仁科洋子は朝の九時にマンションを出た。
列車は十時十八分発の東北新幹線あおば号である。発車の前にやらなければいけないことが一つ、二つあった。
一昨夜、電話口で本堂が言っていた。
「余計なことは考えないで。絶対に成功する。僕たちのために……頑張って」
「怖いわ」
「怖くなんかない。僕を信じて」
朝そのものは、いつもの朝と変らない。今日も一日暖かい小春日和だろう。
——本当に夢の中にいるみたい——
目ざめたまま夢を見ている……。自分があやつり人形になったような気さえする。
——やる以上は迷ってはいけない——
初めて動物の解剖をしたとき、初めてペットの手術をしたとき……少し似ている。
上野駅に着きウーロン茶を買い、冷めないように暖房剤の袋に挟んでバッグに入れた。けっして手袋を脱いではいけない。
キップが指示する席はグリーン車の6C。通路側の席である。
発車前に車両のトイレットに入り、ウーロン茶のカンに画鋲で小さな穴をあけた。
注射器で中のウーロン茶を吸いこみ、少し捨て、残りの液に薬を溶いて、もとに戻した。有機リンの化合物……。即効性がある。無味無臭。しかし、薬品会社の研究室ではそれほど特別な薬剤ではない。
ビニール袋のおしぼりは、かすかに温かい程度。仕方がない。
グリーン車はすいていた。
洋子は少し離れた席にすわって、自分の座席番号のあたりを見まもる。
五十がらみの男が乗り込んで来て、キップと座席番号とを照らしあわせている。6D。つまり洋子の番号の隣である。
——まちがいないわ——
写真で見た男。赤ら顔。あまりよい人相ではない。はっきりとはわからないが、表情に人を威嚇するような気配がある。ペットが怒って示す表情に似ている。
——ろくなことをやっている人じゃない——
そのほうがいい。名前は右田……そう教えられた。
発車のベルが鳴りドアが閉まり、列車が動き始めた。
洋子は通路を通り抜け、ドアの外の洗面所のそばに立って中をうかがった。車掌が検札をしている。
荒川の鉄橋を渡るころ、
「電話室からのお呼び出しです。グリーン車にお乗りの右田輝男様。お電話がかかって来ております。九号車の電話室までおいでください」
右田が席を立ち、九号車のほうへ立って行くのが見えた。それと入れ替りに洋子はドアの中へ入り、マスクをかけ、まだ通路にいる車掌のそばへ寄って、
「6Cですけど」
と、キップをさし示した。
「はい。あちらですよ」
車掌は指をさし、ほとんど洋子の顔も見ずにパンチを入れる。洋子は6Cの席の近くへ戻った。
——ここまではうまくいった——
動悸が次第に速くなる。
——今、窓の外に見えた駅はどこかしら——
腕時計を見た。十時三十三分。大宮駅への到着は十時三十八分のはずである。
——あなた、本気なの——
と、自分に問いかけてみた。やめるなら今……。しかし、本堂はどんな顔をするだろう。
そのとき右田が戻ってくる姿が見えた。洋子は6Cにすわった。
列車がスピードをゆるめ、大宮駅も近い。十時三十六分……。
「ちょっと失礼」
男は右手をあげ、洋子の前を抜け、6Dにどんと腰をおろす。
「あの……ウーロン茶とおしぼり」
洋子はそう言って、用意の品を男に渡した。
「こりゃ、どうも」
男は自分が電話室に行っているあいだに、隣の席の女がサービスの品を受け取っておいてくれたのだろうと判断した。それが狙いだった。
「いいえ」
洋子は立ちあがった。洗面所にでも行くような身ぶりで……。列車は大宮駅に滑りこむ。
男がおしぼりで顔を拭《ふ》く。
列車が止まり、ドアが開いた。
洋子が降りる。
窓越しにグリーン車の中を見たのは、なぜだったろう。6Dの席で男がウーロン茶のカンを開けている……。
洋子は窓越しに男の表情を見た。
いや、見たというのは正確ではない。本当に見たのかどうか、それもよくわからない。
