——映画の中の思い出の一場面は?
と、尋ねられると、私はいささか古い話ながら�太陽がいっぱい�の中の一シーンを思い出す。
監督ルネ・クレマン。主演は世紀の美男子アラン・ドロン。ヒロインを演ずるマリー・ラフォレも、助演のモーリス・ロネもそれぞれによかった。
映画の歴史の中には�この役はこの人以外に絶対にない�というほどの、はまり役がいくつかあるものだが、�太陽がいっぱい�の主役は、未来|永劫《えいごう》にアラン・ドロン以上の人は出ないだろう、と私は思う。
育ちの悪そうな美男子。野心と卑屈さ。いくらかゲイっぽいところもあって、あの映画が成功した理由の一つは、なにはともあれ、これほどうってつけの役者を見つけて来てその位置に据《す》えたことだったろう。
名場面にもこと欠かなかった。とりわけエンド・マークも近くなって、アラン・ドロンが目のくらむような青い海を眺めながら「太陽がいっぱいだ」と叫ぶシーンは実感があった。音楽のすばらしさは言うまでもない。
だが、あまり映画評論家などが指摘しなかった場面だが、私にはやけに心に残るシーンが一つあった。
ラフォレの扮するヒロインと婚約した男が失踪《しつそう》し、自殺したらしいことがほぼ確実となる(実はドロンが殺したのだが)。かねてからそのヒロインに惚《ほ》れていたドロンはドサクサの空き巣|狙《ねら》い、このチャンスに女をいただいてしまおうと考える。女は悲しみのドン底に突き落とされていて、彼女自身はどれだけ意識していたのかはわからないけれど、だれか新しい恋人を見つけて、その愛にすがりたい気持ちを心のどこかに宿している。しかし、それはむしろ潜在的な願望だ。当面は消え去った恋人に対する激しい慕情だけがふつふつと心を満たしている。
こんなとき男はその女をどう口説いたらよろしいか。やさしいようで案外むつかしい。
こんな場合の女には、去った男に対する愛の深さを悲しみの深さで裏づけたい心理が働くから、そうあっさりとチェンジング・パートナーの心境にはなれないし、また�弱みに乗ぜられまい�という保身の意志も働く。心の奥底では新しい恋を求めているくせに、素直に手を伸ばせない情況なのだ。
これは現実にもよく起こることですね。
たとえば私にA君という友人がいて、このA君の恋人がB嬢だったとしよう。私はかねてからひそかにB嬢に惚れている。だが親友の恋人だから我慢しているわけ。ところがB嬢はA君に振られてしまい、泣く泣く私のところに相談にやって来た。うちあけ話をしに来たと言ってもよい。彼女は�どれほど自分がA君を愛しているか�を告白し、�でも、もうなにもかも駄目になってしまったの�と訴える。
私としては、その苦しい胸の内を聞いてあげるのにやぶさかでないけれど、さんざんそれを聞いたあげく、
「ま、それはそれとして、今度はボクと仲よくやりませんか」
とは切り出しにくい。彼女の話を聞けば聞くほどそういう心理情況ではないことがよくわかる。だからと言って、「あの野郎、ひどい奴だ。前にもひどいことをチョイチョイやってたんだ。麻雀屋の娘をはらませたこともあるし、よその奥さんには年中ちょっかい出してたし……」
と、あることないこと並べたてて彼女の心をA君から引き離そうとしても、そうは問屋がおろさない。彼女の心の中ではA君は、いまなおいとしい人として�生きて�いるのだから、その彼を悪く言うような奴などにとても好感を抱いてくれるはずはない。
彼のことを話題にしすぎても駄目、またしなくても駄目。スムーズにこっちに向かせるには、なにかうまい方法を考えなければならない。
わが親愛なるアラン・ドロンも同じ立場にあった。そこで彼はどうしたか。
薄暗い部屋にポツンと独りすわっているラフォレに背後から近づいた。消え去った男についてなんかひとことも話さない。そして、うしろから肩を抱くようにして、ギターを彼女に抱かせた。
男の体のぬくもりが傷心の女の膚を暖かく包んだにちがいない。そこでラフォレの手を取ってギターをつまびかせた。ポロン、ポロンと断続的な音が響き、それが少しずつまとまった曲になり、まるで炎がメラメラと燃え立つように妖《あや》しい音色が響き、その高まりの中で女の心が前の男から新しい男へと移っていく。その微細な心理の変化がなにかジーンとするほどしっとりと理解できた。ドロンはこの間なにもしゃべらない。理性を楽《がく》の音《ね》で殺し、膚から膚へ無言のムード作りで気持ちを伝えたのであって、さすが名匠ルネ・クレマン、心憎い演出をするものだと私はひとり感じ入った。
現実生活では、これほどうまくいくとは限らない。そばにあいにくギターがなかったり、ギターがあっても彼女がひけなかったりして、まことに実生活は演出が行き届いていないものだ。
私の場合はどうだったか。もう何十年も昔のことなので、いい加減忘れちまったけれど、たしか彼女の�悲しいのろけ話�をタップリ聞かされて、私はなにも言い出せなかったのではなかったか。
恋の道は繰り返すものとか。あなたにも似たような体験はありませんか。