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時のカフェテラス13

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:ささいな理由 郡山《こおりやま》駅を出るときに降り始めた雪は、列車が関東平野に入ってからもいっこうに降りやまず、むしろ勢
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 ささいな理由
 
 
 郡山《こおりやま》駅を出るときに降り始めた雪は、列車が関東平野に入ってからもいっこうに降りやまず、むしろ勢いを増したようにさえ見えた。
 白い雪片が窓に当たり、細い水滴となって飛んで行く。
「お母さん、寒くないかなあ」
 今日一日の寒さを思い出したように憲一が呟いた。敏雄もぼんやりとそれを考えていたところだった。新設の霊園は小ぎれいに作られていたが、まだ墓石も疎《まば》らで、雪空の下ではとりわけさむざむとして見えた。
「もう寒いもなにも感じないさ」
「お母さんは、なんでも人より先へ行って用意をしているのが好きなほうだったから」
 京子が頷くように顎を揺すって言う。言葉を切ったあとで唇をキュッと引きしめる仕ぐさが、このごろひどく母親の春子に似て来た。
 春子にはたしかにそんな癖があった。たとえば、お花見のとき。いち早く桜の下に席をとって弁当を並べているような……。
「憲一も飲むか」
 敏雄がコップ入りの酒を取って突き出す。敏雄は丸顔。憲一は細面《ほそおもて》。この父子は、ほとんど容姿に似たところがない。
「いや、まだビールが残っている。お父さん飲めば」
「うん」
 京子がさき烏賊の袋を開けて、中身を取りやすいようにする。車内は満員に近いが、四人用の座席に親子三人ですわる程度のゆとりはあった。
 ——いつも……ちょうどよい人数だった——
 敏雄はわけもなく思い出す。いつのこととはっきり記憶があるわけではない。家族で旅行に出ることなどめずらしかった。それでも長い年月のあいだには、五回や十回くらい旅行をしただろう。両親と子ども二人、総勢四人の家族は、列車の席を専有するのに一番よい人数だった。春子が欠けてしまい、もうこれからは四人で旅をすることは、けっしてありえない。
 春子は敏雄より一つ年上だった。五十六歳の死は、ずいぶん早い死のほうだろう。不快を訴え始めたのは、去年の秋ごろから……。顔色がひどかった。ただごとではないと覚って病院に駈け込んだが、なにもかも手遅れだった。手術もほとんどなんの役にも立たなかった。
「家に帰りたい」
 最後はしきりに退院を望んでいた。
「俺がここに泊ってんだから同じことだろ」
「そうだわね」
 春子は自分のわがままを長くは言わない。ひっそりと心の中に隠してしまう。どうせ死ぬものなら体にわるくても退院させてやればよかった。
 四十九日の法要をすませ、骨を郡山の霊園に運んだ。そこは春子の故郷でもある。
 だが、特に親しい人が住んでいるわけではない。もともと係累《けいるい》の少ない境遇だった。
 事情があって敏雄の一族の墓には入れたくなかった。どの道墓は新しくして行かなければいっぱいになってしまう。やがては見たことも聞いたこともない人と一緒に眠ることになってしまう。たまたま知人に新設の墓地を勧められ、それを入手した。
 郡山なら東京から近い。新幹線で一時間あまり。
 父子三人で出かけた帰り道だった。
「お母さんは、お父さんのどこがよくて結婚したの?」
 京子が駅売りのお茶をすすりながら聞く。グラスが小さいので口を尖《とが》らせて飲まなければいけない。
「さあ、どこかなあ」
「いっぺんお母さんに聞こうと思っていたのに……」
「男っぷりじゃないことはたしかだな」
「そりゃそうだ」
