ビールの思い出ですか?
初めて飲んだのは五歳くらいかな。まだ家が小石川にあった頃だから……。
古い屋敷でね。夏になると縁側に机を置いて浴衣姿の大人たちが飲みだすんだ。あの頃は大家族で、親父のほかに叔父や従兄もいたしね。お客の多い家だった。井戸から冷たい壜を引きあげて来て、
ポン。
シューッ。
ジョロ、ジョロ、ジョロ。
夏の風物詩ってやつだね。つまみは枝豆に冷やっこ。団扇でパタパタと胸元に風を入れたりしながら、クイクイと飲みほしてしまう。
見ていてうまそうだと思ったね。
——サイダーだってあんなにおいしいんだから、もっと泡のよく出るビールはどのくらいおいしいだろう——
子どもはみんなそう思うんじゃないのかな。冷たい物は、「疫痢《えきり》になるから」って、あんまり飲ましてもらえなかったもんな。
えっ、疫痢を知らないのか。
なにしろ古いことだもんな。五十年以上もむかしの話。昭和の初めのことだもん。
でも、オレはよく覚えているよ。
大人たちがいなくなったあと、ビール壜に五センチほど残っていたからコッソリ飲んでみたんだ。
ゲボッ。
にがいのなんのって、とても飲めるシロモノじゃない。あわてて縁側の外に吐き出してしまった。
子どもの味覚って大人と少し違うんじゃないのかな。とにかくまずかった。
——こんなまずいもの一生飲むもんか——
そう思ったね。
そのうえ大人になって初めて二日酔いをしたのもビールを飲んだときでね。
いや、ビールがわるかったわけじゃない。こっちの体調がひどかったんだ。ほかの酒やウィスキーに比べれば、ビールはずっと健康的な飲み物だもんね。
もう戦争が悪化していた頃だよ。ビールなんかめったに手に入らなかったからね。
友だちの家で、どうやって入手したのか「ビールが一ダースもある。盛大に飲もう」ってことになってサ。四人ばかり仲間が集って飲んだんだ。おつまみはタニシの煮つけにいり豆だったと思うよ。当時としては、上等な食い物だったろうけど、どっちも消化にいいものじゃないね。学徒動員でこき使われ、体はクタクタだったし、腹もこわしていた。慢性の下痢で、簡単には止まらない。
それでもビールが飲めるとなりゃ、このチャンスを逃してなるものか。少しは空腹のたしになるだろう。
意地きたなく飲めるだけガブガブ飲んじゃったものだから、ベロンベロンに酔いつぶれちゃってサ、完全な二日酔い。下痢はひどくなるし、体の力はまるでなくなるし……しばらくはビールを見るのも厭だったね。
もっとも見ようとしても、めったにビールなんか拝めなかったけれど……。
ビールの味が少しずつわかるようになったのは、終戦後、世の中が少し落ちつくようになってからじゃないのかな。
当時はウメ割りとかブドウ割りとか、焼酎に色水を混ぜたようなヘンテコなものがはやってた。ビールはそれに比べれば高級品だったな。
ああ、そう、そう、忘れられない景色がもう一つあるんだよ。あれは、なんだったのかな。あとになって考えてみても、よくわからなかった。夢じゃないか、なんて思ったりしてね。
とにかく場所は鎌倉の海岸近く。海が見えたもん。季節は夏の盛り。日暮れどき。西日を受けて海が金色に光っていた。
まだ海水浴の客なんか、ほとんどいない頃だったな。世の中全体が食うのにいそがしくて、家族を連れて海に遊びに来るような、そんな暢気な気分じゃなかったよ。腹の減るようなことなんか、だれもやりたくない。
オレはアメリカ兵相手のブローカーみたいな仕事をやっててね。
「鎌倉の旧家で、着物とか掛け軸とか、古い物を売りたがっている」
そう聞いて東京から下見に行ったんだ。
アメリカの将校なんか、結構|贅沢《ぜいたく》な生活をしていたよ。彼等にしてみりゃ普通の生活だったのかもしれないけど、日本人は貧しかったからな。
将校たちが一等地の別荘を押収して、優雅にやっているんだよな。
——くそっ、おもしろくねえなあ——
そう思ってみても、
——もう一回、戦争やるか——
そう言われたら、こっちはグウの音も出やしない。むしろアメリカ兵のおこぼれをもらおうと思って必死になっていたのが実情だったよ。
