夜の一時を過ぎている。敏久はポケットの鍵をさぐり出し、玄関のドアをそっと開けた。
「ただいま」
だれか起きてる者がいれば、やっと聞こえるほどの声で告げ、ドアの二重ロックをかけた。階段の上はひっそりとしている。子どもたちはもう眠っただろう。真理子と明。小学校五年生と三年生だ。
寝室の襖《ふすま》のすきまから暗い光が縦線を作って漏れている。この光が明るく輝いていれば、妻の和子が起きている証拠である。まっ暗なら、眠っている。薄暗い光の場合は、どちらとも言えない。
襖を細く開けて、中へ入った。
背広を脱ぎ、ネクタイを取り、ワイシャツを放り投げた。少し酔っている。この春、名古屋へ転勤する同僚がいて、送別会のあとカラオケ酒場へ行っておおいに歌った。酔うと時間のたつのが急に速くなる。気がつくと、終電の時刻だ。
「帰るよ。なんせ家が田舎だから」
なんとか間にあい、二つめの駅で前の席があいた。たっぷりと一時間眠った。おかげで酔いが大分さめた。さらに駅から八分の道のり。わが家は敷地四十二坪の建売り住宅である。
「遅かったのね」
眠っていると思った和子がくぐもった声で言う。
「ああ、加東君の送別会のあと、二次会をやったからな」
「加東さん、ご家族はどうするの?」
「単身で行くそうだ。名古屋はそう遠くない。かえって浜松より近いくらいだ」
つい一年前まで敏久自身、単身赴任で浜松にいた。転勤を命じられたときは、家を買ったばかりだったし、子どもたちも転校をいやがった。三年浜松で独り暮らしをして戻った。
「加東さんとこ、お子さん、まだ小さいんでしょ」
「しかし、お袋さんの体がよくないらしい」
「ああ、それじゃあね」
子どもが就学前なら、家族そろって任地へ移ることもできる。だが、親がいて、その親が病弱となると、それもむつかしい。
「加東さんご自身のお母さま?」
「そうだろ」
「じゃあ、大変ね」
妻と母と幼い子ども。よくある形だが、トラブルもけっして少なくない。
「まあな」
答えながらパジャマに着がえた。
「上、寝てたでしょ」
和子は布団のへりから顔を出し、顎で天井を指す。子ども部屋の様子を尋ねている。
「電気は消えてた。どうして?」
「お父さんに相談してみなさいって言っておいたんだけど……」
「なんだい」
朝は仕度にいそがしくて、ほとんど和子と話をするゆとりがない。休日は寝ている。ゴルフへ行く。夫婦の会話は、眠りにつく前が多い。
「真理子が猫を拾って来たの。家の玄関先に捨ててあったんですって」
「ふーん」
「自分で世話するから、どうしても飼いたいって。明も一緒になって言うのよ」
なんだ、そんなことか。和子が深刻な面持《おももち》で言うから、もっと大事件かと思った。
「いいじゃないか。飼わせてやれば」
「でも、あなた、猫、きらいでしょ」
「いや、とくにきらいでもないけど……」
つぶやきながら和子の顔を見た。
「そうなの? 結婚前に言ってたじゃない。猫はずるいところがあるから厭だって」
「そんなこと、言ったかもしれんな。でも、いいよ」
その会話は覚えていない。十数年も前のことだ。言ったとしても、言いかたが少しちがっていたのではあるまいか。
あのころ、「犬と猫と、どちらが好きか」と聞かれたら、敏久は「犬」と答えただろう。だが、正確に言えばペットそのものにあまり関心がなかった。飼ったことがない。ああいうものは、子どものころの習慣とおおいに関係がある。子どものときに一緒に暮らしていれば、ずっとペットをかわいがる。ちがうだろうか。
だから、敏久は、犬も猫もどちらも好きでなかった。あえて言えば、いかにも実直そうな犬が好きだと、その程度の気分だったにちがいない。
「結構かわいい顔してんのよね」
和子も仔猫のかわいさにほだされてしまったらしい。
「それより、おまえが世話しなくちゃ駄目になるぞ。それはいいのかな」
