「先生、景気はどうですかね」
カウンターのむこうから声がかかった。L字形のカウンター。左四十五度のあたりに眼尻の垂《た》れた赤ら顔がいる。この店でよく見る顔だが、名前は知らない。
「いいわけないでしょ」
佐伯は面倒くさそうに答えた。
先生と呼ばれて、すぐに自分のことだと納得できるまでに何年かかかった。今でもまだなじめない。少し馬鹿にされているような気がする。
「円高のせいかね」
「関係ないんじゃないですか」
酔っぱらいの話相手になるつもりはなかった。そんな気分を、むかいに立ったミドリがいち早く察知して、
「これから仕事をするんでしょ」
と尋ねる。そのことを充分に知っていながら聞いているのだ。
「ああ、ちょっとね。二時過ぎまでかな」
佐伯も口裏をあわせる。ミドリの視線が意味ありげに揺れてから、
「大変ね」
と、気のない声で呟いた。
東中野の繁華街。�サン�のカウンターにはママとミドリがいる。二人とも気さくで、器量は上の下くらい。勘定の安いせいもあって、よくはやっている。二人の印象が似ているのでだれもが姉妹かと思うが、そうではない。なんの関係もない他人同士と、佐伯もしばらく通いつめて教えられた。
「どうして�サン�なんて名前をつけたんだ?」
赤ら顔は今度はママに話しかけている。酔うと言葉がぞんざいになるのがよくない。
「いいじゃない。いつも心に太陽を……」
「�サン�だけならいいけど、ここは酒場だろ。バー�サン�ま、いいか。ママもそう若くないしな」
ママは三十五、六。ミドリは三十二。まだまだ若いが、この手の店では三十を越えると客の悪口がきつい。
「十時か。行くかな」
佐伯が時計を見て呟く。ママが耳ざとく聞きつけ、
「あら。もう一ぱいだけどう?」
と勧めたが、
「いや、これから一仕事あるんだ」
残りの水割りを飲み干して席を立った。
「ありがとうございます」
ミドリがママの様子をうかがい、動きのないのを見てからドアの外まで送って来た。
「またお近いうちに」
声高に告げ、それから小声で、
「じゃあ、あとで」
と言う。佐伯は大仰《おおぎよう》に投げキッスをして背を向けた。
マンションまで歩いて五分足らず。案の定、郵便受けに厚い茶封筒がさし込んである。留守のあいだにお使いさんが来たのだとわかった。
佐伯の仕事は雑文稼業。原稿用紙にペンを走らせることなら、ほとんどなんでもやる。一昔前にシナリオ作家を志して教科書会社を罷《や》めたが、もうひとつうまくいかない。
次の誕生日が来れば、四十歳になる。家族がないのだから気楽なものだ。シナリオ作家にはなれそうもないが、今の生活に大きな不満はない。
今夜の仕事は週刊誌のアンカー。数人の取材記者が集めたデータ原稿を読み、それを材料にして指定の枚数にまとめあげる。それが週刊誌の記事になる。データ原稿が届くのはいつも遅い。ゆっくり読んで一時間、まとめるのに四、五時間。明日の昼までに仕上げればいい。�サン�が終ったあと、ミドリが訪ねて来る約束だった。
男と女の縁なんか、どこに転がっているかわからない。�サン�に行くようになったのは、ほんの半年ほど前のことだ。行きつけのやきとり屋が臨時休業で、仕方なしにスナック風の店を捜してのぞいた。まだ早い時間で、ミドリが一人でサラダを作っていた。
「ママ?」
「ううん、ちがうの。ママはもっと美人よ」
「あなたもすてきだなあ」
そんな会話で始まった仲だった。親しくなってから、ミドリは、
「初めっからお世辞がいいんだから……。危険な人だと思ったわ」
と口癖のように言う。
危険なものを待つ心がミドリの中にあったのかもしれない。
店に行くようになって間もなく、新宿の本屋で偶然会い、コーヒーを飲み、約束をして映画を見た。ママには内緒の関係だった。
どういう素姓の人か、佐伯もまだよくは知らない。身寄りは少なく、母親と暮らしている。結婚は……多分したことがないだろう。同棲、これはいくらか体験があるかもしれない。
「どこかへ連れてって」
「どこへ?」
「どこでも」
先週、休日を利用して奥日光へ行った。そこで初めて体を交えた。まだ始まったばかりの関係。行く末のよしあしはわからないが、今が一番よい時期であることはまちがいない。
