風が冷たい。歩道の水たまりが凍りつき、商店街のネオンを映して赤く輝く。
通行人はみんな首をすくめ、一刻も早く暖かい家に帰ろうとしてせわしなく足を運ぶ。
「寒いねえ」
「寒いわねえ」
知った顔に出あっても、同じ言葉を言いあって、いそいそと遠ざかる。路上のごみが風に乗ってクルクルと輪を作った。
今日子も急ぎ足だった。病気の母に頼まれて駅むこうの病院まで薬を取りに行った帰り道。お使いはいやではないけれど夜道は少しこわい。商店街を過ぎれば、あと家までは暗い坂道になる。来るときもこわかったけれど、帰るときはもっとこわい。だれか同じ方向へ行く人がいないかしら。だれかが来るまで待ってみようかしら。
「いかがですか、チョコレート。いかがですかチョコレート」
縮んだ声が響く。
商店街の角はお馴染のお菓子屋。いつも菓子パンを買う店。好物のスナックを買う店。きょうはその店の前に店員がひとり寒そうに立って通行人に呼びかけている。足を止める客は少ない。
「あしたはバレンタイン・デーですよお」
少しやけになって叫んでいる。
——ああ、そうか、あすはバレンタイン・デーなのか——
今日子は赤いえり巻きの中で首を傾げる。
つい先日までバレンタイン・デーがどういう日か知らなかった。それを教えてくれたのは、もの知り博士の夏枝だった。
学校の昼休み、屋内運動場の日だまりに腰かけながら、
「もうすぐバレンタインね」
と言って今日子の顔をのぞきこんだ。
「ええ……」
うなずいてはみたものの、バレンタインがなにかわからない。
「知らないの?」
くやしかったけど、�聞くはいっときの恥、聞かぬは一生の恥�そんなことわざもあるではないか。
「なんなの?」
「二月十四日よ」
「うん?」
「この日にはネ、女の子のほうから好きな男の子にチョコレートをプレゼントしていいの」
「それで」
「それで? それでおしまいよ」
「なーんだ。つまんないじゃない」
「つまるわよ。だって、女の子のほうで自分の好きな男の子を指名できるんだもん」
「ああ、そうか」
あのときはすぐにはバレンタイン・デーのすばらしさがわからなかったけれど、時間がたつにつれ、
——なるほど。それもわるくないな——
と思うようになった。
いまのところ今日子の胸の中には�これは�と思うボーイフレンドはいない。同じクラスの滝谷《たきや》君、中学校のとき仲のよかったサトシ、それからいとこの伸彦《のぶひこ》ちゃん。みんなきらいじゃないけれど、どの男の子も恋人とはほど遠い感じ。チョコレートを贈って、
「あなたが好きです」
と告白するような相手じゃない。今日子も高校二年生。遠くない将来にきっとそんな相手が現れるだろうと期待している……。そう信じてもいるけれど、それはたぶんこの三人のうちのだれかではあるまい。
——夏枝はだれに贈るのかしら——
信号を待ちながらお菓子屋の店先を見ていると、女子大生みたいなふたり連れがキャッ、キャッと笑いながらハート型のチョコレートを十個くらい買っている。
——あんなにたくさんいろいろの人に贈っていいのかしら——
今日子ならたったひとつを、たったひとりの人に贈りたいと思う。
「お嬢さん、どうですか」
店員が今日子を見て声をかけた。
頬がポッと赤く染まる。
——いえ、いいんです。私、好きな人なんかいませんから——
うまいぐあいに信号が青になったので、今日子は店員に背を向け横断歩道をかけ足で走った。
花屋の角を曲がると、だんだん人通りが少なくなる。
「おや?」
今日子は小さく声をあげた。
さびしい坂道の登り口のところに自転車が止まっている。荷台のところにすりガラスの囲いがあって、中に灯がついている。すりガラスは中の光を受けてステンド・グラスのように華やかに輝いている。自転車はみすぼらしいが荷台はとても美しい。
なにかを売る人だとわかったが、いままでにこんな行商人を見たことがない。
——なにかしら——
駈け足をやめ、ゆっくりと近づいておずおず覗いてみると、自転車のかげに外国人のおばあさんが寒そうに立っていた。
周囲にはほかにだれもいない。
「チョコレートはどうですか」
おばあさんはかなり上手な日本語で言う。
——ああ、そうか。バレンタイン・デーが近いのでチョコレートを売って歩いているんだわ——
外国ではこんなふうに自転車に乗って売り歩く習慣があるのかしら。わからない。
「とてもすてきなチョコレート。あなたの好きな人に贈りなさい」
おばあさんは愛想笑いを浮かべながらじっと今日子の顔を見つめる。
オーバーのポケットにはお金がはいっている。いくらのチョコレートか知らないが、買って買えないことはなさそうだ。
——こんな人通りの少ないところで売っていて、ちゃんと売れるのかしら。ひと晩のうちに、いくつ売らなければいけないのかしら——
また冷たい風が吹き抜ける。おばあさんはブルッと身を震わせる。なんだか顔色も青ざめているみたい。
今日子は�マッチ売りの少女�の物語をふと思い出した。
——おばあさんには燃やして体を温めるマッチもないんだし——
でも、チョコレートを食べれば栄養になるのかな。
「さ、ひとつ、どう。お嬢ちゃん」
「いくらですか」
お菓子屋の店先ではとんと買う気にならなかったのだが、おばあさんの寒そうな姿を見ていると、つい気の毒になって今日子は尋ねた。
「ひとつ二十円ですよ」
