「一本だけいいかしら?」
格子戸が開いて女が首をのぞかせたのは、もう夜の十一時が近い頃だった。
昼のうちは日射しが暑いが、夜がふけるとめっきり涼しくなる。酒のうまい季節に変り始めていた。
「もうすぐ閉めるけどね。ま、いいよ、一本だけなら」
居酒屋の親父は、テレビ・ドラマをはすかいに見ながら面倒くさそうに言う。
カウンターに五つの椅子を並べただけの酒場。
「ごめんなさい」
女はタムラ氏の隣の椅子にすわった。
「なんにします?」
「一級酒を一本。ぬる燗《かん》にして」
三十代のなかばくらいだろうか。シャキシャキとして、いかにも男まさりの様子だが、目鼻立ちは整っている。かすれ声も色っぽい。タムラ氏は、もうボツボツ腰をあげようとしていたのだが、女の様子に誘われて、
「私にももう一本だけ」
と追加の注文をした。
テレビの画面は時代劇。物語はわからないが、気弱な亭主は女房の浮気を知りながら、それをとがめる勇気がない。女房が浮気をしそうだとわかると、自分からそわそわと銭湯へ行ってしまう。このごろテレビでよくみる俳優が、そんな悲しい亭主をほどよく演じている。
「情けないねえ、この男。バーンと一ぱつビンタをくれてやればいいんだよ」
酒場の親父がもどかしそうに呟く。女もタムラ氏も答えない。黙って酒を汲んでいる。タムラ氏は盃の底をのぞきながら、
——サトコのやつ、どうしているかな——
と思った。
二年ほど同棲して別れた女。金遣いがだらしなくって、それでつい殴ってしまった。翌朝タムラ氏が仕事を終えて家に帰ったときにはもういなかった。
あれから三年、ずっと一人暮らしだ。
上等な女ではなかった。別れてせいせいしたところもあったが、なにかの折にふいと思い出す。|※《うだつ》のあがらない者同士が慰めあうようにして生きていた。
——無事でやっていれば、いいんだが——
テレビ・ドラマはいつのまにか終ったらしい。アナウンサーが十一時を告げている。
「旅館はどこにある?」
タムラ氏の仕事は旅のセールスマン。この町に来たのは初めてのこと。なーに、男一人が転がり込む宿くらい、どこの土地へ行ってもある。予約もせず行きあたりばったりに訪ねるのがタムラ氏の流儀だった。
「駅の近くに行けばありますよ」
親父はもう店を片づけ始めている。
「じゃあ、勘定にしてくれ」
「私もお勘定をしてくださいな」
女は一本のお銚子をカラにしただけで立ちあがる。ガラス戸をあけて人気のない歩道に出た。夜更けてまた風が冷たくなった。
「お客さん、もう少し飲みません?」
外に出たところで、女が背後からタムラ氏に声をかけた。
「しかし、飲むとこあるかな?」
街はもうすでに灯をなくして暗く静まりかえっている。
「宿を捜しているんでしょ?」
「そう」
「じゃあ、きたないとこだけど、私んちにいらっしゃいません? お酒もあるし。朝ごはんくらいサービスしてあげるわ」
タムラ氏は闇の中であらためて女の様子をうかがった。
——なにをする女だろうか——
女は肩で笑った。
「たまにはいいんじゃないかしら?」
「こわい亭主が出て来たりして」
「馬鹿ね、そんなんじゃないわ。だれかと飲みたいの、今夜は」
タムラ氏は女のあとに続いて夜の道を踏んだ。女は背を向けたまま語りかける。
「うちの旦那も気弱な男でさ」
「うん?」
「心で思っていても、口じゃなんにも言えないの。もちろん殴ったりなんか金輪際できっこないのよ。ただもうヒクヒク、ヒクヒク貧乏ゆすりばっかりしていて……」
「ああ、そう」
「私、浮気したのよ、わざと。�この人、女房が浮気したらいくらなんでも怒るだろう�って、それを試してみたかったんだけどねえ……」
「どうだった?」
「やっぱり貧乏ゆすりだけよ」
女の家は古いマンションの三階。お新香を肴《さかな》に一時過ぎまで飲んだ。
「ご主人はどうしたんだ?」
部屋には男が住んでいる気配はない。女は曖昧に笑って答えない。
「もう寝ましょうか」
どちらからともなく誘いあい、体が重なった。
カタ、カタ、カタ……
「あの人、また押入れの中で貧乏ゆすりをしているわ」
驚いてタムラ氏がふすまを開いた。
カタ、カタ、カタ……。
位牌が一つ。愛の響きに誘われて、さながらやきもちでもやくように揺れ動く……。