旧家で見た品は、さほどの掘り出し物じゃなかったな。ただ古い形の望遠鏡が一つ転っていてね。商売になる品物じゃないけど、おもしろそうだから、ちょっとのぞいてみたんだよ。
その家は海と山とに挟まれた高台にあって、展望がよくきく。
ちょうど太陽が沈む頃だったから、海はギラギラ輝いているし、その反射を受けて周囲がみんな光っている。角度によってはまぶしくて見えにくいところがあったな。
望遠鏡は結構倍率が高くて、遠くのものが手の届くほどの距離に見える。ボートを漕いでいるアメリカ人。その隣に日本人の女。どぎつい化粧をしているのまで、はっきりとわかる。望遠鏡をまわすと、今度は年取った女が山の中腹でなにやら畑仕事をしている。街では、若い娘がポストの前で拝むようにしてから手紙を放り込んだ。恋人にでも送ったのだろうか。
あちこち見ているうちに、突然、青い芝生の庭が映った。白いテーブルと白いデッキチェアーがあって、男が現われた。
手にはビールとジョッキ。ビール壜は汗をかいていて、いかにも冷たそう。なにかこう……贅沢って感じだったな。
男は案に相違して日本人だった。
——どこかで見たような顔だな——
そう思ったけど、そのときはなにも気づかなかったよ。
コバルト・ブルーのシャツにベージュ色の半ズボン。サングラスを襟もとに挟んでいる。年齢は五十代のなかばくらい……。
ビールを注ぎ、口に運んで、クイクイと喉を動かして飲み干す。そして、フーッと満足そうに息をつき、デッキチェアーに体を預け、空を見あげている。
——ああ、うまそうだ——
すぐそばにその男がいるような気がしたね。ビールを注ぐ音まで聞こえたように思ったよ。
——いい身分だなあ——
まったくの話、あれほどうまそうにビールを飲むのを見たことがなかった。
——それにしても……どこのどいつだ——
日本人はみんな貧しかったからね。
望遠鏡から眼を離すと、たちまち男の姿は消えてしまい、
——はてな——
と、のぞいて見ても男の姿がない。それらしい庭が見えない。
——変だな——
もう一度望遠鏡をあちこちに向けてみたけれど、いったん視界から消えた風景はもう捕らえられない。どんなに一生懸命捜してみても無駄だった。しばらくはキツネにつままれたような気分でながめていたな。
そのうちに空は薄暗くなり、町も暮れ、展望もきかなくなった。あきらめるより仕方がなかったよ。
とても不思議な体験だったけど、とにかくレンズの中の男がうまそうにビールを飲んでいたのが忘れられなくてね。
ビール党に転向したのは、あのせいじゃないのかな。
笑うかもしれないけど、あのとき以来ずーっと心のどこかで挑戦しているところがあってね。
——あの男よりもっとおいしくビールを飲みたい——
ってね。
とにかく、あいつは最高においしそうに飲んでいたんだ。心になんの屈託もなく、優雅な気分で、一番おいしいビールを飲んでいたんだ。夏の夕日をあびながら……。
——よし、オレは負けないぞ——
努力はしてみたけれど、なかなか勝てなかった。勝ったと思ったことがなかったよ。
でもネ、最近ようやくわかったんだ。
まあ、内輪の話だけど、去年、娘が結婚し息子が就職し、やれやれと思ったとたんに家内が死んでね。悪い女じゃなかったけど、口うるさくて、気詰まりだったな、一緒に暮していて……。たった独りになって、なんか今まで考えていなかった人生がこれから送れそうな気がして来たんだよ。
体はすこぶる健康だし、財産も一人で気ままに生きて行くくらいのものは残した。
会社をやめ、勧めてくれる人があって、つい先日鎌倉の海辺に小さな家を買ったんだよ。芝生があって、白いテーブルと白いデッキチェアーがあってね。
気分は最高だね。昨日の夕方は、コバルト・ブルーのシャツにベージュの半ズボン。いや、なんの意識もなくそれを着てたんだ。
そのスタイルで飲んだビールのうまいのなんのって、生涯で一番だね。
とたんに気がついたんだ。
「なんだ、あの男はオレだったのか」