時折、外国人に招かれてパーティーに出席することがある。
率直に言えば、私はこの種のパーティーがあまり好きではない。理由は簡単。外国語が堪能に話せないからだ。話が聞けず、みずから話せない者にとってパーティーが楽しかろうはずがない。
それだけならまだしも我慢するのだが、同席の日本人の中に滅法外国語の巧みな人がいて、この人が、
「オー、イズ・ザッ・ソウ、ワンダフル」
などと、まことに流暢《りゆうちよう》に話す。
こっちが下手クソの英語を使おうものなら、
——なんだ、場違いの野郎が来て——
ひがみかもしれないがそんな眼差《まなざ》しでチラリと見る。その目つきのいやらしさよ。異国の空の下で頼みの同胞に裏切られたような気がして、悲しい。
こんな私でも外国語を読むことなら、人並みにチャンとできるのだ。
これは多分私だけではあるまい。古い外国語教育を受けた世代はみなさん、
「読むのはできるんだが、話すとなると……」
と、頭をかく。
発音がなっていない。したがってヒアリングが心もとない。
中学生の頃から習い始めて十有余年、苦労に苦労を重ねた結果が、このざまではまことに情けない。なんのために刻苦勉励したのかと無念である。だから�読むこと�中心の英語教育は間違っている、とよく言われる。
だが、お立ちあい。本当にそうだろうか。�読むこと�主体の外国語も欠点ばかりとは言えないのではないか。昨今は、さながら魔女裁判かなにかのように、�話せない�外国語を糾弾する傾向が強いので、一言弁明したい気にもなって来る。へそ曲がりのところもあるんですね、私は。
そもそも——と気張るほどのこともないのだが——だれだって原書を読むとなると、一語一語丹念に読み拾い、論理を追い、「ハハーン、そういうことを言っているのか」と、合点する。時には隔靴掻痒《かつかそうよう》、なにを言っているのかあまりよくわからんこともあるけれど、そんなときでも自分なりに適当な論理を組み立てて読み進む。こうして一冊読み終えると、著者がなにを言おうとしているのか、多少の誤解はあるにせよ、とにかくその発想の拠《よ》りどころから論理の進め方まで、しつこいほどよく身についてしまう。
明治このかた日本が西欧文明の真似ごとをしながら、なにかそこに新しい独自のものを付加しえたのは、こういう操作と決して無縁ではなかった、と私は思う。
アジア諸国の中には日本人よりはるかに巧みに西欧語を話す民族がいるけれど、日常会話がうまいだけでは、ただの召し使いか物売りにしかなれない(言い過ぎがあったらゴメンナサイ)。西欧文化の発想と論理を盗み取り、さらに自分の発想と論理を創造するためには�話す�だけの外国語ではむつかしい。こみいった思考はやはり文章を読んで熟慮しなければ理解できない。
しかも語学力が百パーセント正確でないため、かえってあれこれ想像したぶんだけ新しいものを考え出す余地がある。誤読は誤読なりに論理の筋が通っていれば、それ自体一つの創造である。
独り書斎にたてこもり、原書を紐解《ひもと》きながら、まだ見ぬ外国のことを�ああでもない、こうでもない�と想像していると、そこに一つのイメージが生まれて来る。なにしろ�見たこともない�世界のことだから、イメージは実像とずれているところも多いだろうが、大ざっぱな言い方をすれば、こうして得たイメージに托《たく》して作られたのが明治以降の日本文化ではなかったのか。
これを否定するのは、現実を無視することであり……となれば�読むこと�中心の外国語もそれなりに価値があったのである。もちろん私は�話す�外国語の重要性をけっして軽視するつもりはないけれど、�読む�外国語はいぜんとして今後も話す以上に大切なのではないか、とさえ考える。
日常会話ならばアメリカ人相手にそつなく話すけれど、さて、それじゃあ、
「この英語の専門書を一冊読んで要旨をまとめてくれ」
と言われたとたん、尻ごみするような脳味噌は——昨今の若い人にはどうもこの傾向が強いのだが——それほど役に立つものではあるまい。
日常会話くらいなら、なんにも外国語がわからなくたって、表情と身ぶり手ぶりである程度伝達することができるものだ。�読む�外国語は�話す�外国語ほどカッコウよくはないけれど、ボクシングのボディ・ブロウのようにじわじわと効いてくるところがある。
原書を読むことばかりではない。
なにかを本当に理解し、そこに自分の想像力を加えて享受しようと思うなら、やはり�読むこと�ほど有効な武器はないし、それも�ゆっくり読む�のでなければ効果が薄い。
恋人からの電話もうれしいけれど、ラブレターをためつすがめつ読むのも悪いものじゃない。もっともこれは�精読�したわりには想像力を駆使し過ぎて、ずいぶんと�誤読�した場合が多かったような気もするけれど……。