自動車に乗る人は自動車の目になって物を見てしまう。自転車を利用する人は自転車の目を自分から取り外すことができない。そしてそれらの目が歩行する目と大きく違うとしたら、それは地上を移動していく速度が異なるからだ。
たとえば、自動車で走り去る人には古い土塀の表面がはげ落ちた跡にどんな表情が浮かんでいるかを楽しむことができないだろう。自転車のペダルを踏む人は、石垣の隙間からはい出している草の花を咲かせようとする気配を見落としてしまう。歩く人は字の消えかかった看板にも、破れた垣根の奥の光景にも、一つ一つ向き合うことができる。そして目の中に入れたものをゆっくりと咀嚼しながら考え考え足を運ぶことができる。
その逆に、自動車に乗ってスピードを出せば出すほど、前方視界が両側から絞られて狭くなることが知られている。(1)速度によって失われるものは、僕らが考えている以上に大きいかもしれない。この速度のもつ不自由さという点では、(2)自動車と徒歩の違いに似た関係が、テレビのように電波によって送られる映像や音声と、活字によって刷られた紙面との間にあるように思える。
問1 (1)「速度によって失われるもの」とあるが、具体的にはどのようなことか。
1.車や自転車を使わないと、目的地に着くのが遅れ、時間の無駄が生じること。
2.歩けば目に入る光景も、自動車や自転車では見落としてしまうこと。
3.スピードを増やすほど視野が狭くなり、動作も不自由になること。
4.車や自転車では季節の移り変わりを楽しむことができないこと。
問2 (2)「車と徒歩の違いに似た関係が、テレビ......刷られた紙面との間にある」とあるが、自動車とテレビはどんな共通した「速度のもつ不自由さ」があるのか。
1.得た情報をゆっくり咀嚼しながら考える余裕がない。 2.入ってくる情報量は多いが、内容の深さがない。
3.スピードが速くて、若い人でないと、ついていくのが難しい。4.目と耳からの感覚的な情報が中心で、思考力が低下する。