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青眼鏡の男

时间: 2023-09-06    进入日语论坛
核心提示:青眼鏡あおめがねの男熱帯地方に棲息せいそくする蠍さそりという毒虫は、蜘蛛くもの一種であるけれど、伊勢海老いせえびを小さく
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青眼鏡あおめがねの男


熱帯地方に棲息せいそくするさそりという毒虫は、蜘蛛くもの一種であるけれど、伊勢海老いせえびを小さくした様な醜怪な姿をしていて、どんな大きな相手にも飛び掛って来る、凶悪無残の妖虫である。そいつが獲物を見つけると、頭部についている二本のはさみで、相手をグッとおさえつけて置いて、ふしになった尻尾しっぽを、クルクルと弓の様に醜くそらせて、その先端の鋭い針で、敵の体内に恐ろしい毒汁どくじるを注射するのだ。この毒虫にかかっては、人間でさえも気違いの様に踊り出して、踊り狂って、遂には死んでしまうということである。
この奇怪な物語の主人公は、その蠍である。イヤ蠍にそっくりの人間である。彼はそのことをむしろ得意に感じていたと見えて、蠍が背中を曲げて敵に飛びかかろうとしている醜い姿を、彼自身の紋章もんしょうとして使用したのだ。しかも、もっと不気味なことには、世人せじんは蠍の紋章を見せつけられるばかりで、それを使用している極悪人の正体を全くつかみ得ないことであった。身も心もきっと蠍の様に醜怪な獰悪どうあくやつに違いないとは想像しても、そいつの正体がまるで分らないものだから、目に見える蠍などよりは、幾層倍いくそうばいも気味悪く恐ろしく感じられた。新聞が「妖虫事件」という異様な見出しをつけて、この事件を報道したのももっともであった。そいつは「妖虫」の名にあたいする怪人物に相違なかった。
では「妖虫事件」というのは、一体どの様な出来事であったか、それを語るには、順序として、ず大学生相川守あいかわまもるの好奇心からおこすのが、最も適当かと思われる。
相川青年は、多くの会社の重役を勤め事業界一方の驍将ぎょうしょうとして人に知られている相川操一そういち氏の長男であって、大学法科の学生なのだが、彼の妹の珠子たまこなどが「探偵さん」という諢名あだなをつけていた通り、人一倍好奇心が強くて、冒険好きで、所謂いわゆる猟奇のであったことが、彼の長所でもあり弱点でもあった。ある晩のこと、日本橋区のある川沿いの淋しい区域にある、料理のうまいのと価の高いのとで有名なソロモンというレストランの食堂に、相川青年と、妹の珠子たまこと、珠子の家庭教師の殿村京子とのむらきょうことの三人が、食卓を囲んでいた。月に一度ずつ、珠子が兄を誘って、殿村京子をどこかへ案内して御馳走するならわしになっていて、今夜はソロモン食堂が選ばれたのだ。
珠子はまだ女学生であったから、けばけばしい身なりを避けていたけれど、でも鶯色うぐいすいろのドレスが美しい身体からだによく似合って、輝くばかりの美貌は人目をかないではいなかったし、兄の守も、同じ血筋の美青年で、金釦きんボタンの制服姿も意気に見えたのに比べて、殿村京子だけは、服装も地味な銘仙めいせんか何かで、年輩も四十を越していたし、その上容貌は醜婦と云っても差支さしつかえなかった。額が広過ぎる程広くて、眉が薄く、平べったい鼻の下に、上唇が少しめくれ上って兎唇になっていた。それを、青白くて上品な顔色と、知識のひらめきとが救ってはいたけれど。
「マア、先生、何をそんなに見つめていらっしゃるの」
珠子がふとそれに気附いて声をかけた。
その時は、もう食事が終って、コーヒーが運ばれていたのだが、京子はそれを取ろうともせず、なぜか異様に緊張した表情で、食堂の向うの隅を、じっと見つめていた。