——見てはいけない——
引きとめる意志があったのは本当だ。見て、おもしろいはずがない。見ないほうがいい。しげしげと見たりしたら疑いを持たれるおそれもある。
でも、見ずにはいられない……。
こんなに早く男がウーロン茶を飲むとは思っていなかった。洋子が大宮駅で降りたあと、少したってから……たとえば小山駅に近づくころ、そう考えていた。
——危かった——
男がおしぼりを使わず、いきなりウーロン茶を飲む可能性も皆無ではなかったろう。まだ洋子が列車の中にいるうちに……。
その場合でも、騒ぎが起きたときには、もう洋子は降りているだろうけれど……。いずれにせよ、きわどいタイミングだった。
男はウーロン茶を飲み干し、次の瞬間、顔がゆがんだ……。
走って行く窓の中に、洋子はそれを見た。ゆがんでいたかどうかもわからない。そこまでは見なかったろう。まさにゆがもうとする、その直前の表情が、走り去って行ったのではなかったか。
軽いめまいを覚えた。
ぐずぐずはしていられない。
途中下車をして駅の外へ出た。下水口に注射器を捨てた。タクシーを拾い、
「浦和まで」
車の中で、ベージュ色のコートを脱ぎ、下は紺色のニット・スーツである。
浦和の駅近くのデパートへ入り、トイレットのごみ箱にコートを捨てた。
もう一つ、べつのデパートへ入って手袋を捨てた。
——喉がカラカラ——
コーヒー店を見つけ、窓際の席にすわってアイスコーヒーを一気に流しこんだ。
——手落ちはなかったかしら——
ひとつひとつ反芻《はんすう》してみた。
列車が大宮駅を出た直後に大騒動が起こったにちがいない。男はなにか言うことができただろうか。もしそうなら、なにを言っただろう。
コーヒー店のガラス窓に顔を映しながら洋子は束ねておいた髪を解いた。
——タクシーの中で髪を解くはずだったわ——
昨夜、企てた計画では、その手はずだった。用心のため、人相を早く変えたほうがいい。
——ほかにも忘れていることがないだろうか——
両手で頬をおおった。
「コーヒーをもう一ぱいちょうだい。今度は熱いの」
近づいて来たウエイトレスに頼んで、朝からの行動を頭の中でくり返した。
いつもと同じように起き、髪を束ね、紺のスーツに長いベージュのコート、薄い手袋をはめて九時にマンションを出た……。十時少し前に上野に着いた。十時十八分発あおば号の座席を確認し、キオスクでウーロン茶を買ってトイレットへ入った。マスクをつけ、画鋲でカンに穴を開け、注射器で薬を注入した。致死量は充分にあったはずだ。
右田という男の人相を確認し、写真を焼き捨てた。それから洗面所の前で目立たないようにしていた。
発車してすぐに車掌の検札があったのは幸運だった。このタイミングが、一番心配なことだった。右田が検札を受け、電話が彼を呼び出す。本堂はどこからその電話をかけたのか……。
洋子は通路で検札を受け、右田が戻るのを待った。車掌はほとんど洋子の顔を見ていなかったろう。大宮駅が近づき、列車がスピードを落とすころに右田が帰って来た。バッグの中からウーロン茶とおしぼりを出して渡した。これもよいタイミングだった。洋子はホームへ降りた。
窓の中で男がウーロン茶を一気に飲み干した。それをかすかに見た。顔がゆがんだ。ゆがんだのは薬の効果があったから。確かめるより先に窓が走り去って行った。
大宮駅を出て駅前の下水口に注射器を捨て、タクシーで現場を離れた。浦和市内の二つのデパートでコートと手袋を捨てた。コートは着古したものだ。ごみ箱に捨ててあっても怪しまれることはあるまい。
——マスクがバッグの中にあるわ——
これはここで捨てよう。
ほとんどが本堂の示唆によるものだった。
——大丈夫みたい——
自分が自分でないような数時間だった。コーヒーの香りをかいでいると、ようやく人心地がついてくる。
