オフィスの朝。とうに始業時間を過ぎているのにキムラ君の姿が見えない。
「課長。キムラ君は今日も休みですか?」
もう三日も欠勤が続いている。
「うん。さっき奥さんから電話があった」
「病気ですか」
「体調がわるいらしい」
「風邪ですかね」
「ウーン。体調をくずしたらしいな」
「はあ?」
私は曖昧《あいまい》に答えたが、ピンと思い当たるものがあった。
キムラ君は学生時代には陸上競技の選手だった。体はめっぽう丈夫のほうだ。ちょっとした病気くらいで会社を休むはずがない。彼の弱点は、地震恐怖症……。
いつか酒場で酒を飲んでいたときに小さな地震があった。あのときのキムラ君のあわてようと言ったら……。いきなりテーブルの下に潜《もぐ》り込みガタガタと震えていた。震動が消えたあとも顔をまっ青にして、しばらくは口がきけなかった。
「そんなに地震がこわいのか」
「…………」
「しっかりしろ。ちょっと揺れただけじゃないか」
「…………」
気持ちが落ち着いたところで尋ねてみたら、
「とにかく生理的に駄目なんだ。こわくて、こわくて、気が変になりそうになるんだ」
と、真顔で言っていた。
考えてみれば、ここ二、三日、関東地方で何度か軽い地震があった。
昨夜も十二時過ぎに電灯が揺れるほどの軽震があった。明けがたにも軽く揺れた。大きな地震の前ぶれみたいな気がしないでもない。さぞかしキムラ君はこわがっているだろう。
会社の帰りにちょっとキムラ君の家を訪ねてみたら、奥さんが申しわけなさそうな顔で現われて、
「今は普通にしていますけど」
と、目の動きで家の奥を差す。
「やっぱり原因は地震ですか?」
「このとこ何度か揺れたでしょ。そのたびに机の下に飛び込んで、本当にこわがるんです。そのあとしばらくはなにも手につかないみたいで……。会社であんな姿を見られたら大変だと思いましてねえ」
「なるほど」
キムラ君は思いのほか元気だった。
「すみません、わざわざ」
「いや、ちょっとついでがあったもんだから。どうかね。奥さんに聞いたんだけど相変らず地震がこわいんだって?」
「うん」
「べつにどうってことないだろ。あのくらいの揺れなら」
「あのくらいの揺れかどうかわかんないからこわいんだ。カタカタと小さく揺れ始めるだろう。ああ、このままひどい地震になるかもしれないな。ああ、少し強くなったみたいだ。ああ、大地震が来るぞ。そう感じている四、五秒がものすごくこわいんだ。自分でもよくわからない。体がいきなり机の下へ飛び込んでしまう。歯の根もあわないほど震えちゃう。このごろみたいに地震がチョクチョクあると、会社でもやっちゃいそうでね」
キムラ君は深刻な面持ちで述懐する。
「君はこわがりのくせに地震のことを知らないな」
「どうして?」
「今の話を聞くと、カタカタ、カタカタ周囲が揺れだして、なんだか大きな地震になりそうな、あの瞬間がこわいんだろ」
「そうなんだ」
「しかしね、大地震というものは初めカタカタ小さく揺れていて、それからだんだん大きくなって、ついにグラッと来るってことは絶対にないんだぜ。本物の大地震はこわがるひまもなく最初からグラッと来る。カタカタ、カタカタ揺れるのは、小物の証拠なんだ。心配することはないよ」
「本当か」
「本当だ。地震計の記録を見ればすぐにわかることだよ」
「いいことを聞いたなあ」
キムラ君の顔はたちまち明るく晴れた。真実、胸の不安から解放されたようにみえた。
「もう大丈夫だよ」
帰りがけにキムラ君は私の手を握って力強い言葉を告げていたが、翌日も、そのまた翌日も会社へ姿を見せない。
私は不安になって、キムラ君の家へ電話を入れてみた。奥さんが電話口に出て小声で呟いた。
「はい。課長がお帰りになった直後は�カタカタ揺れてる地震は小物なんだ。今に大きくなるんじゃないかって心配する必要なんかないんだ�って喜んでいたんですけど、そのうちに�大地震はいきなりグラッと揺れだすのか�って叫んだかと思うと、今度は四六時中机の下に潜り込んでしまって……。それまでは小さく揺れだしたときだけ震えていたんですけど」