体の特徴もまだよく覚えていない。顔だって、眼を閉じると、すぐに浮かぶかどうか。ずいぶん親しい人でも、さてとなるとうまくイメージの結べないときがある。ミドリは穏やかな、特徴の少ない面差しだから余計にむつかしい。
二つの�ち�の字だけはおぼろげながら記憶している。乳房と恥毛。一つは堅くて、小さい。しかし、よく感じる。もう一つは細く密生し、黒い短冊《たんざく》のような印象だった。今夜また少し記憶をたしかにするだろう。
「さーて」
声をかけて自分を励ます。机の前にすわってしまえば、仕事はさほど厭ではない。とりわけ今夜みたいに女が訪ねて来るとき……それまでの時間は能率があがる。すてきな時間が待っていると思えば張りあいもある。ご褒美《ほうび》をいただくためには、人は一生懸命働かなければなるまい。
茶封筒を切って、乱雑に書かれた原稿を取り出す。きれいな字、汚い字。字の巧拙《こうせつ》は問わないが、どうしてこう読みにくい字があるのか。まるで読まれることを拒否しているみたい……。
テーマは自殺。たて続けに自殺があった。あるエリート課長の自殺、女性タレントの自殺。通常のモラルで裁断してはつまらない。新しい自殺観。「あれは自殺菌のせいなのです」とかなんとか、そんなタッチがいい。これはすでに編集長と打ちあわせのできていることだった。
まず事実関係のデータを読む。エリート課長のほうは原稿もきれいだが、幼いタレントのほうは記者の字まで幼く、誤字がある。
——適材適所なのかなあ——
などと馬鹿らしい思案が浮かぶ。
自殺についての識者の意見が五つ。最新の統計資料が一つ。これは結構ページ数が多くて、全部理解するのが厄介だ。
雑誌の読者は、取材をした当人が原稿を書くものだと思い込んでいるだろう。たいていの場合はそうだが、最後のまとめ役、つまりアンカーが書いている記事もこの世界ではけっして少なくない。
ろくに文章がかけない記者がいるから。そういう連中を走らせるほうが人件費が安くてすむから……。
もとより記事というものは取材した当人が書くのが一番いい。それが当然であり、精度も高いはずだが、アンカー制度にも多少の長所はある。
取材をした人は、自分の取材した対象にこだわりがある。愛着があったり反感があったりして、なにかしら思い入れが残っている。
アンカーはそういうことに関係なく、どれを取捨選択すれば記事がバランスよくまとまるか、おもしろくなるか、それを拠《よ》りどころにして書く。週刊誌などでは、これが重宝だ。
——正確であるより、おもしろく、読みやすく——
佐伯はそのこつをよく飲み込んでいる。
タバコは何本喫ったかわからない。途中でコーヒーを沸かした。データ原稿に縦横無尽に赤線を引き、番号を打ち、その順序にしたがって記事を書く。一ぺージに原稿用紙四枚が入る。六ページの特集は二十四枚前後にまとめればよい。
六枚目を書きあげ、七枚目に入ったときブザーが鳴った。
「早かったじゃないか」
「お仕事はかどりました?」
ミドリはうしろ手でドアを閉じる。答えるより先に首筋を抑えて唇を奪った。アルコールが少し匂う。
「順調だ」
「続けてらして」
「いや、少し休む。そのつもりで今まで頑張ったんだ」
「そう。じゃあ飲みたい」
「なにがいい?」
「ビール」
「おつまみは、さき烏賊《いか》くらいしかないぞ」
「うん。それでいい」
佐伯は駅の売店へ行って、おつまみをいつも山ほど買って来る。それを肴《さかな》にしてビールを飲む。佐伯の深夜の小休止だった。
デスクの脇に低いテーブルがある。ミドリは絨毯の上にペタンとすわる。コップもおつまみも佐伯が用意した。
「ご苦労さん」
「カンパーイ。おいしいわ」
ミドリは少し酔っている。眼もとが少し赤く染まって艶《つや》っぽい。
「さんざん飲んだんだろ」
「ううん、飲まないよ。お店じゃセーブしてんの」
「本当かよ」
「もう一ぱい、ちょうだい」
ミドリはアルコールに強いたちではない。男の住む部屋に一人でやって来て、照れ隠しをしているのかもしれない。
佐伯のほうだって、何時間も前からずっと楽しみにしていたお客の到来だった。現われた瞬間から抱きたくてたまらない。