——でも——
釈然としないものが胸にわだかまっている。なんのためだったのか……。
洋子はコーヒー店を出て浦和の駅まで歩いた。この町には……そう、七、八年前に来たことがある。
町の様子がすっかり変っている。人通りも多い。アーケード街もしゃれている。道を歩いている人は、今、なにを考えているのだろう。
——私は……とにかく憎まなくちゃあ——
強い憎しみがないと、心のバランスがとれない。
殺されたアミイのことを考えた。油壺の出来事を憎しみに加算してみた。
猫と人間では釣りあいがとりにくい。油壺の記憶は少し古すぎる。しかもいくら六〇七号室の男を憎んでみても、それと今日の行動とは結びつかない。
——どんな顔だったろう——
列車の中の男……。写真のイメージのほうがよく残っている。たしか赤ら顔だった。顔は笑っていても目は笑わない。そんな印象だったが、よく見たわけではないから確信は持てない。
ゆがみかけた顔は、
——いかん、やられた——
そんな表情を映していたように思う。
わるいことをたくさんやっている男。だから狙われる。本人も自覚している。激しい狼狽《ろうばい》のような表情だった。きっとわるい人。まったくの話、世間には殺されても仕方のないような人がいる。それは本当だろう。
浦和駅から有楽町駅まで。途中で前の座席があき、洋子は腰かけて少し眠った。
銀座のデパートへ行って冬物を一、二点買い、ギャラリーの絵をかけ足で見た。
「十一月二十一日はどこへ行ってましたか」
「銀座のデパートへ行って、ゆっくりと絵を見て、それから買い物をして……」
後日、アリバイを問われたときに答えられるようにしておいたほうがいいだろう。まあ、そんなことはないと思うけれど……。
並木通りの中華料理店へ寄って五目そばを食べた。昼食にしては遅い。夕食にしては早い。
家に帰ったのは四時過ぎだったろう。
テレビで六時のニュースを聞いた。男のアナウンサーが円高の見通しを告げたあと、画面に女のアナウンサーが映った。
洋子の中にひたひたと緊張が押し寄せて来る。
テレビの画面の中で女のアナウンサーが、時おり顔をあげながらニュースを読みあげる。
「今日午前十時四十分ごろ、東北新幹線下りあおば二〇九号が大宮駅を発車したとたん、グリーン車に乗っていた男の乗客が突然苦しみだし、間もなく死亡しました。この男性は東京都世田谷区の誠《まこと》総業社長右田輝男さん五十四歳で、発車直前に飲んだカン入りウーロン茶に毒が入れてあった模様。警察ではこのウーロン茶を右田さんに渡した者を有力な容疑者として捜しております。カン入りウーロン茶のグリーン車サービスは、やまびこ号に限られており、問題のあおば号ではやっておりません。犯人はグリーン車の車内サービスを装い、右田さんにウーロン茶を渡したものらしく、検札にあたった車掌は�右田さんの隣の席に仙台行きのキップを持った、若い女性がいた�と言っております。女は二十代か三十代、マスクをかけており、大宮駅で降りたらしいこと以外、今のところ手がかりはなにも発見されておりません。右田さんが経営する誠総業は金融、不動産、先物取引など手広く営んでおり、辣腕《らつわん》家の右田さんについては�人に恨まれることもあったかもしれない�と、右田さんを知る人は言っております。なお右田さんは那須塩原まで人形のコレクションを買いに行くところでした」話の途中で右田輝男の写真が画面に映った。
——ああ、そうだったの——
洋子は、グリーン車ならみんなウーロン茶とおしぼりのサービスがあるものと思っていたが、そうではないらしい。サービスが二重になってしまっては疑惑を抱かれるかもしれない。そのあたりに本堂の計画があったのだろう。
——人形のコレクションて、なにかしら——