その隅には、二人の中年の紳士が向合むきあっていて、その一人の大きな青眼鏡をかけた口髭くちひげのある男の顔が、こちらからは真正面に見えるのだ。ほかにも五組程の客があったけれど、それらは皆外国人の男女であった。
「先生、あの人を知っているんですか」
相川青年も妹の加勢をしてたずねた。
「イイエ、そうではないんですけれど、ちょっと黙っていらっしゃいね」
家庭教師は、目はその方を見つづけたまま、手真似をして二人を黙らせたが、帯の間から金色をした小型のシャープ鉛筆を取出し、そこにあったメニュの裏へ、何か妙な片仮名かたかなを書き始めた。
「アスノバン十二ジ」
京子はその青眼鏡の男から視線をそらさず、手元を見ないで鉛筆を動かすものだから、仮名文字はまるで子供の書いた字の様に、非常に不明瞭であったが、兄妹はメニュをのぞき込んで、やっと判読することが出来た。
「何を書いているんです。それはどういう意味なのです」
相川青年が思わず訊ねると、京子はソッと左手の指を口に当てて、目顔で「黙って」という合図をしたまま、又青眼鏡の男を見つめるのだ。
しばらくすると、鉛筆がタドタドしく動いて、又別の仮名文字が記された。
「ヤナカテンノウジチョウ」
それからまた、
「ボチノキタガワ」
「レンガベイノアキヤノナカデ」
と続いた。メニュの裏の奇妙な文字はそれで終ったが、鉛筆をとめてからも、やや五分程の間、向うの隅の青眼鏡ともう一人の紳士とが、勘定を済ませて食堂を立去ってしまうまで、京子の視線は、青眼鏡の顔を追って離れなかった。
「どうしたんです。わけって下さい」
京子のたださえ青い顔が一層青ざめていることと云い、この何ともえたいの知れぬ気違いめいた仕草と云い、ただ事ではないと思われたので、相川青年は、真剣な顔をして、ヒソヒソ声になって、きびしく訊ねた。
「守さん、あなた小説家を沢山たくさんご存知ですわね。今出て行った青眼鏡の人、小説家じゃありません?」
京子も声をひそめて、こんなことを云った。
「イイエ、そうじゃないでしょう。あんなきざな眼鏡をかけて、古ぼけたモーニングなんか着ている小説家なんてありませんよ」相川青年が答えた通り、その二人連れは、政党の下っぱか所謂会社ゴロという様な人種以上には見えなかった。
「そうでしょうか。でもおかしいわ。あれが小説の筋でないとすると……」
「あれって何です。何が小説の筋なんです」
相川青年は、もどかしそうに、しかしやっぱりささやき声でうながした。
「本当に恐ろしい事なんです。人を殺す話なのです。短刀で一寸だめし五だめし……ですって」
京子はゾーッと総毛立っている様な、寒々した表情であった。
「先生、夢でもごらんなすったのじゃありませんか。誰もそんな恐ろしい話してやいないじゃありませんか。こんな大勢人のいる場所で、……」
珠子が気違いをでもあやす様に云った。そういう彼女自身の美しい顔も、少し青ざめて見えた。
「イイエ、誰にも聞取れない様な、低い声で囁き合っていたのです。あなた方は、さっきの青眼鏡の二人連れが、給仕のすきを見て、ヒソヒソ話をしていたのを見なかったのですか」
そう云われると、なる程彼等は、如何いかにも人目をはばかる様に、顔を寄せて囁き合っていたに違いない。外の客からはずっと離れた隅っこであったし、外人達はてんでに大声で話し合っていたので、仮令たとえ内密話ないしょばなしでなくとも、彼等の会話を他人に聞かれる気遣きづかいはなかったのだが、それを更らにヒソヒソ声になって囁き合っていたのは、余程よほど秘密の相談であったとは想像出来る。だが、……
「では、あの二人がそんな恐ろしい相談をしていたとおっしゃるのですか」
相川青年が思わず訊ねる。
「エエ、そうなのです。私はそれをすっかり聞いたのです」