ビールを注ぎながら肩を引き寄せた。
ミドリは一気に飲み干して崩れる。
「サーさん、好き」
「俺も好きだよ」
唇が重なる。舌がからみあう。
男の手が待ちきれないようにブラウスのボタンをはずし、ブラジャーのホックを解く。乳房は小さいが、乳首は大きい。背中のほうから抱え、羽がい締めにして乳首を指のあいだに挟んだ。
ミドリの息が荒くなる。
「明るい」
と抗議をするが、あかりの下を本気で嫌っているようには見えない。抱きあうたびにミドリは少しずつ大胆になる。均整のよくとれた、美しい裸形だ。とりわけウエストのくびれが際立《きわだ》っている。キュッとくびれて、その下は白い桃のようにふくらむ。
ブラウスを奪い、スカートを剥《は》いだ。
「自分で脱ぐうー」
あらがうのを委細かまわず押さえて残酷にむく。そうでもしなければ、ずっと待ち続けていた欲望のバランスが取れない。
「きれいだよ、本当に」
中途半端に下着をつけているより、女は生まれたままの姿のほうがずっと美しい。
「シャワー……」
荒い息の下で嘆願するように呟くのだが、今夜はそれも許したくない。
「駄目。このままキスさせなくちゃあ」
佐伯も一気に服を脱ぐ。
そしてあかりの真下で絨毯をベッドにして汗ばんだ女体に激しい愛撫を加えた。
「ねぇ、抱いて、抱いてよオ」
女は眼を閉じ、顎を浮かし、泳ぐように宙を掻いて催促する。男はそれでもまだ、少しじらした。
やがてあせりの表情が苦痛に近づくのを待って、ようやく体を重ねる。
火を当てたような声が女の口からこぼれて糸を引いた。
佐伯はそのまま眠った。
ふと眼をさまして……毛布をかけているところをみると、ミドリがかけてくれたのだろう。あかりも消えていた。
窓越しにネオンの輝きがもれて来る。寝息が聞こえる。隣にも毛布の山があり、山の麓で女の髪が波打っている。
——いいのかな——
そう思ったのは、ミドリの帰宅時間のこと。母親と一緒に暮らしているという話だった。いくら夜の仕事でも母親は浅い眠りのまま娘の帰宅を待っているだろう。
腕時計を捜したが見つからない。立って本箱の上の時計を取り、窓の光に当てた。
三時二十分……。
——起こしたほうがいいのかな——
枕もとに近づき、額に唇を当てた。
毛布が揺れ、ミドリが眼をあける。
「眠っちゃったわ」
「よく寝てた」
「サーさんもよ。今、何時?」
「三時だ」
と少し早い時間を言う。
「そう。帰らなくちゃ」
下から腕を伸ばし、ぶらさがるように抱きつく。裸のままだ。乳首に触れると、
「駄目。またほしくなるから」
眼を細くして泣くような表情を作った。
「うん」
佐伯のほうもまだ仕事が残っている。眠る時間も必要だ。
「あっち向いて。仕事してて」
佐伯は、部屋のあかりをつけ、言われるままに背を向けて机の前にすわる。原稿用紙のノンブルは7。そこに三行だけ書いてある。
四行目をすぐに書き繋いだ。
ミドリは手早く服を着る。髪を撫でながら、
「変じゃないわよね」
と尋ねる。
「今、男に抱かれましたって、そういう顔してる」
「嘘」
「あははは。ここべつにおかしくないだろ」
原稿用紙の字を指さした。ミドリは少し読んで、
「べつに……。どうして?」
「三行目と四行目のあいだ」
「ええ?」
「そこで、愛しあったんだ」
「バーカ」
首を一つすくめてから、
「いつも鉛筆ですか」
と尋ねた。
「そうだよ」
「汚いわ。消しゴムの屑で」
そう言いながら机の表面のゴム屑を集めて掌に取って捨てる。指のきれいな女だ。
背後から胸を押さえ、首をねじらせる。
「駄目よ。また来ていい? 明日の夕方」
そう言われて、初めて明日が日曜日のことを思い出した。
「いいよ。何時?」
「午後。三時くらい」
「いや、三時には来客がある。出版社の人が来るんだ」
「じゃあ五時。なにかおいしいもの食べさして」
「よかろ」
「じゃあ、さよなら」
「送って行こうか」
「いいわ。慣れてるから」
佐伯が手を伸ばし、もう一度軽く唇をあわせたが、ミドリはすぐに振りほどき、逃げるようにドアの外へ消えた。性にはとても感じやすいが、終ってしまえば男のように淡白だ。
——真子もそうだったな——
