説が精神の実験を行う場所になることを意味している。そして「野火」では、大岡氏のそれまでのどの作品にも増してそういう、それこそ小説の本領である実験が行われている。主人公は先ず病気になることによって自分が属していた部隊から離れる。それから先は、味方が軍隊の形をなさなくなるまでに敵に叩きのめされた戦況が、彼が益々ただ一人で行動する他なくなって行くことを保証する。
これは、ただ一人になった人間が独占するのとは違う。リルケの「マルテの手記」はそういう独占として出色のものかも知れないが、そこに出て来る心理的な現実の描写が繊細を極めたものであっても、まだ我々はこれを小説と呼ぶことを躊躇していい筈である。面倒な文学形式上の区別は省いて、「マルテの手記」の主人公が、作品の性質からして一切の行動らしい行動を封じられていることを指摘すれば足りる。
小説かどうかの問題は別としても、「マルテの手記」では主人公の孤独が作品の前提になっていて、生きて行く為の努力がそのまま人間を孤独に追い込んで行く仕組みになっているということはない。人間の孤独はこの作品でも描かれている。併し人間は人間として生きて行くだけで孤独であるを免れないことによってこの事実が人間的に成立するのであって、「マルテの手記」は既に成立した事実を凡そ精密に追っているに過ぎない。
「野火」の主人公には少しも異常な所がないことに先ず注意していい。作者は彼を平凡な一人の中年男に仕立てるのに明かに苦心しているのであって、その苦心が失敗した跡はどこにも見られない。彼が知識人であることを指摘するものがあるかも知れない。併し知識人であるということは、現代人であるということなのであって、人間が知識人であることを強いられるのが現代人というものの定義である。
これに対して、孤独を強いられるのは昔からの人間の状態であり、ここに「野火」は現代小説として、つまり、現代に生きる人間の小説として成立する。その主人公の行動を辿って行くならば、その性格と同様に、我々にとって不可解なものは何一つないのであって、それが余りに平凡なことばかりであるのが却って我々に、我々自身を含めた人間というものが如何に異常な存在であるかということに気付かせてくれる。
それに気付かせてくれるのはこの主人公が、その行動が、凡庸なのにも拘らずする異常な体験である。パスカルではないが、我々が尋常な社会生活を営んでいる時はいつも何か、我々の気を紛らせてくれるものがある。それがなくなった場合はどうなるか。我々が人間であることを止めた場合はというのではなくて、単に我々自身は人間であることを続けながら、我々の精神が置かれている状態、或は我々の精神が生きている世界から我々の注意を逸らすものが何もなくなったらばである。
「野火」では他の人間的な条件は凡て揃えてあって、他の人間の存在にさえもこと欠かない。併し通常の生活では、自分以外に人間がいることが共同生活を実現して、我々の眼を我々の内部から外に向ける結果になるのであるが、「野火」の主人公が置かれている状況では、他人の存在も主人公を彼一人の世界に益々追いやるばかりである。その時何が起るか。それが「野火」で行われている実験である。
結論は読者に任せる。そしてそれが幾通り出ようと、この実験が「野火」という一つの完璧な作品に結実していることだけは動かせない。最後に、二つのことが頭に浮ぶ。その一つは、曾て或る批評家が或る別な批評家の作品を評して言った、ここに君の発狂は完成された、という言葉であり、もう一つは、シェイクスピアの「リヤ王」の結末である。