「恋愛結婚だったんでしょ」
「見合いじゃないからなあ。でも恋愛なんて……そんなにぎやかなもんじゃなかったな」
「見合いと恋愛のほかに、もう一つなれあいってのもあるんだって」
「うまいことを言うな。ミアイとレンアイとナレアイか」
「そう」
「俺ができちゃったもんだから、やむをえず結婚したんじゃないのかな」
 憲一が笑いながら言う。
「馬鹿なことを言うんじゃない」
 敏雄は笑いを消して、きっぱりと否定した。
 通路の自動ドアが開き、中年の女がもっこりとした様子で姿を見せる。一瞬、
 ——春子かな——
 と思ったりする。しばらくはこんな感覚に襲われるだろう。
 
 憲一の指摘はあながち見当ちがいではなかった。むしろほとんど的中していると言ってもいいだろう。だからこそ敏雄は笑いを消して強く否定しておかなければいけない。
 生きて行く道筋にはいろんなことがある。ほんの数人の人だけしかが知らない事実もある。だれもが語らず、みんなが死んでしまえば、出来事はだれにも知られず、消えてしまう。
 あの頃、敏雄は渋谷のパン工場に勤めていた。二十代のなかばだった。
 田舎の高校を卒業し、大学進学を志して一年だけ浪人生活を送ったが、結局失敗した。私大へ行くほどの余裕はない。そんなことなら初めから就職をしたほうがよかった。中途半端の身分のままあっちに勤め、こっちに勤め……なかなか満足のいく職場にはめぐりあえなかった。
 そのうちに田舎の親父が死んで、もう自分一人で生きていくよりほかにない。しばらくは東京で食うや食わずの生活を送っていた。
 それでも春子と会ったのは、パン工場の主任くらいにはなっていて、多少はゆとりの出て来た頃だったろう。うす汚い四畳半からスタートした独身生活も、キッチンつきの六畳間に変っていた。
 一人暮らしのサラリーマンの楽しみは、日曜日の朝寝。十一時頃までせんべい布団にくるまっていて、それからのっそりと起きて近所のコーヒー店へ行く。新聞を読みながらモーニング・サービスの朝食を取る。
 行きつけの店は駅前通りの�クローバー�。春子はその店のウエイトレスだった。
 器量は、まあまあ。私鉄沿線としては上等のほう。けっして背は高くないのだが、プロポーションは整っている。洋裁学校に通っているだけあって、着るものも垢ぬけしているように見えた。
 敏雄は日曜日ばかりか普段の日も顔を出すようになった。水割りを飲んでゆっくりと時間を潰したりもした。
 当初は店のシートから観察していて、たまに言葉を交わす程度のものだったが、むこうもなにげなく敏雄の様子をうかがっていたのかもしれない。親しくなったときには結構おたがいに相手のことをよく知っていた。
 初めてのデートが決まったときは真実天にものぼるような心地だった。前後の事情は忘れたが、喜びの感情だけは長く残っていた。
 どこへ誘っていいかわからない。
 迷ったあげく浜松町から遊覧船に乗って浅草に出た。水は汚れていたのだろうが、夜の薄闇が隠してくれた。
「初めて。こんなコース」
 春子はうれしそうだった。
 国際劇場へ行ってショウを見物し、寿司屋のカウンターにすわって大盤ぶるまいをした。
「また会えるかなあ」
 おそるおそる尋ねると、
「うん。いつ?」
 と、色よい返事が戻って来た。
 週に一回くらいは店の外で会った。
 抱きあうようになるのも早かった。浅草へ行った日から数えて二ヵ月くらい……。冗談のように誘ったら、春子は意を決したようにこっくりと頷《うなず》いた。
 春子も一人暮らしだった。いったん抱きあってしまえば、毎日でも体を重ねたくなる。敏雄のほうだけではなく、春子のほうにもそんな気配がある。
 ——この人、セックスが、きらいじゃないんだなあ——
 女はむしろおつきあいで応じてくれるものと、そんな意識を捨てきれずにいた敏雄には新鮮でもあり、ちょっと不安でもあった。