右田の人相とは結びつかない。本堂はなにも言ってはいなかった。
夕刊にも事件は載っていた。�東北新幹線で社長殺される�と、太い見出しの次に�消えたマスクの美人?�と、もう一行細い見出しがそえてある。
——どうして美人とわかるの——
きっと読者の目を引くためだろう。
テレビのニュースより少しくわしい。洋子はくり返して読んだ。右田が車内電話で呼び出されたことが記してある。それから……右田の趣味は、からくり人形のコレクション。那須塩原で掘出し物があり、それを見に行くところだったとか。だが那須塩原でだれに会い、そこからどこへ行くつもりだったか、旅のスケジュールは不明で、もしかしたら掘出し物の話自体が�右田を東北新幹線に乗せるための偽装だったかもしれない�と書いてあった。
洋子はさらに七時のニュースを待ってチャンネルをまわした。
ほとんど似たような内容。使われた薬剤が有機リンの化合物であることだけがあらたにつけ加えられている。
アナウンサーの声で語られると、事件が自分とかかわりのないことのように聞こえて来る。
学生時代に社会学の授業でマクルーハンの理論を習った。こまかいことは忘れてしまったけれど、テレビはどんなことにでも人を参加させるが、どんなことでも等質化して伝えてしまう……と試験の答案に書いて優をもらった。南アフリカで起きた暴動も東北新幹線の事件も、うっかりしていると同じレベルのものに感じられてしまう。
本堂が寡黙《かもく》だったのは、ある意味では正しかった。よく知らないからこそ遠いことのように感じられてしまう。列車の窓越しにゆがんだ顔を見たのは、失敗だった。見なければ、さらに現実感はとぼしかったろうに……。
——これじゃあ、いけないわ——
ハーフ・コートを羽おって吉祥寺の駅まで新聞を買いに出た。ほかの新聞を見ておこう。
だが、どの記事も大同小異。右田は那須塩原駅で旗屋という男と会い、ニュー・スター・ホテルのロビイで掛川という男に会う約束だったらしい。掛川が人形の持ち主……。だがおそらくそれも本堂の細工だろう。
——緻密《ちみつ》な人——
本堂のことである。少し恐ろしい。何を考えているのか、もうひとつわからない処がある。
「大丈夫かしら」
洋子は独りごちた。
つぶやいてから洋子は自分が今なにを考えているのか、自問してみた。
思わず知らず「大丈夫かしら」と不安を吐露してしまったのは、ひとつには事件の行末だろう。手ぬかりはないつもりだが、この世に完全などというものはない……。
だが、今「大丈夫かしら」と言った主な理由はそれではないらしい。本堂に深入りしてしまったこと……。
好きで、好きで、たまらない人だが、知りあってからの日時が短かすぎる。恋愛はいつだってわからない部分があるものだが、少しひどすぎる。
「あなたが好きだ」
「助けてほしい」
「すばらしい二人になろう」
本堂の声の響きが、魔術みたいに洋子を動かした。信じられないことをやってしまった……。
ル、ルン。
電話のベルが、ためらうように鳴った。ギクンと洋子の体が震える。人は息を吐ききったときに驚かされると、余計に驚くものだとか。洋子の呼吸もきっとそんな状態だったらしい。
——本堂さんからだわ——
なにも体を震わせてまで驚くことではない。ソファに腰をおろして受話器をとった。
「はい」
「あ、もし、もし。私」
二宮春美である。拍子ぬけ……。一番親しい友だちだが、このところしばらく会っていない。
「あら、久しぶり」
「このごろいそがしいみたいね。いつ電話してもいないじゃない」
「そうかしら。いるときはいるんだけど」
「先週軽井沢へ行って来たわ」
「ああ、そう。紅葉がきれいでしょうね」
旧軽井沢にコテージ……。本堂と会ったのは春美のコテージの近くだった。考えてみれば、ここ一ヵ月ばかりの出来事は、みんなあのときから始まっている……。
