一時、夢の中でものを食べる練習をしたことがあった。
食べ物の夢はだれでもよく見るだろうが、どなたも体験があるように実際に食べるところまではなかなか行かない。箸《はし》がなかったり、蛆《うじ》がたかっていたり、あるいはお客を待たなければいけなかったりして、たいてい食べる直前で他の夢に変わってしまう。目が醒《さ》めてしまう。私は食い意地が張っているせいか、これが残念でたまらなかった。
なんとか夢の中でご馳走《ちそう》が食べられないものか。
なにはともあれ暗示を与えてやるのが一番だと考えて、布団の中で、
「きっと食べてやるぞ。食べられるはずだ。うまいはずだ」
と、念じてから眠ることにした。
ある程度効果はあった。私は寿司《すし》が大好物なのだが、夢の中で二、三度寿司の立ち食いをやり、上等の鮪《まぐろ》を食べた。事実おいしかった。
しかし、これを続けていると、今度は困ったことにあまり食べ物の夢を見なくなってしまった。
脳味噌《のうみそ》というものは、あれでなかなか防衛本能の発達したものらしく、気ままに食べ物の夢を見させていたあいだは結構一か月に一、二回くらい食べ物の夢を描いていたくせに、
「さあ、それを食べろよ」
と、命じたとたん、
「面倒だな。いちいち食べなきゃ駄目なのは疲れてかなわん。そんな注文を出されるんなら一層のこと食べ物の夢そのものをやめてしまえ」
と、サボタージュを決め込むようになったのだろう。
こうなると、もう夢でものを食べるわけにはいかない。しばらく忘れていたら、ようやくまたこの頃になって食べ物の夢を見るようになった。
私の書く小説は、現実と非現実の境目のあたりをテーマとすることが多いから、どこか夢と似通ったところがある。夢をそのまま主題とした作品もいくつかあるし、現実を描くその手法が夢の中の認識そっくりの作品も数多い。
当然のことながら私は夢におおいに関心がある。
ものを食べる夢を見ようと努めた頃と前後して、夢を記録してみたことがあった。
枕《まくら》もとに雑記帳を用意しておいて、朝起きたとたんに今見た夢を記録するわけだ。
夢というものは、比較的浅い眠りの段階で見るものであり、普通は目醒めの直前に見るものである。だから、目を醒ました瞬間は記憶もなまなましい。時間を置くと、現実で体験したこととちがって記憶が薄いらしく、すぐに忘れてしまう。とにかく要点だけでもいいから枕もとのノートに記すようにした。
朝の目醒めのときばかりではない。夜中に夢を見て、その直後に目を醒ますこともある。こんな時にもスタンドの灯をともして記録に努めた。
目的は小説の材料になることがあるのではあるまいか——つまり小説のタネ探しのためである。
一か月ほど続けてみたが、あまりおもしろい夢を見ない。そのうちやけに疲労を覚えるようになった。
察するに、夢を見ているときに脳味噌のどこかで�早く目を醒まして記録をしよう�という意識が働くのではあるまいか。睡眠が浅くなり、熟睡感を覚えることが少なくなった。
材料探しのためにはさして効果もなく疲労ばかり溜《た》まるのではなんのたしにもならない。二か月ほど続けたところでやめてしまった。スチーブンスンは夢で見たものをヒントにして�ジキル博士とハイド氏�を書いたということだが、どうも私にはそういう好運は訪れなかった。
夢の予見性ということがよく言われる。いわゆる正夢《まさゆめ》というしろものだ。夢で見たことが現実に起こるというケースである。
私は他人と比べてかなり豊富に夢を見ているような気がするのだが、こうした正夢のようなものはただの一度も感じたことがない。どうやら予見の能力には縁遠いのだろう。
人間の脳味噌のタイプとして未来志向の脳と過去志向の脳とがある、という話を聞いたことがある。未来志向の脳味噌はいつも将来のことに関心がある。古い恋人のことを考えるより、さあ、今夜はどうやって新しい恋人を得ようかと考える。過去志向の脳は、古い出来事のくさぐさを何度も心の中に反芻《はんすう》してこれを賞味する。�失われた時を求めて�を書いたプルーストなどはどう考えてみても過去志向の脳味噌の持ち主だったろう。
私もまた明らかに過去志向のほうだ。小説家にはこのほうが向いているのかもしれない。行動人はおそらく未来志向のタイプだろう。夢に予見性がないのは、こうした脳のタイプと関係があるのではなかろうか。夢のノートを見返してみても過去の記録としての夢を見たケースが多い。
この章でこの�まじめ半分�は終わりとなるけれど、ここで扱ったテーマも過去志向のものが多かったのではあるまいか。過去志向は老化現象のせいかもしれないし、いささか気掛かりである。