 ——俺が初めてじゃない——
 それはなんとなくわかった。残念だけど、仕方がない。春子以上の恋人を手に入れるのはなかなかむつかしい。
 あの頃、敏雄はオメガの腕時計を持っていた。質流れの品を買ったものだった。同じ金額を支払うのなら、名もない新品より、オメガの古物のほうがいい。それが実感だった。奇妙なたとえだが、春子に対しても、同じような判断があったような気がしてならない。
 ——少しちがうか——
 というより、すっかり春子に惚《ほ》れこんでいたから、過去のことなど今さら気にかけても意味がない。このほうが真実に近いだろう。
 過去に男がいたことは我慢できるが、さしあたっての心配は、
 ——今でもだれか男がいるのではないか——
 ということ。そんな懸念がいつも頭を離れない。春子は明るい性格で、シャキシャキしていて、人あたりもよかったが、深いところでもう一つわからない、すりガラスのような部分があった。
 長い時間が経過してしまうと、過去の出来事は、一まとめの記憶になってしまう。報告書みたいに序論があり、中身があり、結論がある。
 だが、実際にそれを体験していたときは、毎日毎日様相が変る。今日はあっちの結論に行くかと思い、また次の日にはべつな方向へと事態が向かっているように見える。それぞれの道筋では結論のはっきりした報告書とはおおいにちがっている。毎日恋の行方を考えた。
 ——俺には少しもったいないんじゃなかろうか——
 そんな思いが拭いきれない。
 背後の男について、それらしいものが見えたわけではない。漠然とした不安……。コーヒー店では、ほとんどの客が春子に興味を示していた。
「春ちゃん、デートしようよ」
 誘いかけられているのを見たのも一度や二度ではない。
 ——みんな俺よりいい男——
 いや、けっして�みんな�とは言わないが、一人や二人や三人……敏雄よりハンサムな奴がいた。エリートらしい男もいた。
 抱きあうのが早かったのも春子が男に慣れていたからだろう。
 ——何人の男を知っているのか——
 日ごとにさまざまな不安が敏雄の心にのぼって来る。春子を知って人生は急に速度を増した。そんな実感があった。
 抱きあうのも早かったが、懐妊もまた早かった。
「赤ちゃんができたらしいの」
 今でもよく覚えている。行きつけのラーメン屋から大通りに出る細い路地だった。通路が細いので声がよく聞こえた。
「えっ。本当に」
「本当みたい」
「どうしよう?」
「どうしようって……」
 その夜は、真夜中近くまで話が続いた。春子の提案ははっきりとしている。結婚をして、子どもを生むこと……。
「べつに、なんの支障もないでしょ」
 言われてみれば、その通りだった。
 敏雄は結婚のことなど、ほとんどなにも考えていない。けっして春子をもてあそぼうとしていたわけではない。身にあまる恋人と思い、惚れこんでもいたくせに二十代の男の気軽さから結婚を本気で考えたことはついぞなかった。
 しかし説得されてみれば、もう結婚をしておかしくない年齢だった。
「できるかなあ」
「できるわよ、なんとか」
 しかも一気に父親になるらしい。心の準備がまるでできていない。
「自分一人でももてあましてんだぜ」
「子どもができれば親らしくなるものよ」
 一瞬のうちに妻を持ち、子を持つ覚悟までしなければいけない。
 ——本当に俺の子だろうか——
 疑ってはいけない疑念がちょっと胸を通り抜ける。男はだれしもこんなことを少し思う。
 不安の出どころははっきりしている。抱きあうまでが早かった。あまりにも早く子どもができてしまった。なんだか予定のレールを走っているような気がする。
 ——まさか仕掛けられているのではあるまいな——
 しかし春子の様子は輝いている。聞きただすようなことではない。