「そうね。少し遅かったわ。山のほうはもう茶色一色」
冬枯れの軽井沢もわるくはない。
「なにか……」
と、洋子は問いかけた。いつ本堂から大切な電話がかかって来るかわからない。
「ううん。べつに用ってほどじゃないんだけど……小学校って私立のほうがやっぱりいいのかしら」
春美の娘は来年小学校へあがる。たしかそんな話だった。
「わからないわ」
「あなた、私立だったでしょ」
「ずっと昔のことですもの」
「小学校なんて近所にお友だちがたくさんいたほうがいいじゃない。なんか一人ぽつんと電車で通ったりしてんの、見ててかわいそうでしょ。月謝だって馬鹿にならないし」
「そうねえ。私立にもいろいろあるから」
「そう。寝てても入れたような学校がみんなむつかしくなっちゃって。ただ、ここで入れておけば、あとがずーっと楽じゃない。公立の学校って、ひどい先生に当たったら、どうしようもないわ。一生の不覚よ」
「そりゃ、わるい先生ってことなら、私立だって公立だって同じじゃない」
「でも私立はやっぱり営業上わるい先生が少ないわ。首にすることもできるでしょうし。公立には信じられないくらい駄目な先生がいるのよ。体育ばっかりが得意で、字もろくに書けない。授業はへたくそ。子どもたちもわからないから騒ぐでしょ。そうすると怒るか、泣くか、それっきゃないの」
「まさか」
「本当よ。ここの小学校じゃ連絡簿を見ると、かならず字のまちがいが一つか二つある先生が二人もいるんですって。父兄が文句を言うと、子どもがにらまれるでしょ。なにせ人質をとられているから……」
「そうねえ」
春美はどんどん話し続ける。洋子は適当なあいづちを打ちながら聞いていた。
「……殺したくなるそうよ」
聞き捨てにならない言葉が耳に飛びこんで来る。
「先生を?」
「そうよ。同じ先生に三年間も持たれたりするのよ。その先生がはずれだったら、すごい悲劇じゃない。一生とり返しがきかないわよ。勉強ぎらいになるし、性格もゆがむし」
「じゃあ私立にしたらいいじゃない」
春美は洋子にこう言ってほしくて電話をかけて寄こしたのではあるまいか。
「そうしようかしら」
そのあともしばらくは春美の当世学校批判が続いていたが、洋子の反応がおぼつかないので、
「ごめんなさい。長っ話をしちゃって」
と、切りかける。
「今ちょっと用があって。ね、ちかぢか会いましょ。なんかおいしいもの食べましょうよ」
「いいわね、時間のあるとき連絡して」
「はい。じゃ、さよなら」
受話器を置いた。
——先生も大変ね——
いつ、どこで�殺したい�と思われているかわからない。当人はまさかそこまでは考えていないだろう。急にゆがんだ赤ら顔が洋子の脳裏に浮かんだ。しばらくはこのイメージに悩まされそうだ。
ル、ルン。
また電話のベルが鳴り、またキクンと体が震えた。
「もし、もし」
「本堂さん」
声高く叫んだとたん涙が吹き出した。予期しないことだったが、わるくない。一番ふさわしい反応のようにも思えた。
「ありがとう。みんな終った」
「そうよ。終ったの。終ったのよ」
「なにか、なかった?」
「なにかって、なーに」
「気がついたこととか、ちょっと失敗したこととか」
「べつにないわ。ないと思う」
「使ったものは、みんな処分したね。注射器とか」
「ええ」
「写真やメモも残っていないね」
「大丈夫よ」
「薬のほうから足がつくことは、ないんだろうね」
「それほど特別なものじゃないし……。五年も前に悪戯《いたずら》半分で取っておいたものだから……。心配ですか」
「いや、あなたなら心配ない。わかった。もうこの話はよそう。すっかり忘れよう。いいね、なにもなかった。考えてもいけない。二人だけのときでも話題にしちゃいけない」
「会いたいわ。今どこなの。ずっと電話を待っていたのよ」
