テレビ番組について話すのはむつかしい。私が見たものを相手が見ているとは限らない。いったん見のがした番組を後日あらためて見る手段はほとんどないに等しい。
NHKはともかく、住んでいるところがちがえば、もともとともに見ることのできない番組もある。
「きのうのドラマ、おもしろかったよ」
「あら、そうでした?」
酒場で話しても、この手の話はあまり弾まない。ホステスは職業がらたいていの話に、相づちを打ってくれるが、このテーマはむつかしい。こっちは夜の七時以後の番組を言っているのだし、彼女たちは働いていて、見ることができない。
今、このエッセイを読んでいるみなさんと私とのあいだにも共通の知識があるとは言いがたい。
そんな事情は充分に知っているのだが、日本テレビ系で毎週放映している〓“笑点〓”、あの大喜利のコーナーなどは、ほとんどの人が見ているのではあるまいか。大変な長寿番組のはずである。
まん中のあたりに桂歌丸師匠がすわっていて、この人は業界では偉い人だから司会の円楽師匠まで気を使っている。
——ごま、すってるみたい——
そんな気配を感ずることもある。
それはともかく、この大喜利では〓“光る〓”だの〓“つる〓”だの、あるいはもっと直接的に〓“はげ〓”だのと言って歌丸師匠をあてこすり、からかって笑いを誘う。それがおきまりになっている。言われた歌丸師匠がふくれっつらを作って見せるのも、おきまりの一つである。そんなシーンを見たことのある人も多いだろう。
私はテレビを見ながら、
——歌丸さんは、はげかなあ——
と、首をかしげた。
テレビの撮影では被写体に強い光を当てるので髪の毛は普段よりずっと薄く見える。画面で見る歌丸師匠はさほど光ってもいないし、けっしてつるつるでもない。〓“笑点〓”がこの先何年続くかわからないけれど、昭和六十三年九月現在では歌丸師匠の頭は、
——少し髪の薄い人だな——
と感ずるくらいのものである。
ああ、それなのに、寄ってたかって〓“光る〓”だの〓“つる〓”だの〓“はげ〓”だのと笑う。〓“笑点〓”は、日本語の誤用を毎週毎週全国にまきちらしているのではあるまいか、大喜利コーナーのしゃれはしゃれとして、これはゆゆしい問題である。
「あなただって、はげ頭よ」
妻にそう言われて私は愕《がく》然《ぜん》とした。
私も薄いことは薄い。多分歌丸師匠くらい……。掌を脳天のあたりに当てると、髪よりも肌の感触、少し汗のねばりを感ずる。
私の家系は代々髪が薄く、私の兄弟はだれ一人として父の頭に髪の毛があったのを知らない。それに比べれば、私は自分の代でずいぶん改良を進めたほうである。正直なところ私は自分の髪についてはもう達観している。人はあまりに欲張ってはならない。とにかくこの年齢になるまでこれだけあったのだから……。足ることを知らなければなるまい。
だから……妻の言葉に驚いたのは、けっして詰《なじ》られたと思ったからではない。妻もまた達観している。
「これは、はげ頭ではない」
と私は厳粛に反論した。
読者のみなさんも機会があったら私の写真を見ていただきたい。どこかに載っているだろう。いかがでしょうか。
「だって、はげてるじゃない」
「たしかに部分的には薄くなっているところがある。しかし頭の面積全体から考えれば、まだ少ない。なにもはえていないところが頭の六、七割を占めるようにならなければ、はげ頭ではない」
「うそ。あなたくらいなら普通〓“はげてる〓”って言うわ」
妻はとくに邪《じや》慳《けん》な性格ではない。むしろ心のやさしい人である。
「それはちがうな」
「やっぱり身びいきになるのね」
「ちがう、ちがう」
おわかりだろうか。これは定義の問題である。ひいては日本語の問題である。私は不安になった。
——もしかしたら私がまちがっているのかもしれないぞ——
〓“笑点〓”の例もある。私はテレビがまちがえているのだとばかり思っていたけれど、私のほうの勘ちがいということもある。
話はそれるが、私はつい最近まで〓“女王〓”のことを〓“じょうおう〓”と発音していた。そう読むものだと信じこんでいた。テレビのアナウンサーが〓“エリザベスじょおう〓”と、詰まり加減に言うのを聞いて、
——へんな発音だな——
と冷笑していた。
しかし、まちがっていたのは私のほうである。これは〓“じょおう〓”が正しい。辞書にもそう書いてある。
はげ頭についても辞書を引いてみたのだが要領をえない。厳密な定義は記してない。
妻との論争はなおも続いた。
「はげ頭というのは、髪の毛のない頭のことだろ。ないというのは、完全にないか、少なくとも半分以上ない状態でなければ、おかしい」
私もしつこい。小説家である以上、言葉には厳密でなければなるまい。
「じゃあ、あなた、ペンキがはげてるってのは、半分以上はげてることなの? 若はげって言うじゃない。若くてあなたくらいなら、りっぱな若はげよ。はげ山だって、一部分はげているだけじゃない」
妻もかつて外国人に日本語を教えていた。言葉には一家言を持っている。簡単には譲らない。
「そうかなあ」
言われてみると、世間の用例はかならずしも私の考えに従うものばかりではない。
私は思い悩んだ。最後にすばらしい理屈が浮かんだ。
「言葉使いなんてものはネ、どっちの意味にとってもいいような場合なら、そりゃ、できるだけ多くの人を幸福にするほうの用例に従うべきだよ」
これはヒューマニズムである。
話はふたたびそれるけれど、私たち男性は周囲の女性を呼ぶときに、すぐに〓“ばあさん〓”だの〓“ばばあ〓”などと言う。四十代はおろか、三十代の女性にまでそんな呼びかたをする。
照れがあってのことだろうが、日本語として正しくない。もちろんヒューマニズムにももとる。まだ相手は充分に若いのだから。
「そりゃ、そうだけど」
まだ〓“充分に若い〓”私の妻はなおも釈然としない様子であった。