「課長。ご面会です」
受付の女子社員が名刺を持って来たが、アズマ氏はその名前に覚えがなかった。名刺の肩書には�未来調査コンサルタント�と記してある。市場調査でも請け負う業者なのだろうか?
「とりあえず応接間へご案内してくれ」
アズマ氏が上着を着て応接間へ行くと、スマートな背広に身を包んだ若い男が立っていた。
「アズマです。どういうご用件でしょうか?」
「昨日はどうも。いかがですか、今朝のご気分は」
アズマ氏がいぶかしそうな顔をすると、男はなれなれしい口調で続けた。
「いやですよ、課長さん。お忘れになったんですか。昨夜スナックでお会いしたばかりじゃありませんか」
こういわれてアズマ氏はもう一度男の顔を見つめた。
——あれは、夢ではなかったのか——
男は楽しそうに笑っている。
「夢だと思っていらしたんでしょう」
「ええ……まあ、いや……」
アズマ氏の心に昨夜の記憶がよみがえってきた。
アズマ氏は四十五歳。二流どころの商事会社の国内市場課長である。趣味は麻雀。それ以外にはない。昨夜も客の相手をして十一時過ぎまで卓を囲んだ。それから車を待つあいだ雀荘の地下にあるスナックに寄ってブランデーを何杯か飲んだ。そのうちにウトウト眠ったつもりでいたが、どうもそうではなかったらしい。いま目の前にいる男が、どこからともなく現われ、話しかけたように思う。
「先ほど二階で麻雀を見せていただきましたが、見事でしたね」
「いや、それはどうも……」
「九連宝灯を作りましたね」
「ええ。でも二度目なんですよ、あの役は」
「コンピューターの調査によれば、約七万三千回打って一回できる確率です」
「ほう。そうですか。天和はどのくらいの率なんですかねえ」
アズマ氏は二十年以上も麻雀を打ち続けているので、大ていの役満は一度や二度経験したことがあったが、どうしたわけか天和にだけは恵まれなかった。�あんなもの、実力には関係のない役じゃないか�そう思ってはみても、やはり天和の魅力は格別だった。どんなルール・ブックにも、まず第一に記されているこの輝かしい役満を体験したことがないのは、とりもなおさずまだ麻雀打ちとして半人前のような気がしてならない。しかも、自分で作ろうと思って作れる役ではないだけに一層はがゆいのだ。
「天和ですか? あれは約五万回に一回です」
「まだ、やったことがないんですよ、私は」
「お望みなら私が作らせてあげましょうか?」
「えっ?」
昨夜の記憶はどうもこのへんからあまりはっきりしないのだ。ブランデーに酔ったのだろうか? 夢だとばかり思っていたのに……。
応接間のソファーに腰をおろした男は、アズマ氏の心を知っているかのように話を続けた。
「それで……課長さんがぜひ天和を作ってみたいとおっしゃったので、私が請《う》け負《お》ったんじゃありませんか」
「天和を請け負う? それはどういうことかね?」
どこか胡散くさい男だ。なにか企みがあるのかもしれない。アズマ氏は少し気色ばんで男の顔をにらんだ。
「それで早速実験してみましたところ、この通り天和ができまして……これが、そのあがった形です」
男は黒いカバンの中から書類を引き出してアズマ氏の目の前に広げた。紙の上方には、コンピューターが打ち出したような記号が並び、その下に十四個の麻雀牌の図が手書きで添えてある。
アズマ氏はその紙をチラッと見て迷惑そうにいった。
「あなたのおっしゃることはサッパリわからない。いまは仕事がいそがしいので、あとにしてくれませんか」
「いえ、それは困ります。課長さんだって、私にお願いになったのを覚えておられるでしょう」
そういわれてみると、夢とも現実ともつかない、おぼろな意識の中でそんなことを願ったような気がしないでもない。だが、ここでつけこまれては、後で碌なことはなさそうだ。アズマ氏は椅子から腰を浮かせて、
「とにかく仕事がいそがしいので」
「しかし、こちらも手間ひまをかけて実験をしたのですから」
「どんな実験を?」
「私どものコンピューターと、アズマ課長さんとを同調させまして」
「同調?」