 大安の日を選んで婚姻届けを出し、やがて長男の憲一が生まれた。月足らずの出産であったが、目方は充分にあった。
 わずかな可能性を想像してみた。
 春子に親しい男がいて、なにかの事情があって別れなければいけなくなった。胎内にはすでにその男の子どもが宿っている。どうしても生みたい。だれか適当な父親はいないものだろうか。
 そこで敏雄が選ばれた。不足はあるけれど、この際|贅沢《ぜいたく》は言っていられない。人柄のよさそうなのが取りえだ……。
 当然すぐに抱きあうことになるだろう。当然すぐに妊娠を報告しなければなるまい。子どもはどうしても早産の形になってしまう。しかし充分に育っている。週刊誌のページに転がっているような物語……。
 ほとんど可能性はないように見えた。だが百分の一くらいはありうる道のようにも思えた。
 ——取りこし苦労だったな——
 今はなにも疑っていない。
 その後の二十数年間がそれを保証している。
 とはいえ、それは報告書の最後のページに記してあることだ。過去の道筋では、時折足もとにぽっかりと穴を掘られるような疑惑を覚えた。その感覚だけがまだしつこく頭の片すみに残っている。
 馬鹿らしい。
 春子はそんな女ではない。とても明るくて、働き者。春子と一緒になってよかった。敏雄より先に何人か知った男がいただろうけれど、それがその後の生活に影響をもたらすことはけっしてなかった。
 
「二月生まれってのは危ないんだ」
 憲一も新しいコップ酒に手を伸ばした。
 憲一は去年結婚をして、来年の春には一児の父になる。憲一自身の誕生が二月。そして子どもの予定日も二月に属している。
「なんで?」
 京子が首を傾《かし》げる。こちらはこの春に結婚したばかり。今年は慶事と凶事が重なった。
「今は計画出産の時代だろう。ちゃんと生むつもりなら四月とか、五月とか春がいいんだ」
「ええ」
「二月ってのは寒い盛りで育てにくいし、第一、早生まれの子って幼稚園や小学校へ行ってもハンディキャップがあるだろ」
「よくそう言うわね」
 敏雄は黙ってさき烏賊を噛む。話の行方は見えないでもない。
「だからサ、二月に生まれるのは計画外、つまりうっかり生まれた子なんだよなあ」
「お兄ちゃんとこもそうなの」
 敏雄が手を振った。咳こみながら、
「ばかなことを言うんじゃない。人の一生にかかわることだ」
 あわててたしなめた。憲一には、ちょっとおっちょこちょいのところがある。親兄妹のあいだでも話していいこととわるいこととがあるだろう。
 ——しかし……憲一は気づいているな——
 敏雄としては、それを考えずにはいられない。
 憲一はこれから生まれる子の問題として言ったが、それは自分自身のことを考えたからだろう。一家の戸籍を少し丁寧に眺めてみればわかることだ。敏雄と春子の結婚は、憲一の誕生日より七ヵ月前でしかない。
 憲一の誕生は、文字通り予期せぬ出来事だったのだから、どこかに不自然なところがあって当然だ。子育ての長い年月のあいだ敏雄たちは極力そんな話は避けるようにして来たけれど、子どもが大人になってしまえば見えて来る。あるいは春子からなにか少しくらい聞いていたのかもしれないし……。
「じゃあお父さんは、お母さんのどこがよくて結婚したの? お母さんには聞きそこねたからお父さんには聞いとく」
 京子はそり身になって父を眺める。
「忘れちまったなあ」
「嘘ばっかり。お母さんて、わりときれいだったでしょ。いい写真が一枚あったじゃない」
「あれは特別いいんだ。器量は特にいいってほどじゃない。明るかったな。それに……賢い人だった」
 これは本当だ。頭のよさは憲一や京子にもよく伝わっている。この長所は敏雄自身が与えたものではないような気がしてならない。
「そうね。話なんかさせると、ちゃんと筋が通っていたもん」
「体も丈夫だったんだ。お父さんより先に死ぬとは思わなかったな」
