刚开始在冲绳进行采访工作的时候,使我吃不准的是映入眼帘的姓氏。记得15年前我必须要采访一位姓“山入端”的先生。可是此姓该怎么读呢?于是,便用电话联系,“请问‘yamairiha’先生在吗?”。隔着话筒这么一问,才知道我露怯了。
正解は「やまのは」さんである。以来〈夕日のさして山の端(は)いと近うなりたるに〉と枕草子でめでられた情景が思い浮かぶ。東風平(こちんだ)さん、南風原(はえばる)さん――。こうした沖縄の名字を大和風に変える動きが、戦前戦後は盛んだった
正确的应读作“yamanoha”先生。从那之后,脑海里总会浮现出枕草子一书中所赞美的情景,<夕阳西照山影端,黄昏美景近眼前>。除此之外,还有诸如东风平(konichida)先生、南风原(haebaru)先生等等。将类似的冲绳人的姓氏更改成顺应大和民风的动向无论在战前还是战后都十分盛行。
本土での職探しなどで、沖縄出身とわかるだけでさげすまれる。ならばと、名を捨てて方言も禁じ、日本人らしくあろうとする。「本土並み」に焦がれ、しかしかなわぬ悲哀の中で、沖縄の人々は、自分が何者かを問うてきた
由于要在本土求职,只要知道你是冲绳出身就会遭到轻视。于是,纷纷抛弃了原来的姓氏,并禁止使用方言,想要做一个名副其实的日本人。尽管有急于“同本土看齐”之心,可是却往往不能如愿,在此令人生悲的情况下,冲绳人不免要问自己,究竟何许人也?
米施政権下から沖縄が復帰して、あすで45年になる。だが基地負担の「本土並み」は、はるか遠い。辺野古への移設について安倍政権は「1ミリも曲げることはない」と言い放つ。〈基地を持ってお帰りくださいと声震えバスガイド言う旅のわれらに〉古谷円
到明天,冲绳从美国行使政权的状况下回归日本已经整整45年了,然而,在基地负担方面,“同本土看齐”则还非常遥远。关于搬迁至边野古的问题,安倍政权则公开扬言,“连1毫米都不能走样”。<带着基地回老家,冲绳不再需要它,导游激愤声微颤,对我游客说真话>古谷円创作。
復帰前、大田昌秀・元知事は、国益のためと沖縄に犠牲をしいる姿勢を「醜い日本人」と表現した。そして今。沖縄の基地反対の声は事件や事故への怒りだけではない、と作家の高村薫氏は『作家的覚書』で言う。その底流には「憎い日本」という負の感情がある、と
回归之前,元知事大田昌秀就为了国家利益牺牲冲绳的做法采用了“丑陋的日本人”一词来表述。继而到了今天,作家高村熏女士则在《作家式备忘录》一书中叙述道,反对冲绳基地的声浪并不只是对于一系列事件以及事故所表示的愤慨。在其底部流淌着“可憎日本”的负面感情。
県民みながそうではあるまい。だが本質は突いている。「みにくい」から「にくい」へ。私たちは45年で、わずか一文字しか返上できていない。
当然,所有县民决不会都如此,然而,本质还是抓住了。从“丑陋”发展到“可恨”。这45年来我们也就在这一点上前进了一步。