「じゃあひとつだけ」
「はい、はい。ありがとうございます。あすはバレンタインのお祭りですからね」
「ええ」
チョコレートは銀と赤の格子模様の紙に包まれている。
「これをあなたの大好きな人に贈りなさいね。あなたの気持ちはきっとその人に通じますよ。その人はあなた以外の人をけっして好きになりませんよ。あなたのことだけを愛してくれますよ」
「はい……」
戸惑《とまど》いながら今日子はうなずく。
「だから、よく考えて本当に好きな人にあげなさいね。忘れちゃあいけませんよ」
「はい……」
おばあさんは巫女《みこ》のように低い声で呟く。
なんだか気味がわるい。空の星が一瞬輝きを増したのではなかったか。あたりに不思議な気配がたちこめたのではなかったか。
今日子は急いで坂を駈け登った。うしろも見ずにひと息で走った。
「よかった」
思わずそう呟いてしまう。
坂のてっぺんからふり返ると、もう自転車は走り去ったのか、あの華やかなすりガラスの光はなかった。
——だれにあげようかしら——
夜、布団にはいってからも今日子はずっと考えつづけた。
——滝谷君にしようか——
いや、滝谷君は女生徒に人気があるからきっと大勢からもらうだろう。いい気になっている男を、さらにいい気にさせちゃうのは癪だし……それに、夏枝も滝谷君のことが好きなんだから私が横から邪魔しちゃあわるいし……。頭の中で滝谷君の名前の上に×印をつけた。
——じゃあ、サトシはどうかな——
中学校のころはいろんな話をしたけれど、学校が変わってしまってからは、もうひとつピンと来ない。このあいだ同級会のときに会ってみて、まるで話が噛みあわないのには驚いた。もう過去の友だちなんだわ。ペケ。サトシの上にも×印をつけた。
——いとこの伸彦ちゃんは……ダメよねえ——
これも考える余地がない。そりゃ親類の人だから昔から親しくしているけれど、どう考えてみてもボーイフレンドとか恋人とかいうタイプじゃない。まあ、言ってみれば�兄さん�みたいなもの。恋愛ごっこの相手くらいにはなるかもしれないけど、まじめな関係ってわけにはいかないわ。
——結局、だれもいないじゃない——
思案のすえ結論はいつもそこへたどりつく。
チョコレートは手に入れたけれど肝心の相手がいそうもない。だれか思いがけない人に贈ってみようかしら。
——すると、その人がたちまち私のことを好きになってしまって——
ウフフフ、わるくないな。
急におばあさんの声が耳の中で響く。
「これをあなたの大好きな人に贈りなさいね。あなたの気持ちはきっとその人に通じますよ。その人はあなた以外の人をけっして好きになりませんよ。あなたのことだけを愛してくれますよ」
馬鹿らしい。おばあさんはやけに自信ありげに言ってたけど、そんな迷信を信ずるわけにはいかないじゃないの。
でも、考えてみるだけなら楽しい。そうだ、タレントのKさん、あの子に贈ってあげようかしら。いま、女子高生たちはみんな夢中になっている。甘いマスクだし、歌はうまいし、やさしそうだし……頭の中身だってKさんは中学で優等生だったんですって……。あんな人とお友だちになれたらうれしいな。
——よし、このチョコレートはあの人に贈っちゃおう——
今日子はそれまでにKさんはもちろんのこと、ほかのタレントにもファン・レターひとつ書いたことがなかった。でも、初めてのバレンタインのプレゼントを彼に贈ってみるのもおもしろい。
「それに決定」
布団から抜け出し、銀と赤の包み紙の上にさらに白い紙を巻いてプレゼントの小包を作った。
その夜はKさんの夢を見た。夢の中でふたりはいつまでも公園のベンチですわり続けていた。
翌日、雑誌の付録でKさんの住所を調べ、今日子がバレンタイン・デーのチョコレートをKさんに送ったのは言うまでもあるまい。
それから長い、長い歳月が過ぎた。
今日子は平凡なサラリーマンの妻になり、ふたりの子どもはそれぞれに中学と高校に通っている。
「おかあさん、お金を貸して。ね、お願い」
と、長女がせがむ。
「なんに使うの?」
「あすはバレンタイン・デーでしょ。チョコレートを買うの」
このごろの女の子は大量にチョコレートを買って男生徒にバラまくらしい。
遠い記憶が今日子の胸にもどって来る。
——あのときのチョコレートはどうなったかしら? おばあさんはなにものだったのかしら——
かすかに魔法使いのような印象を宿した老婆だった。得体の知れない外国人だった。その後、見たこともないし噂を聞いたこともない。どんな顔だったかしら。はっきりとは思い出せない。
——ずいぶん昔のことですものね——
遠い日の情景がなつかしく胸にもどって来る。
タレントのKさんは……そう、あのあと少し落ち目になったけれど、すぐにアメリカン・ポップスのヒット・ナンバーをたずさえて華やかにカムバックをした。俳優として映画や舞台で活躍するようになった。いまでは芸能界の第一人者として君臨《くんりん》している。
ただ、不思議なことに彼には妻がない。愛人もいないらしい。浮いた噂ひとつないのはどうしたことなのか。記者たちにそのことを尋ねられると、彼はいつも言うのだった。
「ええ。捜している女《ひと》がいるんですがね。ずっと昔、夢の中で見た人なんだけど……どこにいるのか、どういう人なのか……馬鹿らしいけど、とにかくその女以外はぜんぜん興味がわかないんだ」