「でも、年上だから……」
「仕方ないか」
「一つ年上の奥さんて、いいんでしょ。昔から言うじゃない」
「人によりけりだろう。夫婦なんて結婚してみなきゃわからん。お前たちだってそうだろ」
「そりゃ言える。むつかしいよ。そう言えば、お母さん言ってたな。男だって女だって、むつかしい性格の人は駄目だって。大ざっぱな人。あんまりものにこだわらずに妥協してくれる人、それが結婚にはいいんだって」
「ふーん」
「私も言われたことあるわ。若いうちは恰好よくって、気のきいた男が好きになるけど、少し気がきかないほうがいいんだって……。お父さん、そうだもんね」
「馬鹿な」
 苦笑がこみあげて来る。
 京子がまた唇を引きしめるような仕ぐさを見せた。本当に春子によく似てきた。ああ、そうか。京子は今、ちょうど春子と出あった頃の年ごろになっている。一番思い出に残っている表情なのかもしれない。
 ——この子は大丈夫かな——
�大丈夫�というのは�本当に俺の子かな�という疑問である。今まで疑ったこともなかった。出生の頃の事情にはなんの問題もなかったが、京子は春子にこそ似ているが、ほとんどどこにも敏雄の特徴を見ることができない。
 ——今ごろそんなことを考えてみても仕方がない——
 死者に対しても慎みを欠いている。酔いのせいかもしれない。敏雄は頭を振った。
 
 パンの製造工場を罷《や》め、自分で今の印刷会社を始めたばかりの頃だった。憲一は満一歳になっていただろうか。精神的にも経済的にも一番苦しいときだった。
「困ったわ。生理がないの……」
 春子が暗い表情で訴えた。
「そんなあ」
 春子にも会社の仕事を手伝ってほしかった。そうでもなければ新しい事業の行末が危なかった。
 ——もうしばらくは子どもは作らない——
 夫婦ともどもそのつもりだったし、充分な注意を払っていた。
「まちがいかもしれないけど」
「うん。きっとまちがいだ」
 なんの根拠もない期待をしたが、さらに十日もたってみればまちがいなどではないことが明らかになる。
「生みましょう」
「仕方ないな」
 京子は四月生まれ。憲一流の解釈によれば、計画出産みたいに見えるけれど、これは偶然そうなっただけのことである。
 ——人の一生はわからないな——
 つくづくそう思う。生まれて来ることさえ、この程度のものなのだから……あとは推《お》して知るべしである。玉突きみたいに、ささいなことがいくつか順ぐりにぶつかって、思いがけない玉が動く。
 しかし、二人ともよい子に育った。
 新聞などを見ていると、世間にはずいぶんひどい子どもがいる。望まれて生まれ、豊かな環境に育ったからと言って、かならずしもよい人生が送れるわけでもないらしい。
「あのこと……、お兄ちゃん言ってよ」
 列車が宇都宮を出た。夜の底がますます白くなっている。
「京子が言えよ。もともとお前が言い出したことだから」
 兄と妹はなにか相談をしたらしい。
「なんだ?」
「あのね、お父さん、財産なんか私たちに残さなくていいわよ」
「そんなもの、ありゃしない」
「ないとは思うけど、家とか会社とか……。みんなお父さんが好きなようにしてね」
「うん。しかし、なんで?」
 思いがけないことを言われた。春子の死後、二人はどんな相談をしたのだろうか。
「だって、お父さん、これから先まだまだ人生があるわけでしょ」
「そう長かあないな」
「いい人でも見つけたら、また一緒になって」
「お母さんが怒るかもしれんぞ」
「大丈夫よ。お母さんサッパリしてるほうだから。死んだあとまでやきもちやかないわ」
「それは言えるかもしれんな」
 敏雄も春子も、ものごとに固執するほうではなかった。その点ではよく似た夫婦だったろう。
「まあ、そのうちにな」
 なま返事を返したが、今のところそんな気はさらさらない。
「私たちは遠くから見てる。拍手しながら……。邪魔はしないから。好きなようにやって」
