一口(いもあらい) (京都府久く御み山やま町)
天然痘を治すために使われた、池にまつわる「一口」の起源
東京都千代田区には、「一ひと口くち坂ざか」という坂道がある。そこはかつて、「いもあらいざか」と呼ばれていたが、現在は「ひとくちざか」という、文字どおりの読み方に変わっている。これについては4章でも紹介するが、京都にはいまでも、「いもあらい」という読み方をする地名が存在している。
東京都千代田区には、「一ひと口くち坂ざか」という坂道がある。そこはかつて、「いもあらいざか」と呼ばれていたが、現在は「ひとくちざか」という、文字どおりの読み方に変わっている。これについては4章でも紹介するが、京都にはいまでも、「いもあらい」という読み方をする地名が存在している。
京都府南部に位置する久く世ぜ郡久御山町は、「承久の乱」や「元弘の変」の戦場となったことでも知られる町。「いもあらい」と読む「一口」は、この町の北西部にある地区だ。
中世の軍記物『平家物語』には、源義経が「淀、一口に向かうべきか、河内路に向かうべきか、水の落足を待つべきか、いかにせん」と発言したことが記されているが、一口が戦略上の要地だったということはもちろん、歴史的にも意義が深い場所であったことを、うかがい知ることができる。
それでは、そもそもなぜ、この地が「一口」、それも「いもあらい」という不可解な読み方をするようになったのかというと、諸説あるなかの一つではあるが、次のようなものがある。
かつてこの地に存在した「巨お椋ぐら池」のほとりにあった小さな村は、三方が池に面していたため、村の出入口は、必然的に一か所のみだった。つまり、それが「一口」の起源となったという。また、その池は、古くは「いも」と呼ばれていた「疱ほう瘡そう(天然痘)」を洗う(治す)ために使われた池だったことから、「疱瘡を洗う」という言い回しが、「いもあらい」となったのだ。
そしていつの頃からか、その村は、「一口」と書いただけで「いもあらい」と呼ばれるようになり、それがそのまま、地名として定着したというわけだ。
なお、一口の誕生に大きく関わっていた巨椋池は、一九三五(昭和十)年から一九四一(昭和十六)年にかけておこなわれた大規模な干拓事業によって、農業用地に姿を変えており、かつては淡水漁業も盛んだったというその池の姿を見ることは、残念ながらもうできなくなっている。