『そりやあもう我輩だつて退校させたくは無いさ。』と敬之進は言葉を続けた。『せめて普通教育位は完全に受けさせたいのが親の情さ。来年の四月には卒業の出来るものを、今茲(こゝ)で廃(や)めさせて、小僧奉公なぞに出して了(しま)ふのは可愛さうだ、とは思ふんだが、実際止むを得んから情ない。彼様(あん)な茫然(ぼんやり)した奴(やつ)だが、万更(まんざら)学問が嫌ひでも無いと見えて、学校から帰ると直に机に向つては、何か独りでやつてますよ。どうも数学が出来なくて困る。其かはり作文は得意だと見えて、君から「優」なんて字を貰つて帰つて来ると、それは大悦(おほよろこ)びさ。此頃(こなひだ)も君に帳面を頂いた時なぞは、先生が作文を書けツて下すつたと言つてね、まあ君どんなに喜びましたらう。その嬉しがりやうと言つたら、大切に本箱の中へ入れて仕舞つて置いて、何度出して見るか解らない位さ。彼(あ)の晩は寝言にまで言つたよ。それ、左様(さう)いふ風だから、兎(と)に角(かく)やる気では居るんだねえ。其を思ふと廃して了へと言ふのは実際可愛さうでもある。しかし、君、我輩のやうに子供が多勢では左(どう)にも右(かう)にも仕様が無い。一概に子供と言ふけれど、その子供がなか/\馬鹿にならん。悪戯(いたづら)なくせに、大飯食(おほめしぐら)ひばかり揃つて居て――はゝゝゝゝ、まあ君だから斯様(こん)なことまでも御話するんだが、まさか親の身として、其様(そんな)に食ふな、三杯位にして節(ひか)へて置け、なんて過多(あんまり)吝嗇(けち/\)したことも言へないぢやないか。』
斯ういふ述懐は丑松を笑はせた。敬之進も亦(ま)た寂しさうに笑つて、
『ナニ、それもね、継母(まゝはゝ)ででも無けりや、またそこにもある。省吾の奴を奉公にでも出して了つたら、と我輩が思ふのは、実は今の家内との折合が付かないから。我輩はお志保や省吾のことを考へる度に、どの位あの二人の不幸(ふしあはせ)を泣いてやるか知れない。奈何(どう)して継母といふものは彼様(あんな)邪推深いだらう。此頃(こなひだ)も此頃で、ホラ君の御寺に説教が有ましたらう。彼晩(あのばん)、遅くなつて省吾が帰つて来た。さあ、家内は火のやうになつて怒つて、其様(そんな)に姉さんのところへ行きたくば最早(もう)家(うち)なんぞへ帰らなくても可(いゝ)。出て行つて了へ。必定(きつと)また御寺へ行つて余計なことをべら/\喋舌(しやべ)つたらう。必定また姉さんに悪い智慧を付けられたらう。だから私の言ふことなぞは聞かないんだ。斯う言つて、家内が責める。すると彼奴(あいつ)は気が弱いもんだから、黙つて寝床の内へ潜り込んで、しく/\やつて居ましたつけ。其時、我輩も考へた。寧(いつ)そこりや省吾を出した方が可(いゝ)。左様(さう)すれば、口は減るし、喧嘩(けんくわ)の種は無くなるし、あるひは家庭(うち)が一層(もつと)面白くやつて行かれるかも知れない。いや――どうかすると、我輩は彼(あ)の省吾を連れて、二人で家(うち)を出て了はうか知らん、といふやうな気にも成るのさ。あゝ。我輩の家庭(うち)なぞは離散するより外(ほか)に最早(もう)方法が無くなつて了つた。』
次第に敬之進は愚痴な本性を顕した。酒気が身体へ廻つたと見えて、頬も、耳も、手までも紅(あか)く成つた。丑松は又、一向顔色が変らない。飲めば飲む程、反(かへ)つて頬は蒼白(あをじろ)く成る。
『しかし、風間さん、左様(さう)貴方のやうに失望したものでも無いでせう。』と丑松は言ひ慰めて、『及ばず乍ら私も力に成つて上げる気で居るんです。まあ、其盃を乾したら奈何(どう)ですか――一つ頂きませう。』
『え?』と敬之進はちら/\した眼付で、不思議さうに対手(あひて)の顔を眺めた。『これは驚いた。盃を呉れろと仰るんですか。へえ、君は斯の方もなか/\いけるんだね。我輩は又、飲めない人かとばかり思つて居た。』
と言つて盃をさす。丑松は其を受取つて、一息にぐいと飲乾(のみほ)して了つた。
『烈しいねえ。』と敬之進は呆(あき)れて、『君は今日は奈何(どう)かしやしないか。左様(さう)君のやうに飲んでも可(いゝ)のか。まあ、好加減にした方が好からう。我輩が飲むのは不思議でも何でも無いが、君が飲むのは何だか心配で仕様が無い。』
『何故(なぜ)?』
『何故ツて、君、左様ぢやないか。君と我輩とは違ふぢや無いか。』
『はゝゝゝゝ。』
と丑松は絶望した人のやうに笑つた。