「わかった、わかった」
 車内販売が車を押しておみやげ物を売りに来る。
「お茶ない?」
「あります」
「じゃあ、三つ。京子も熱いの、飲むだろ」
「そうね」
 車両の揺れを計りながら、お湯の中に茶の小袋をひたし、お茶を作った。
「おもしろいものね。お父さんとお母さんが一緒にならなきゃ、私たちこの世にいないわけですものね」
「当たり前じゃないか」
 憲一がぶっきらぼうな調子で言う。
 ——そうかな——
 春子と一緒にならなかったのに、憲一だけがこの世にいたりして……。
 そんな考えが相変らず思い浮かぶのは、ただの頭のゲームなのだろうか。それとも本気で疑っている部分が少しはあるのだろうか。
 敏雄にはその答えがよく見出せない。
 ——結局のところ、春子が自分にとってとてもよい妻だったから——
 この心境をなんと説明したらよいのだろう。
 あの頃はなにをやってもうまくいかなかった。|※《うだつ》のあがらないサラリーマンだった。
 春子は�クローバー�の人気者だった。もう一人、やけに厚化粧のウエイトレスがいたけれど、常連客の点数はずっと春子のほうが高かった。
 ——こんな女を恋人にできたらいいな——
 とてつもない美人というわけではない。プロポーションはよかったけれど、それだってモデルみたいにみごとというわけではない。足首なんかむしろ太目だった。
 つまるところ敏雄くらいの男が望める一番高いところ……そんなふうに見える人だった。
 人は無制限に高いところを望んだりはしないものだ。現実の中で多少なりとも手が届きそうな、その範囲で一番いいところ、それがその人の理想というものだ。
 春子は敏雄にとって、そんな女だった。少なくともあの頃はそう思っていた。
 ——万に一つでもうまくいけばいいなあ——
 そんな気分で誘った。文字通り、瓢箪《ひようたん》から駒……。
「いいわよ」
 あっさりとよい返事が返って来た。
 それからはなにもかもトントン拍子にうまく運んだ。運にも恵まれた。
 いつもうれしさの中に、
 ——こんなにうまくいくはずがない——
 何パーセントかの疑いが入り混っていた。
 憲一の出生について、かすかな疑念を抱くのは、言ってみれば、
 ——バランスを欠いている——
 そんな判断のせいらしい。
 敏雄は思っている。世間を生きぬいて来て、バランスを欠いていることは、けっしてよい結果を招かない、と……。そのことをよく知っている。バランスを欠いている取引きが成立するのは、たいていは陰に隠されている事情があるからだ。全貌が見えて来ると、ちゃんとバランスがあっている。
 ——なにも俺でなくてもよかったのに——
 そんな思いが心のすみにわだかまっていた。
「お母さんは、お父さん以外に好きな人、いなかったのかしら」
 京子は靴をぬいで横すわりに腰かけている。
「さあ、どうかな。一人や二人、いたかもしれんな」
「初恋の人がいたらしいよ。絵をかく人で」
 憲一がおかしなことを知っている。
「へえー、聞いたのか」
 敏雄も黒い闇の一部を切り取るように、そんな話を聞いたことがある。ほかの人から聞くはずもないから、やはり春子自身の口から聞いたのだろう。十年以上も夫婦を続けて、もうそんな話題がなんの影響も与えないようになっていた頃だったろう。
「気むずかしい人だったわ。こんな人と、とってもやっていけないって、そう思ったわね」
「なにをする人だったんだ?」
「絵をかく人」
�クローバー�の客には思い当たる人はいなかった。もっと古い頃の話のように聞こえた。
 ——どうしてそんな気むずかしい男と一緒になったのか——
 ほかによほどよい長所があったからだろう。
 春子は育った環境こそ恵まれなかったが、センスのわるい女ではなかった。頭もいい。敏雄などよりもっと知的な才能にめぐりあえば、そんな男のほうを好きになって不思議はない。その可能性は充分にある。敏雄は自分の凡庸さをよく知っている。