「だって、二人がやるでしょ。そう言ってるわ」
「いつか新聞で読んだことがある。ペットを飼いたがる順序は一番子ども、二番父親、三番母親。実際に世話をする順番は一番母親、二番子ども、三番父親。結局は家にいるものが面倒をみなくちゃいけないんだ」
「その可能性はあるわね。でも、できるだけさせるわ、子どもたちに」
「ペットの世話をさせるのは、わるくないな。とくに明なんか、みんなに甘えてるから。自分より弱い者がいれば、厭でも面倒をみてやらなくちゃいかん。餌をやるのを忘れていれば、ペットは死ぬんだから」
「私もそれを思ったの。だから、いいかなと思って」
「一匹だけ捨ててあったのか」
「そうみたい。ひどいわね。ひとの家の玄関先よ。なに考えてるのかしら」
「いろんな人がいるさ」
その言葉が合図みたいに和子があかりを消した。間もなく和子の寝息が聞こえた。
——子どもたちが喜ぶだろうな——
狭いながらも一戸建ての家なのだから、猫くらい置いてやってもいい。明日の朝が楽しみだ。
電車の中でぐっすり眠ったせいか、敏久のほうはなかなか眠れない。
——俺は猫がきらいかなあ——
さっき和子に言われて、一瞬驚いた。
ゆっくり考えてみると、たしかに昔はあまり好きではなかった。今はそれほどでもない。むしろ好きかもしれない。きっと好きだろう。自分でもそんな心の変化に気づいていなかった。
それを妻に突然指摘されて、それで驚いた……というわけではないだろう。変化の背後に、和子には知られたくないことがある。うしろめたさがある。話題がいきなりその付近に飛びこんで来たので狼狽《ろうばい》したらしい。
浜松にいたとき……親しい女がいた。めずらしくもない。単身赴任では、よくあるケースだろう。女は猫が好きだった。女の名は三七子《みなこ》。
「父が三十七歳のときに生まれたの」
「ちょうど俺の年だよ」
「私より十歳上ね」
「ああ、そう。若く見える」
「ありがと。おたくは、お子さん、大きいんでしょ」
「二人とも小学生だ」
「あ、そう。私、遅い子どもだったから、父に早く死なれちゃって……」
たったそれだけの話からでも、見えて来るものがあった。多分、末っ子。だから甘えん坊。しかし、生活の苦労は少し体験しているらしい。たった一人でマンション暮らしをしているのも、父親がいないせいではあるまいか。
三七子は駅に近いバーに勤めていた。
その店に敏久が客として行き、何度か通ううちに親しくなった。むしろ三七子のほうが積極的だった。女は男のように強く誘いかけたりはしないけれど、どことなくそんな気配があった。
——この女に好かれているらしい——
くすぐったいような気分だった。
だが、油断はできない。なにか企みがあるかもしれない。そう思うのが常識だろう。
だが、三七子はそんな感じの女ではない。少しずつそれがわかった、それに……敏久を誘惑してみても、たいして得にもなるまい。
あとになって、
「どうして俺を誘ったんだ」
と尋ねてみた。
「嘘よ。あなたが誘ったんじゃない、ホテルへ」
それはそうなのだが、三七子のほうにそう仕向けるようなところがあった。それを言うと、三七子は少し笑ってからつけ加えた。
「お客さんがほしかったし、わりと好きなタイプだったのは本当ね」
そのへんが三七子の本心だったろう。けっしてわるい意味で言うのではないが、男と寝ることに強いこだわりを持つ人ではなかった。親しくなれば抱きあう。いちいち意味づけをする必要はない、と三七子はそう考えていたのではあるまいか。
最初のうちはホテルで会っていたが、そのうちに女のマンションへ行くようになった。古いマンションだが、三七子はきれい好きだった。窓から疾走する新幹線が見えた。
三七子は猫を飼っていた。黒と白の猫。黒が体の四割くらいを占めている。右耳から右眼にかけて、ななめに黒いぶちがある。海賊が黒いパッチをつけているみたいに。名前はニャア。