「すまない。いろいろあって。東京じゃないんだ」
「どこ」
「名古屋の近く」
「じゃあ会えないの、今夜」
本堂の声を聞いたときから、今夜は会えるものだとばかり思っていた。
「無理だよ。それは」
「ひどいわ」
あんなことをさせておきながら、放っておくなんて……。
「ごめん、ごめん、しかし、しばらくは会っちゃいけない。わかるだろう」
「だって……なんだか頭が変になりそう」
まったくの話、洋子は自分で自分が信じられない。本堂の魔術にかかってしまった。魔術師がふたたび現れて魔術を解いてくれなければ、もとの自分に戻れそうもない。
「もう少し我慢してくれよ。僕だって会いたい。でも会っちゃいけないんだ」
「本当に会いたい? そう思っている?」
甘えるように声を作って尋ねた。
「もちろん本当に会いたいと思っているよ。でも、とにかくほとぼりのさめるのを待とう」
「仕方ないわね」
「時間のパネルを入れ替えるんだ。童話か芝居みたいにね。僕たちはまだめぐりあっていないんだ。これからめぐりあう。今のところはまだ知らない者同士なんだ」
「いつめぐりあうの、二人は?」
「今に。きっと」
「そんなに先はいやよ」
「近日中にまた連絡するよ。なんの支障もなければ、会えるさ。短い時間かもしれないけど」
「遠くから見るだけでもいいから、会いたい」
「山手線かなんかですれちがうわけ? おたがいに窓ぎわに立っていて……」
「本当に。そんなことがあればいいけど」
「まあ、待ってて。じゃあ、切るよ」
「また電話をください」
「本当は電話もあまりかけないほうがいいんだろうけど」
「そんなこと言わないでよ」
「まあ、なんとか……。じゃあ、さよなら」
「さよなら」
乾いた音をあげて電話が切れた。洋子は、そのままぼんやりと受話器を見つめていた。
「仕方ないわねえー」
つぶやきながら受話器を戻し、握り拳《こぶし》を作って頭をトンと一つ叩いた。もし、これでなにもかも忘れられればいいのだが……。
カタン。
頭の上から音が落ちて来た。ギクン、とまた体が震えた。心がなにかを警戒して、ずいぶんおびえているらしい。
静かな足音……。
だれかが六〇七号室にいる。でも、なんの不思議もない。死んだ男にはお姉さんがいるような話だった。荷物を取りに来たのかもしれない。管理人に鍵をあけてもらって……。
——あるいは警察かしら——
洋子はサンダルをつっかけ、踊り場のところまで階段を昇って様子をうかがってみた。
「災難でしたなあ」
管理人の声である。
「一、二年はマレーシアのほうへ行って住む予定でしたのにねえ」
女の声が聞こえた。
話はとぎれとぎれで、はっきりとは聞こえない。やはり岡山のお姉さんが荷物を取りに来たのだろう。相手をしているのは、眼鏡をかけたほうの管理人らしい。
洋子はもう一、二段、階段をあがって聞き耳を立てた。
「昔から写真が好きで、危いところへ行っちゃあ写真を撮ってたんです。無愛想で、ちょっと変った子でしたから」
ドアが細くあいている。
「いえ、いえ」
「でもカメラマンなんて、食べるのがなかなか大変なのね。たまたまこの部屋をアメリカへ行くお友だちに貸していただいて……」
「そうなんですってねえー。同じ鈴木さんだから、ご兄弟かと思ってましたけど……」
「そんなことないんです」
そこでドアがガンと鳴って閉じ、もう話し声は聞こえない。洋子は首をすくめながら自分の部屋へ戻った。
——まちがってたみたい——
このマンションには賃貸の部屋はない。住んでいる人が持ち主、と洋子は深く考えることもなく思っていた。
だが、六〇七号室の男は、友人から借りていたらしい。その友人はアメリカへ行っていて……やがて帰って来るのだろう。
——いやな男が、ずっと頭の上に住んでいるわけではなかった——