 子どもたちに手がかからなくなってからは春子はなにかに憑《つ》かれたみたいにしきりに勉強を始めた。テレビの教養番組を見たりカルチャー教室に通ったりして……。
 ——主婦のお遊び——
 そんな思いで敏雄は見ていたが、若い頃に忘れて来たものを一生懸命に取り戻そうとしているような、そんな真剣な様子が見えないでもなかった。本来はもっとべつな人生を送る女だったのかもしれない。
 ——どんな男だったのかな——
 多分その男は、若い女を喜ばすような、キラキラした才能には恵まれていたけれど、人間としては欠けるところがあったのだろう。全貌は見えないが、一部だけよく見えるところがある。前にもそんな男をぼんやりと描いた覚えがある。
 おそらく敏雄とは正反対の人格……。
「お母さんほどいい人はいないよ」
 そう呟いたのは、さっきの再婚についての答えのつもりだった。
 だが、言葉が口から通り抜けてみると、
 ——俺にはもったいない人だった——
 と、あらためて子どもたちに告げたように思った。憲一も京子も、そんなふうに聞いたのではあるまいか。
「家が多くなったなあ」
 憲一が窓の外を見て呟く。路面は白く雪におおわれているが、夜そのものは黄ばんだ灯で満たされている。さっき停まったのは大宮駅だったろう。
「人の縁なんておもしろいものだよ」
 大きな決断だって案外ささいなことから始まる。春子に声をかけてみようと思ったのも、ある日、コーヒーを運んできた春子の頬に浮かんだ、かすかな微笑のせいだったかもしれない。
 ——どんな微笑だったか——
 その微笑も消えて、もう戻って来ない。
 列車が上野駅に滑りこんだ。
 地の底から這《は》いあがるように長いエスカレーターを昇った。新幹線の駅はよそよそしい印象だが、エスカレーターを昇りきってしまえば、なつかしい上野駅がある。東京の中にある田舎への窓口……。
「送って行こうか」
 憲一が言う。
「いいよ」
「本当に一人ぽっちね」
「べつに気にもならん」
 この一、二ヵ月は憲一や京子や親戚の者たちが敏雄のマンションに姿を見せていた。骨つぼも仏壇にあった。今夜からは本当に敏雄だけの生活が始まる。
「お前たちも用があるだろ。早く帰ってやれ」
 むしろそっけない口調で言って背を向けた。
「じゃあ、また行くわ」
「なんかあったら言ってよこして」
 日暮里《につぽり》で電車を降り、白い雪の道を歩いた。今夜はずっと降り続けるだろう。
 列車の中では酒ばかり飲んでいて、ろくにものを食べなかった。夜が更《ふ》けて少し腹がすくかもしれない。
「少し食べて帰るか」
 寒そうに灯をつけている食堂を見つけて敏雄は立ち寄った。
「なんにしましょう」
「カレーライス」
 このところとんと食べたことがない。昔は年中食べていた。
 お客はほかにいない。
 テレビが大雪警報を映し出している。
「お待ちどおさま」
 絵具のように黄色いカレーライス。ついと手が伸びて卓上のソース入れを取った。
「ふっふっ」
 突然長いあいだ忘れていたことを思いだした。笑いが止まらない。まったくの話、決断の理由はささいなことかもしれない。
 敏雄は一度だけ春子に尋ねたことがあった。
「どうして俺と結婚する気になったんだ」
 あんまり馬鹿らしい答えなので忘れていた。春子はゆったりと笑って呟いた。
「あなた、カレーライスにソースをかけて食べるでしょ。それを見て……ああ、この人は面倒な人じゃないって思ったわ」
 大ざっぱで、欺しやすい男……。
 もうそんなことはどうでもいい。食事を終えて外に出ると、白い雪がみごとにいっさいを隠していた。
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