一人残された佐伯は、タバコをくゆらし、もう一人の女を思い出した。
九年前、一大決心をしてサラリーマンを罷《や》め、まだ間もない頃だった。ちょうど三十歳を境にする時期だった。罷めてはみたものの、行く先の見通しは思いのほかきびしい。
——まずかったかなあ——
翻訳をやったり、雑誌のクイズを考えたり、原稿用紙を埋める作業ならなんでも飛びついてやっていた。住まいは新高円寺のアパート。
夜更けて階段を昇る音が響き、そっと佐伯の部屋のドアの前に止まった。
ノックが鳴る。
「だれですか」
「私」
声に驚いてドアを開けると真子が立っていた。一年ぶりに見る顔だった。
「どうしたんだ?」
「会社にお電話したら、罷めたって言うでしょ。すごいのね。はい、陣中見舞……」
四角い箱のメロンを突き出す。
「汚いとこだけど……。よくわかったな」
「交番で聞いたの。新しい番地だから区画がわりとキチンとしているみたい」
六畳間一つとキッチン。仕事机の椅子を真子に勧め、佐伯自身は背のない椅子に腰をおろした。
「お茶、入れようか」
「いい。ビールを買って来たから」
ハンドバッグの隣の紙袋にカン入りビールが三本入っている。
——なんで、また?
それが一番聞きたい質問だったが、佐伯は喉の奥に飲み込んだ。
一年前……とても真子が好きだった。そのときまで二人はとても親しかった。少なくとも佐伯はそう信じていた。
「なんだか波長があわないみたい」
ある日、真子が呟く。
「そんなこと、ない」
「今にあなたも気がつくわ」
男と女の仲なんて崩れ出すと早いものだ。どことなく気持ちのしっくりしない日が続き、突然糸が切れた。どう連絡をとっても会えない。話ができない。
朝、真子の家の前で張り込んだ。玄関のドアが開き、真子を吐き出す。
サラリーマンたちが黙々と駅へ向かう道で追いつき、黙って隣を歩いた。
真子は首をねじり……気がつく。
「あら」
と、一瞬笑ったが、すぐに表情が堅く変った。
「どうして避けるんだ」
真子はなにも答えずにスタスタ歩く。振り切るように急ぐ。
「何度か電話をした」
「…………」
駅が近づいていた。真子は定期を出して改札を抜ける。佐伯はキップを買わなければいけない。
「それは……ないだろ」
逃げる真子の肩を手荒く押さえて引き戻そうとした。
「人込みで、みっともないじゃない」
思わず手を縮めるほど冷たい、きびしい言い方だった。
「しかし……」
「暗いのね。待ち伏せなんかして」
「会いたかったんだ」
「ベタベタした人、きらい」
「厭になったら厭になったと、はっきり言えばいいじゃないか」
「そう。じゃあ言うわ。厭になったの」
そう告げると、くるりと体を翻《ひるがえ》して改札口を抜けて行った。それが最後だった。
たしかにあんな待ち伏せは冴えない。じめじめしたやり方だ。人込みで、荒っぽい仕ぐさを見せたのもいけなかった。
謝まろうと思ったが、その機会さえも与えられなかった。心変りは明白だった。
——あんな女——
そうは思ったが、忘れられない。真子の笑顔や話し声や二人で過ごしたさまざまな時間が心に浮かんで来る。もう会えなくなったんだ、だれか男がいるんだ、それを考えると真実胸がキュンと痛んだ。本当に好きな女だった。
しばらく日時を置いて真子から手紙が届いた。いつかの朝よりはずっとやさしい文字が並んでいたが、中身には大差はない。別れの確認でしかなかった。
「いい部屋じゃない。駅は新高円寺?」
「うん」
夢ではあるまいか。とうにあきらめていた女がなんの前ぶれもなく、訪ねて来た。住所を頼りに、一度も来たことのなかった部屋に……。
恨みなんかもうなにもない。ただうれしい。
「罷めて……やっぱりシナリオのほう?」
その希望は真子にも話したことがある。
「うん。少しずつね」
「そう。うまくいくといいわね」
メロンを四つ切りにして、二つずつ豪華にむさぼった。
「おいしい。冷たくて」
それよりももっと豪華な夜が待っていた。佐伯は初めて真子を抱いた。感じやすい体に触れながら、背後に男の影を感じた。熱い疼《うず》きを覚えたが、それでも不服はなかった。
真子は何度新高円寺のアパートに訪ねて来ただろうか。