しかも、そのいやな男は近くマレーシアへ行き、しばらくは帰らない……。つまり洋子の災難はそう長く続くものではなかった。なにもしなくても快適な生活が戻って来ただろう。
——もう、いや——
考えたくない。ささいなことから始まって、あれよあれよと思うまに大きな事件にまでふくらんでしまった。事実はどうあれ、そんな気分はぬぐえない。
テレビのスウィッチを入れたが、あまりおもしろそうな番組はない。どこかのチャンネルが殺人鬼の映画を映している。あわてて画面を変えた。
——音楽のほうがいいわ——
気がつくと、このところほとんど音楽を聞いていない。
少し前までは毎晩のように聞いていたのに……。プレイヤーには、マンハッタン・トランスファーのレコードが置いたままになっている。イヤフォンを耳に当て、ヴォリュームをいっぱいにあげた。たちまち美しいハーモニイが頭蓋骨《ずがいこつ》の内側を満たす。もうほかのことを考えようとしても考えることができない。
四、五日たつと、東北新幹線で起きた殺人事件が、週刊誌に載り始めた。
洋子はつぎつぎに買い集めて注意深く読んだ。本堂は「忘れよう」と言ってたけれど、そう簡単には忘れられない。こっそりと雑誌を読むぶんには怪しまれることもあるまい。洋子が知らないことも書いてある。当たっている推理もあれば、見当ちがいもある。
殺された右田輝男は五十四歳。五十五歳と書いてある雑誌もあったが、これはどちらでもいいことだ。山梨の商業学校を卒業したのち東京に出て、いろいろな職業につき、八年前に誠総業を設立した。総業という名のとおりなんでもやる会社。でもやり口は名前とちがってあまり誠実ではなかったらしい。�死者に鞭《むち》打つつもりはないけれど、詐欺、ゆすり、紙一重のあたりで商売をやっていたという噂《うわさ》もしきり�と書いてある。
——よかった。やっぱりわるい人なのね——
家族は、離婚した妻と高校生になる娘が一人。これは、名古屋に住んでいる。当人は世田谷区奥沢の高級マンンョンで一人暮らし。通いの家政婦がいるが、この人は右田輝男の私生活についてほとんどなにも知らない。
「無線でタクシーを呼んで……上野までいらっしゃるようなお話でした」
と要領を得ない。
誠総業は株式会社といっても、せいぜい従業員十人足らずのオフィスらしい。社長用の車もない。社長の行動についても社員たちは断片的にしか知らされていない。
「社長の趣味はからくり人形の蒐集《しゆうしゆう》なんです。世界的なものもいくつか持っているような話でしたけど……。多分、ご自宅のほうに電話があったんじゃないですか。急に�金曜日に那須塩原へ行って来る。夜には帰る�そんなお話でね。�人形ですか�と聞いたら�そうだ�という返事でした」
と、これは社員の中でも、比較的社長の行動をよく知っている人の証言なのだろう。
右田が持っていたキップは乗車の三日前、午前十時過ぎに東京駅で買ったもの。東北新幹線十時十八分発のあおば七号車6D。同時に七号車の6Cも買われた形跡があり、これが犯人の使用したものではないか……。
「社長が自分で買ったものじゃありませんね」
警察は犯人グループが二枚のキップを買い求め、なんらかの手段で一枚を社長に渡したものと見ている。
右田輝男が、だれに、どのように誘われて東北新幹線のあおば号に乗ったか、はっきりしたことは警察もつかんでいないらしい。少なくとも週刊誌の記事は、推測の域を出ていない。
それぞれの記事は微妙にくいちがっているが、大筋はよく似ている。そのあたりが警察の発表なのだろう。
殺される数日前に右田のマンションに電話がかかり、
「からくり人形の逸品があるから、ぜひ那須塩原までおこしいただきたい」
