今は小説書きを生業としているが、子どもの頃は化学に興味を持っていた。
兄から使い古しの実験道具をもらい、自室の押入れの中に実験室を作った。アルコール・ランプは、吸入器とかいう扁桃腺《へんとうせん》を治療する器具の�おふる�だった。
一番得意な実験は牛乳の分析。これは何度もやった。
まず一合の牛乳をビーカーに入れ、一昼夜くらい放置しておく。表面に五ミリほど脂肪分が浮く。
これをすくい取って試験管に入れ、上下に激しく振ると、脂肪分が凝固してバターになる。親指の先くらいの分量のバターに塩味をつけ加え、文字通り自家製のバターでパンを食べる。
得意満面の一瞬であった。
脂肪分を抜いたあとの牛乳には、塩酸を加える。すると、たちまち中の蛋白質が凝固する。たしか塩酸カゼインとかいう名前の物質になるのだったと思う。
濾紙《ろし》を使ってこれを選り分ける。豆腐のおからのような物質だった。
残りの液体は、主として乳糖と水分である。この乳糖を取り出すにはどうしたらいいか。
テキストには石灰水で中和して、水を蒸発させると、そのあとにかすかに甘味を帯びた乳糖が残る、と書いてある。
科学少年がこれを試みたのは言うまでもない。ところが、この実験が一見単純そうに見えて、その実はなかなかむつかしい。
その理由は、少年にも見当がついた。
塩酸はどんなに薄めても相当に強い酸である。一方、石灰水のアルカリ度は弱い。
だからよほどたくさんの石灰水を加えないと、なかなか液体は中和の状態になってくれない。一合の牛乳がバケツいっぱいの量の水になってしまい、もうこうなると酸性なのかアルカリ性なのか、よくわからない。
もちろん、この実験にはリトマス試験紙を使った。リトマス試験紙は酸性なら赤に、アルカリ性なら青に反応する。
その理屈はよくわかっているのだが、青と赤とは現実にはわりと近しい色合いで、そのまん中の紫のような、赤紫のような、青紫のような中途半端の色を呈すると、さて、今はアルカリ性になったのか、それとも酸性のままなのか、とんと見当がつかない。
どうやらこのへんで中和したのだろうと見当をつけて水分を蒸発させる作業にかかるのだが、今度はバケツ一ぱいの液を火力で蒸発させるのは、相当に厄介だ。
長時間かけて蒸発をさせても、あとに残るのは——おそらく微量の乳糖も含まれているのだろうが、ほかに石灰の粉みたいなものやら実験室内のゴミみたいなものやら、いろいろ余計なものが混入していて、とても�かすかに甘い乳糖�を析出したような気にはなれない。
実験はいつもこの段階で失敗したように思う。
この実験に限らず、化学実験というものはなかなかテキスト・ブックに書いてあるようには運ばないものだった。
つまり、テキスト・ブックには、いとも簡単にできそうに書いてあるが、実際にやってみると思い通りの結果になることはむしろめずらしかった。
たとえば石けんを作る実験。これも何度か試みたが、石けんらしい石けんを得たことは一度もなかった。
薬品の調合ぐあい、温度の加減、あるいは実験装置の仕様などに、それぞれ微妙な課題があり、それを間違うと、当然のことながら正しい結果が出ない——そういうことではなかったのか。
数々の実験で得た教訓は、実験はテキストの通りにはいかない、ということであり、なぜうまくいかないのかと、その点を考えるのが私の化学実験であった。
この教訓はけっして無駄ではなかった、と私は思う。
とりわけ�リトマス試験紙は酸性で赤、アルカリ性で青に反応する�といった、ほとんど疑いを差し挟む余地もないほど明白なことでも、実際にやってみれば�赤紫�などという予想外のものが現われ、それを判断するところに実験する人間の、主観と勇気が必要だという経験は、なにかしら象徴的に人生の知恵を与えてくれたように思う。
昨今の受験中心の青少年教育は、こういう点で教訓になるものが少ない。�リトマス試験紙は酸性で赤、アルカリ性で青�、知識としてそれを覚えれば、それで満点が取れてしまう。
実は、そこから先に問題があるのだと、それを知る機会がない。それを考えるゆとりがない。
テキスト・ブックに書いてない、予想外の出来事が生じたとき、どう対処したらいいのか、たとえば優秀な成績で試験を突破して来た新入社員諸氏も、おしなべてこういう問題には弱いようだ。ちがうだろうか。