「雄?」
「ううん、雌」
「いないときは、独りで留守番をしてるわけか」
「そう。ボーイ・フレンドが誘いに来るから困るのよ。深窓の令嬢なのに」
一度だけ、猫の盛りの時期に三七子の部屋に泊った。夜通し雄猫の鳴き声を聞かされ閉口した。
「へんな奴に赤ちゃんなんか生ませられたら困るでしょ」
「まったくだ」
ベッドの中で二人で声をあげて笑った。三七子の体も猫のようにしなやかだ。どんな姿勢にも耐えて深く交わる。
「猫、きらい?」
尋ねられて敏久は即座に答えた。
「いや、好きだよ」
そう答えなければ、とてもこの部屋に入ることは許されないだろう。三七子とつきあうこともむつかしい。三七子は本当にニャアをかわいがっていた。
あのときから敏久は否応なしに猫好きになったらしい。ニャアも不思議とよく敏久になついた。そうなってみれば、かわいいものである。
「よかった。私、昔っから猫好きなの。私が死んだら、そのあとニャアを飼ってね」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ。男より好きなんじゃないのか」
「そうよ。男とちょうど逆ね。薄情っぽい顔をしているけど、猫は裏切らないわ。男はさ、親切っぽい顔をしているけど、裏切るじゃない」
「言えるなあ」
猫の特質まではわからない。だが、三七子が男について言った部分はよく当たっている。三七子は何度か同じ苦さを味わったにちがいない。敏久もその上塗りをしてしまった。
敏久が東京に帰ることになった。それより少し前に三七子は独立して小さなバーを開いた。パトロンがいたのかどうか……。
「さよなら」
「これっきりなの?」
「東京に来たら連絡してくれよ」
「そうね、でもめったに行けないわ。お店も持ったし……。あのね東京へ帰ったら……」
「東京へ帰ったら……なんだ?」
「奥様とお子さんを大切にして、浮気なんかしちゃ駄目よ」
「わかった、そのつもりだ」
「でも、たまには思い出して、私のこと」
「ああ、忘れないさ」
別れはさわやかなものだった。人生にはこんな出来事もなくてはつまらない。最高のエピソード……。
だが、そう思うのは男のほうだけかもしれない。三七子にとっては、やはり「男はさ、親切っぽい顔をしているけれど、裏切るじゃない」……。その通りの幕切れだったのではあるまいか。
あれから一年。�去る者、日々にうとし�という言葉は本当だ。三七子からはなんの連絡もない。敏久もなにも伝えない。ほとんど忘れている……。
いや、忘れているというのは正確ではあるまい。思い出そうとすれば、なにもかも……そう、三七子のくせから体の特徴まで、細かく思い出せるのだが、昨今は思い出すこと自体を忘れてしまっている。
敏久は布団の中で眼を閉じて三七子の記憶を呼び起こした。
——今夜は三七子の夢を見よう——
三七子はきっと猫を抱えているだろう。
翌朝、敏久は子どもたちの声で眼をさました。
「お父さん、いいって言ったの?」
明の声が弾んでいる。
「もう一回、しっかりお願いしたほうがいいわよ」
「うん」
足音が響き、部屋の襖が開いた。明に続いて真理子も父の枕もとにすわる。
「お父さん、お願い。猫、飼っていいでしょ」
「お父さん、猫、飼っていいでしょ」
まるで輪唱みたいに二つの声が重なる。
「飼っていいぞ。しかし、お母さんに面倒かけちゃ駄目だ。できるだけ自分たちでやれ」
「うん、わかってる」
「かわいいでしょ」
敏久は畳の上に目を移し、猫を見た。
——まさか——
黒と白のぶち。黒が四割くらい。右耳から右眼にかけて黒いパッチ。ほとんどニャアのミニチュアと言ってよい。そっくりそのままだ。ニャアの子ではあるまいか。
「玄関の前に捨ててあったのか」
「そうだよ」
いくらなんでも浜松から……。
仔猫はじっと敏久を見つめている。