「これ、買って来たの。机の上が汚いでしょ」
紙包みを解いて出したのは、小さな卓上掃除機だった。電池を入れ、机の上を滑らせてごみを集める。
「ありがとう。役に立つ」
あの夜も当然抱きあっただろう。真子は熱く昇りつめ、淡白に終る。その関係と同じように二人の再度の親しさもそう長く続かなかった。今度もまた突然真子はよそよそしくなった。姿を見せなくなった。連絡を取りにくくなった。�やっぱり駄目のようです�と記した手紙が届いた。
佐伯のほうも少しは慣れている。
——同じ女に二度振られちゃったかな——
苦笑するゆとりもあった。卑しい話だが、何度か抱きあって、
——まあ、もとは取れたか——
そんな気分もあったのかもしれない。
何年かたって佐伯も少しは大人になり、真子の気持ちがわかるようになった。真子の側から見た風景が見えるようになった。
真子はもともと佐伯のことをそう好きではなかったのだろう。嫌いではなかっただろうが、とても好きというほどの男ではなかった。いったんは親しくなったが、どうも食い足りない。きっぱりと縁を切ろうとした。ほかに好きな男ができたのかもしれない。その可能性は充分にある。
だが、そちらの男との関係もそううまくは運ばなかった。さびしさのあまり真子は、いつも自分を暖かく迎えてくれる甘い男を思い出した。メロンはそのためのおみやげだった。抱かれる喜びも身についていたかもしれない。抱かれなければ癒えない傷だったのかもしれない。とはいえ、ただの雨やどり。長く留まるところではなかった。
世間によくあることだ。男も女もやっている。真子は無器用だから……感情をそのまますぐに行動に表わすタイプだから、二度も同じ男を傷つけてしまったのだろう。当たらずとも遠くはあるまい。
真子の側の事情はおおむね推測がついたが、だからと言ってなにもかも忘れられるわけではない。恨みは消えたが、虚《むな》しさは残った。
またたくまに十年近い歳月が流れたような気がする。佐伯としては、なによりもフリーのライターとして立場を確立することに懸命だった。
遊び心で何人かの女を抱いた。
「ねえ、結婚しよ」
「まだ早いんじゃないか」
「結婚しましょうよ」
「もう遅いんじゃないか」
愛なんて馬鹿らしい、喜劇みたいに二つの台詞を使い分けて生きて来た。
真子の思い出と言えば、机の上にいつも卓上掃除機があった。手みやげの好きな人だったが、奇妙なことにあとに残ったのはこれだけだった。
初めて見たときは便利そうな道具だったが、使ってみると、単三の電池二本では吸引力が弱い。道具というより玩具に近い。掌《てのひら》でごみを集めるほうが手っ取り早い。いつのまにか電池も切れてしまった。それでもべージュ色の小さな道具は机のすみに残って、時折真子のことを呼び起こす。
——幸福にやっているのかな——
結婚して大阪へ行ったはずだが、消息はそれっきり途切れた。
「これでよし。一件落着」
ミドリが帰ったあと、朝の七時までかかって�自殺�の記事をまとめた。原稿用紙のます目を埋める作業はたっぷりと時間がかかる。一時間にせいぜい四、五枚。少しでも筆が鈍れば、たちまちこの枚数は減ってしまう。
タバコがうまい。夜通し喫《す》っているのだがやはりこの一本がうまい。午前十一時にお使いさんが取りに来る約束になっている。強い水割りを作り、その酔いを借りて眠った。夢を見たのは、目ざめるすぐ前だったろう。
お使いさんのブザーに起こされ、寝呆《ねぼ》けまなこで原稿を渡した。
夢は女の夢。赤坂のカフェテラスで会って、そのまま奥の部屋に入った。カフェテラスとホテルが続いているらしい。女はミドリだと思ったが、真子かもしれない。二人が一緒になったような不思議な感じの女だった。
そのあともまた少し眠った。
起きて手作りのトーストを食べていると、ブザーが鳴って顔見知りの編集者が現われた。
「少し早かったけど……」
「いいですよ、どうぞ。昨夜はほとんど徹夜で……」
「そう。忙しくていいじゃない」
「雑用ばっかりでね」
この編集部からはアメリカの青春小説の翻訳を頼まれている。背筋がくすぐったくなるような純愛物。しかし外国の物語だと、若い世代はさほど違和感がないらしい。ロマンチックはわるいものじゃない。二冊読んで、どちらがおもしろいか、そのあらすじを話した。
