横浜のGホテルを出て山下公園の門の前まで来たとき、私は急に心の奥底からひたひたと滲《にじ》んでくる不思議ななつかしさを覚えた。公孫樹《いちよう》並木はパラソルにも似た異形の葉をハラハラと風にこぼしていたが、その肌寒い晩秋の風情の中にも、遠い日の夢に似たかすかな思い出があった。
とはいえ私が横浜に来たのはその日が初めて……いや、正確にいえば二度目のことだった。
初めて来たのは三年ほど前の夜半過ぎ。たまたま中華街の近くを車で通りかかり、急に空腹を覚えて小さな菜館に立ち寄ったことがあった。薄汚いひどく陰湿な感じのする店だったが、料理はすてきにうまかった。特に店主推奨の煮込み豆腐は、今でも喉の奥にその味と感触が残っているほどだ。ブヨブヨに煮くずした灰白色の豆腐は、日ごろ食い慣れた日本の豆腐とはちがった、もっとねばっこい濃厚な味わいがあった。材料からして違うのかもしれない。私はその豊饒な味に魅せられ、深いドンブリの底までタップリと味わった。
しかし、あの夜の思い出といえば、ただそれだけ、ほかには何一つとしてない。公孫樹並木も、かすかに漂う海の香りも、踏みしめる歩道の響きも、すべて私には無縁のことのはずであった。
私はGホテルの前に掘られた小さな地下道に入った。人気ない博物館の回廊に似たこの地下道にも記憶があった。地下道を抜けて公園に入ると海の香りがサッと浸み込む。それに混ってほのかな香水の匂いが鼻を打った。
「女がいたらしい。それも美しい女が……」
私はこの公園に女と来たらしかった。二人は海辺まで進んでボンヤリと氷川丸を見つめていた。女の悲しい眼《まな》差《ざし》が、おぼろな形で私の眼の奥に像を結んでいる。
たしかに、たしかに、この風景に見覚えがある。しかし、どう考えてみても私がここへ来たはずはなかった。どこか似たような港町ではないか? 神戸? 新潟? いや、そうではない。私が来たのはたしかにここだった。
記憶の中で女が私を差し招いた。
「人目につくわ。アパートへ帰りましょうよ」
「キミのアパートへ?」
「ええ。今晩、主人は帰らないわ」
女は人妻らしかった。艶に輝いた眼がイタズラっぽく笑って、それから急にさびしそうに伏せた。
二人はもう一度地下道を抜けて公園の外に出た。私は記憶の糸をたぐりながら二人の跡を追った。歩きながら私は警察犬が匂いを頼りに犯人を追っていくのは、ちょうどこんな作業なのではあるまいかと思った。路傍の電話ボックスに、くずれた塀に、望み見たマリンタワーの角度に……一つ一つ、かすかな思い出があって、私はただその跡をたどればよかった。
五分ほど歩くと私は薄茶けた小さなビルの横手に出た。
「そうだ。このビルだった」
何が、どうして、このビルなのか、私にはわからなかった。だが、とにかくこのビルにちがいなかった。記憶の中で女が口を開いた。
「ここで待って。三階の二号室。あのオレンジ色のカーテンの部屋なの。あたしが先に行って、よかったらカーテンを開けるわ。そしたら上がって来て……」
「三階の二号室だね」
いま眼の前にあるビルはすっかり廃墟と化している。〓“××重工社員寮建設用地〓”と白いペンキ塗りのボードが立っているところを見ると、近く取りこわして新しいビルを建てるつもりなのだろう。赤茶けた窓わくにはガラスもなく、長い西日の影の中で野良犬が二匹、最前からしきりにつがっていた。
その時、私の眼の奥でオレンジ色のカーテンが開いた。女が窓辺にほの白い頬を寄せて手を振っている。それを合図に私は廃墟の階段を昇った。階段はアパートの北側に造られていて、ひどく暗かった。しかも冷たい晩秋の夕風がこわれた窓を抜けて吹き込む。その暗さ、その冷たさにもなつかしい思い出があった。
私がこれから訪れるアパートは3DK、ドアを開けるとすぐに絨《じゆう》毯《たん》を敷きつめた広間があり、その奥に厨房、そのさらに奥に二つ部屋が並んでいて、一方がベッド・ルームになっているはずだった。
「そうだ。女の主人は、たしか中国人だった」
客間をかねた広間の飾り棚には青磁の壺や朱色の石彫人形が飾ってあった。
三階の二号室——ドアにしるされた文字もいまはほとんど見えなかった。崩れかけたドアを蹴破って中へ入ると室内はすっかり荒れ果てていたが、まさしく記憶どおりの間取りが私の目の前に続いていた。横浜——女——アパート、何一つとして知るはずがなかった。しかし、それは私の心の中に確として存在していた。
風に吹かれたドアがにぶいきしみをあげて締まった。女はあの時もドアが締まるのを待ちかねたように身を寄せて来た。甘やかな髪の香りと荒い息づかいがよみがえってきた。
「あなたにめぐりあえるなんて」
「あんなに愛していたのに……なぜ……」
女はしっとりと潤んだ眼で私を見上げていた。女の顔の輪郭が私の中で少しずつはっきりした姿をとり始めた。黒眼がちの大きな目、形のよい唇、美しい女だ。かすかに触れ、そしてヌメヌメと入り込んで来た熱い舌の感触までが、たしかに思い出されるのに、その女は私にとって見たこともない女だった。
