“朝日新闻那个版面没有了这个栏目显得很寂寞”;“时时都能看到好文章,所以请继续登载”。10年前的那个春天,很多读者惋惜“应时之歌”停止连载,寄来了很多信件。很多人说“早上我最先看的是《应时之歌》而非《天声人语》”,这曾让本栏的作者感到非常羞愧。
1979年から中断をはさみつつ長寿連載を書き続けた大岡信さんが亡くなった。取り上げる詩歌の蓄積は連載1年目で尽きた。以後は作品選びの綱渡りが続いたという。
自1979年开始执笔这一长寿连载(曾有过中断)的大冈信先生去世了。他所积累的诗歌也在连载一年后用尽。据说在那之后,作品的选择就一直非常困难。
静岡県三島市生まれ。東京大を出て読売新聞社へ。パリ特派員の辞令が出た直後に社を去った。記者と詩人の二足のわらじが限界に達しつつあった。読売にとどまっていたら、16年後に「折々」は実現しなかったかもしれない。そう思うと、幼子を抱えた32歳の決断には感謝するほかない。
他出生于静冈县的三岛市,东京大学毕业后就去了读卖新闻工作。巴黎特派员的委任状一下来,他就离职不干了。他在记者和诗人之间游走,做得都非常出色。如果他一直留在读卖新闻,那么16年后的《应时之歌》或许就不会出现了。一念及此,我就由衷感谢他32岁那年怀抱幼子时做出的决断。
柿本人麻呂、藤原定家、松尾芭蕉――。先人の名を挙げて「すぐれた詩人は実作者、評論家、編集者の一人三役を兼ねる。私も彼らを目標にしてきた」と語った。
柿本人麻吕、藤原定家、松尾芭蕉……。他曾列举这些先人的名字并说,“优秀的诗人事实上是集作家、评论家、编辑于一身的。我也会以他们为目标。”
今月初め、親しい人々と自宅で花見を楽しんだ。車椅子でだんらんの輪に加わり、まなざしと涙で会話した。食卓の黒豆は、敗戦後に復員した北海道の農家が「詩に励まされた」と、何十年も送り続けてくれたものという。
本月月初,他曾和亲近的人在自己家里赏花,坐着轮椅加入其中,说话时眼角带着泪光。餐桌上的黑豆,是一位北海道的农民送来的。这位农民原是旧日本军人,二战战败后复员,因为“被他的诗歌所鼓舞”,所以几十年如一日一直送东西给他。
〈おおおかぁ/早すぎるとはもう思わない/でもおれたち二人の肉だんごもいつかは/おとなしくことばと活字に化してしまうのかな〉。親友谷川俊太郎さん(85)が2年前に贈った詩である。闘病の果てに豊穣な「ことばと活字」が残された。
“大冈啊,我不认为时间过得太快,不过我们两人的肉体是否,也有化为朴实的话语和铅字的一天呢?”这是2年前他赠给好友谷川俊太郎先生(85岁)的诗。在与病魔搏斗的最后,他留下丰富的“语言和铅字”。