「どう、ビールでも」
「昼間っから?」
「いいじゃない」
仕事の話が一くぎりしたところでビールを飲みながら雑談を交わした。
「もうこの手の小説も頭うちだね」
「おどかさないでよ、飯の種なんだから」
七、八年前、佐伯のところへ初めてこの仕事を持って来てくれたのが、この編集者だった。この出版社で二十冊近く訳している。生活の基盤としてずいぶん助かった。マンションを買ったのも、そのおかげだろう。とはいえたしかに限界は見え始めている。
「これからはファミコンだね。アドベンチャー・ゲーム」
「アドベンチャーねえ」
「五十通りくらいの人生を用意して、入力する。コンピューターを相手にサバイバル戦争をやるわけだ。ソフトの知恵は小説家の発想に近い。ストーリィを考える。佐伯さんもやってみない? 知りあいの業者がいるのよ」
「俺は駄目だよ」
「いろんな人生を考えるんだから……。東大へ行くか早稲田へ行くか。東大を選んだら早稲田閥の会社へ入って出世ができない、とか……」
「考えておくよ」
編集者は一時間ほどいて帰った。
佐伯は風呂に入って髭を剃る。
またブザーが鳴った。
「ちょっと待ってくれ」
バス・ローブを着てドアを開けた。
「お風呂、入ってたの?」
「ああ。超朝寝坊をしちまったからな。今まで編集者が来ていて」
「そう」
ミドリは大きな荷物を抱いている。
「どうする? このまま食べに行く?」
夕食をご馳走する約束だった。今夜は楽しい夜になりそうだぞ。
「いいわよ」
「じゃあ、あがって雑誌でも見ててくれ。用意をする」
「はーい」
「あんたは一流のホステスになれないな」
「どうして?」
境の戸を締め、声だけで話した。
「一流のホステスは店にいるときが一番きれいなんだ。あんたは普段のほうがいい」
ちょっと屈折したお世辞。でもこれは本当だ。今日のミドリは溌剌《はつらつ》としてとても美しい。
「そうかしら。お化粧って……きらい」
「お待ちどおさん」
新宿へ出て寿司をつまんだ。酒を飲んだ。そしてほろ酔い加減でふたたびマンションへ戻った。
「いやン、駄目」
昨夜と同じようにあかりの下で衣裳を奪うと、ミドリはすでに流れ落ちるほど濡れていた。ずっとこの瞬間を待っていたのかもしれない。
「ねえ、抱いて、抱いてよ」
いつもの台詞をもらす。
一層強い歓喜が夜を満たした。
時計が三時を指すのを見てミドリは帰り仕度にかかる。
「あ、忘れてたわ」
「なに?」
「おみやげを買ってきたの」
「へーえ」
ドアの脇に荷物が置いたままになっている。箱を開けるとフットボールほどの流線形の機具が現われた。色はベージュ色。
「なんだ?」
「卓上掃除機。机の上、汚いじゃない。コンセントで蓄電ができるの。便利よ」
組み立ててスウィッチを入れた。
ブーン。
音が大きい。吸引力も強い。これはずっと大がかりだ。
「ね、いいでしょ。ちょっとしたお掃除もできるし」
「ありがとう」
「使ってみて。じゃ、帰るわ。また……。店にもいらしてね」
「うん。電話する。今週は忙しいけど」
「サーさん。私のこと好き?」
「ああ、好きだ」
「そう。もっと情熱的に言って」
「この次はそうする」
「私も好きよ、サーさんのこと」
「うん」
ドアを閉めようとするのを、
「ちょっと待って」
と引き留めた。
「なーに?」
「これを角のゴミ捨て場に、捨ててってくれ。明日は分別ゴミの日だから……」
「はーい」
机の上でほこりをかぶっている古い、小さな卓上掃除機を取った。
「もう、これはいらない」
「あ、本当ね」
ドアが閉まった。
足音が遠ざかる。
佐伯はタバコをくゆらし、卓上の新しい掃除機のスウィッチを押してみた。煙までもが吸い込まれていく。
——新しい仕事か——
アドベンチャー・ゲームにまで手を出す気はないけれど……。生きて行くことは、次々に脱皮をして行くことなのかもしれない。ここ数年、ずっと虚しい夜が続いた。夜のあとには朝が来るだろう。
佐伯はもう一本タバコに火をつけた。煙がゆっくりと流れ、いつのまにか窓の外が白くなっていた。