「聞いたのですって? あの遠方の囁き声を、それに、ほかの人達がこんなにやかましく云っているのに。いくら先生の耳がいいからと云って、そんな馬鹿な……」
やっぱりこの人は頭がどうかしているのだ、幻聴に違いない。それをさも誠しやかに考えているのは、気でも狂う前兆なのではないかと、兄妹は寧ろそれが恐ろしく感じられた。
「ここに書いた通り、あの青眼鏡の男がしゃべったのです」と京子はメニュを指さして、「その前の言葉は、ここへ書くひまがなかったけれど、実に恐ろしい事なのです。先ず最初、あの男は(いよいよやってしまうのだ)と云いました。その時の表情が非常に恐ろしく見えたものだから、私はオヤッと思って、注意し始めたのです。すると、その次には、相手の、顔の見えない方の男が何か云ったのに答えて、あの男は(薬なんかじゃない、短刀だ)と云いました。それから少したって又(短刀で一寸だめし五分だめしだ)と、憎々しく口をげて云いました」
「それが先生にだけ聞えて、あすこに立っているウェーターには聞えなかったとでもおっしゃるのですか」
珠子は腹立たしげであった。
「エエ、そうなのです。私にけ聞えた、イヤ見えたのです。私は声は聞えなくても、唇の動き方だけで、言葉が分るのです。読唇術どくしんじゅつ、リップ・リーディング、あれを私知っていますのよ」
「マア、読唇術ですって?」
「エ、リップ・リーディング?」
兄妹が同時に、思わず高い声を出した。
「エエ、そうなの。マア静かにして下さい。私はずっと以前、生れつき唖で聾の小さいお嬢さんをお世話したことがありましてね。そのお嬢さんについて、聾唖学校へ行き行きしている内に、とうとう読唇術を覚え込んでしまいましたのよ。で、なければ、そのお子さんを本当にお世話出来ないのですものね」
京子が手短てみじかに説明した。
「アア、そうでしたか。それを知らなかったものだから、びっくりしてしまった。すると何ですね。さっきの青眼鏡の男は、最初短刀で一寸だめし五分だめしにすると云ってから、このメニュに書きつけてある日と場所とを云った訳ですね。つまり、(明日の晩十二時)(谷中天王寺町)(墓地の北側)(煉瓦塀れんがべいの空家の中で)と」
相川青年は、メニュの仮名文字を判読しながら云った。今度は彼の方が真剣になっていた。
「マア怖い。そこで誰が殺されるのでしょう。一寸だめし五分だめしなんて」
珠子もゾッと恐怖を感じないではいられなかった。
「ですから、私、小説の筋でも話し合っていたのではないかと思ったのです。こんな所で、あんまり恐ろしい話ですもの」
「僕も大方おおかたそんな事だとは思うけれど、併し小説の筋にしては少しおかしい所もあるし、それに、こんな大勢人のいる食堂などが、かえってそういう秘密の相談には安全だとも云えるのです。しあの二人が、そこへ気がついて、本当に人殺しの相談の場所としてここを選んだとすると、実に抜け目のない恐ろしい悪党ですよ」
相川青年は珠子の所謂「探偵さん」の本領を発揮はっきして云った。そして、
「そんなことなら、もっと早く云って下されば、あいつらの跡をつけて見るのだったのに」
と如何にも残念そうであった。
彼は抜け目なくウェーターを呼んで、あの二人がここの常客かどうか、若し名前や職業を知らないかと訊ねて見たが、全く今夜初めての客で、名前など知ろうはずがないとの答えであった。
それから、三人はこのことを警察に告げたものかどうかについて、やや真面目に相談したが、結局それは思いとどまることになった。京子と珠子とは、ことなかれの女心から、余りに雲をつかむ様なり所のない話だから不賛成であったし、相川青年の方は、別にある下心があって、二人の中止説に同意したのであった。
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