「うちの主人は嫉妬深いの。見つかったら、あなた、きっと殺されてよ」
「悔いやしないさ」
「ほんとう?」
「うん」
「うれしいわ」
よしない会話のすえ、やがて女は男を寝室に招じ入れた。薄桃色のバラを散らした寝具の上に女は倒れ、ゆるやかに身を開いた。私の手が女の肌を滑った。静かな高まりが女の体を震わせ、あるかなしかの体臭が漂った。なめらかな絹にも似た暖かいぬめりが私の指先にあった。
「愛しているわ」
「ボクも……」
腿を押し開いて、あの隠微な部分に口づけをしたとき、ピクリと動いた白い脚。女がためらいがちに同じ口づけを返したとき、男の全身を貫いた激しい快感。その後でそっと見上げた女のまばゆそうな眼差、一つ一つが連なりのない幻燈写真の絵のように、断続的に私の心の中によみがえって、消えていった。
「うれしいわ。こうしてあなたが抱けるなんて」
「しっかり抱いてくれ。いつまでもボクのものになってくれ」
「ああ……もう死にたい」
狂気のように交わした愛の言葉さえも私の中で響いていた。
突然、ガタリと音がして風がドアを開けた。私の脳裏を黒い人影がかすめた。女の顔が紙のように色をなくし、唇が恐怖にヒクヒクと震えた。女はほとんど声にならない声で、
「あなた、どうして……」
とその人影に呼びかけた。
「オマエ、ヤッパリ……」
黒い影はどこかたどたどしい日本語を吐いた。眼が激しい怒りでギラギラ燃えているように思えた。しかし私にはその男の顔形はどうにも思い出せない。ただ、その右手に握られた黒い筒、赤い火を吹くまで拳銃とさえ知ることのできなかった黒い筒だけが、驚くほど鮮明に残っていた。
指の動き、小さな閃《せん》光《こう》、ピュッという音に続いた焼けつくような胸の痛み、一連の記憶が——まったくいわれのない不可思議な記憶が、私自身の感覚として廃墟に立った体の中に戻ってきた。
「いったいこれはどうしたことなんだろう」
崩れたアパートを後にして私は考えた。いつか見た映画? 夢? それともどこかで読んだ小説? アポリネール? マルセル・エーメ? 夢野久作? たしかにこんな筋の作品を読んだようにも思えた。
しかし、たった今、私の心の中に浮かび出たものは、文字どおりなまの体験、なまの感触、私の体の細胞の一つ一つが、たしかに自分自身のものとして捕らえているもの、ひと言でいえばみずからの営みを通してしか味わえないもののように思えた。そうでもなければ、公園からアパートまでの道筋、アパートの間取り、こんなことを私が知っているはずがないではないか。
夢遊病? 記憶喪失? あるいはそうかもしれない。私にはそんな奇癖や病歴はなかったが、そうとでも考えるよりしかたがないように思えた。だが、それではあの激しい胸の痛みは? 白くかすんでゆく目の奥でとらえた女の顔は? 私はたしかに横浜で死んだのであった。
奇妙な記憶に思い悩みながら二百メートルも来ると中華街の入り口に出た。横浜になじみの薄い私は山下公園と中華街がこんなに近くにあることさえ知らなかった。そして、そのことが訳もなく奇異に思えてならなかった。
赤と緑のけばけばしい中国風の装飾をほどこした店並みを歩きながら私はいつか来た店——これだけは確実に私の記憶の中にある唯一の横浜の思い出、あの煮込み豆腐をたらふく食った店を捜し求めてみた。
だが、見覚えのあるあたりに店はなく、かわってもっと小ぎれいな中華菜館が建っていた。ちょうど腹もすいていたので私はその新しい店に立ち寄った。時刻はずれで客が少ないためであろうか、店主が所在なさそうに店に顔を出し、新聞を読んでいる。
私は店主に声をかけ、昔ここで食った料理のことを尋ねた。
「なにか日本の豆腐とはまるでちがった、ねばっこい味だったな」
「ダンナサン。ソレハ豆腐ジャナイネ。キット豚ノ脳味噌デショ。ヨク似テマス」
「へーえ。驚いたな。どうも少しちがうと思ったが……」
「キットソウデス。アノ男、得意ノ料理デシタ」
「ほう? あの男って……おやじさん、前の店の主人を知ってるのかい?」
店主は少し驚いたように、私を見つめていたが、急にニコニコ笑って、
「少シ知ッテルダケネ。日本人ノキレイナ奥サンモラッテ大事ニシテマシタ。デモ奥サン浮気シマシタネ。怒ッテ相手ノ男ヲピストルデ撃チマシタ。死体ガ見ツカラナイウチニ、奥サン連レテ香港ニ逃ゲマシタ……」
私はギョッとしてすわりなおした。
「死体は見つかったのかね?」
「イエ、見ツカリマセン、食ベタノカモシレマセン」
「まさか」
「ハハハハハ。冗談デス。ダケド人間ハ、ホントニオイシイデス。ソレニ……」
店主はちょっと言葉を切った。
「それに……?」
「人間ノ脳味噌食ベルト、ソノ人ガ生キテタトキノ記憶ガ、食ベタ人ノ中ニ少シ残リマス。中国ノ古イ話ニヨクアリマス」
私は呆然としてその男の顔を見た。また不思議な記憶が脳裏をかすめた。この男の顔にもかすかな記憶があった。音もなく寝室のドアを開いたあの顔に……。