「はい。姓名判断、八卦、星占いなど、和洋の運命学のエッセンスを総動員して、課長さんの勝負運を数式化し、これをコンピューターに組み入れ……ま、やさしく申しあげればコンピューターを細工してアズマ課長に成り変ってもらいます。そして、そのコンピューターに何百回、何千回、何万回と麻雀を打ってもらうのです。課長さんは眠っていらしても、コンピューターのアズマ課長は休みなく麻雀を打ち続け……」
「そんな馬鹿な」
「いえ、本当です。しかし、ご自身でおっしゃる通り課長さんは天和には縁の薄いほうですね。四万六千九百二十三回目にようやく天和に当たりました。これは一日平均半荘二回の麻雀をやり……これは課長さんの平均的なペースですが、その半荘二回の間に荘家に七回なるといたしますと、ざっと六千七百三日、つまり今日から数えて十八年ほど後になります」
「キミ、ちょっと……」
アズマ氏がさえぎろうとしたが、男はドンドン続けた。
「十八年といってもコンピューターにすれば、ほんの五分足らずのことです。それで……たった一時間ほど前に、この通りの手牌でコンピューターのアズマ課長さんが天和をあがったわけで、つまり、アズマ課長さんが天和であがったのと同じことなのです。どうもおめでとうございます」
男は深々と頭をさげた。
アズマ氏は男の顔をつくづくとながめた。
——こいつ、狂人かもしれない——
アズマ氏は立ち上った。
「とにかく私には関係のないことです。帰ってください」
「しかし、調査費だけでもいただきませんと……」
と言う。
——なるほど。それが目的なのか——
ゆすりにしては、どこか間が抜けているが、それ以外には考えられなかった。
アズマ氏は男をにらみつけるようにしてキッパリといった。
「たとえコンピューターの私が天和を作ったところで、そんなことは私となんのかかわりのないことです」
「しかし、課長さんがご依頼になったのは確かです。ご記憶があるでしょう」
「昨夜、もし私が何かあなたに話したとすれば、私がこの手で天和をあがってみたいということ、それだけです。コンピューターなんか……さ、帰ってください」
「そうですか」
男は案外すなおに席を立った。そして二、三歩ドアのほうに向かったが、急に振り向いて、
「では、そういたします。課長さんのご希望にそえるようにいたします」
こういってあたふたとドアの外に消えた。
「陽気がおかしいんで頭に来たんだろう。それにしても、あれは夢じゃなかったのか」
アズマ氏は机の上に目を落とし、紙の上に書かれた麻雀牌の上り図をながめていたが、ポイッと紙くず箱に投げ入れて応接間を出た。
その日の夜もアズマ氏は親しい仲間といっしょに雀荘で卓を囲んだ。
連荘をしていた起家《チーチヤ》が流れ、南家のアズマ氏が親になった。
「さあ、稼がせてもらおうかな」
サイコロを振ろうとした時、アズマ氏は雀荘の片すみに今朝の男が立っているのに気がついて、顔を曇らせた。男はアズマ氏に向かって意味ありげな目くばせをしている。
——あの野郎、またこんなところに来てるのか。いやな奴だ——
アズマ氏は男を無視してサイコロを振った。サイコロの目が七を示し、アズマ氏の手が対面の山に伸びた。一瞬、アズマ氏は暗いめまいのような感じを覚え一、二度手のこぶしで頭を叩いたが、さして気にすることもなく配牌を見渡した。
「はて……?」
アズマ氏の手が止まった。
「どうした?」
「いや、ちょっと……」
アズマ氏の目がまるで信じられないものを見るようにカッと見開いた。
——あの形だ!
なんという偶然だろう。目の前には今朝あの男が見せたのと同じ形に牌が並んでいる。
「どうしたんです、アズマさん」
三人の声にうながされて、アズマ氏は牌を倒した。
「天和だ」
「えっ、本当に?」
「これは……すごい」
だが、そのとき対面の男が一きわ甲高い声をあげた。
「アズマさん、どうしたんです!」
「どうしたって……天和ですよ」
「いや、天和はともかく……」
「あ、これは……本当にどうしたんです?」
三人の男たちの目が卓上の牌を離れて、自分の顔を見つめているのに気づいた。
アズマ氏は自分の手の甲を見た。それから頬を撫で、あわてて部屋のすみにある鏡に走った。
「…………」
あの男が近づいてきた。
「ご満足でしょうか。天和までにはどうしても十八年必要だったんです」
鏡の中には、しわの深い、白髪の男が立っていた。