と言葉巧みに誘われ、右田はそれに応じた。今までにもそういうことはしばしばあったらしい。犯人は蒐集家がぜひともほしがるような品物を告げたにちがいない。このときにキップを犯人側で用意する約束があったのだろう。
そのキップは郵便で右田の家に届いた。あるいは直接マンションの郵便受けに投げこまれたのかもしれない。おそらく封筒にはキップのほかに手紙が入れてあったにちがいない。
だが、その手紙は見当たらない。
手がかりとなるのは、死んだ右田の内ポケットにあった手帳で、十一月二十一日のところに�あおば10・18 旗屋光二氏、ホームで。掛川さん�とあり、さらに矢印を引いて電話番号が記してあった。その番号は塩原のニュー・スター・ホテルである。
右田を誘い出した男の名が旗屋光二。もとより犯人が本当の名前を名のるはずもなく、この名に該当する関係者は見つかっていない。掛川さんというのは、からくり人形の売り手ではあるまいか。
つまりキップと一緒に送られて来た手紙には、指定のグリーン車に乗り、那須塩原駅で降りれば、旗屋光二がホームに迎えに出ており、それから掛川という売り手のところへ案内する、その行先はニュー・スター・ホテル……あるいは旗屋への連絡はニュー・スター・ホテルまで、そんな内容が記されていたのだろう。
右田は手紙を捨て要点だけを自分の手帳に記した。
約束の日に右田は上野に行き、指定の列車の、指定の席にすわった。マスクの女が登場するのは、このあたりからである。しかし、はっきりと見た人はいない。一つの週刊誌だけが「若い女の人。マスクをかけてましたが、目がきれいでした。美人ですね。長い髪で、茶色のコートを着てました」と、まことしやかに乗客の言葉を紹介している。
——おかしいわ——
洋子は無理に笑いを作って笑った。さっきからずっと週刊誌の記事を食い入るように読んで見比べている。喉がすっかりかわいていた。お茶をいれるのももどかしい。
キッチンへ行ってコップに水を満たして飲んだ。
——どうやって、あの日の乗客の証言を集めるのかしら——
ああ、そうか。事件の直後に同じ車両にいた人の住所と名前くらいは警察は聞いておくだろう。週刊誌の記者はその中のだれかに会ったのだろう。そして、その人が「マスクをかけていましたが、目がきれいでした。美人ですね」と証言したらしい。長い髪、茶色のコート。どちらもちがっている。洋子は肩にかかるほどの髪を束ねていた。コートはベージュ色。べつな週刊誌には�マスクの女は駅のホームまでは背の高い男と一緒だった�と書いているが、これもなにを見ていたのか。人間の観察力なんて案外当てにならない。
たった今、洋子が無理に笑ったのは、緊張をほぐすためだけではなかったらしい。
——うまくいった——
記事の中から身の安全を読み取った、そのぶんも相当に含まれていただろう。
いずれにせよ洋子は、あのとき人の目にとまらないよう充分に注意していた。「記憶がありませんなあ」と言っている車掌が一番正直だろう。
あおば号が発車してすぐ右田輝男に電話室から呼び出しがかかる。「那須の旗屋様から」と、これは運よく係員が覚えていた。旗屋光二がとりあえず犯人の名と見なされるもう一つの理由である。
マスクをかけた美人が実行者。もう一人それを助けた男がいる……。右田の電話は二、三分だった。なにを話したのか、わからない。今となっては、本堂だけが知っていることだろう。
右田はおしぼりを使い、ウーロン茶を飲んだ。大宮駅が近づいていた。
「あおばのグリーン車では、おしぼりもウーロン茶も出しません」
ここにポイントがある、と、どの週刊誌も指摘していた。
�グリーン車でウーロン茶やおしぼり等のサービスがあるのは、やまびこ号に限られている。ちなみに言えば、下りやまびこ号でこのサービスをおこなうのは列車が大宮駅を出て次の停車駅に着くまでのあいだ。ところが、この事件では、犯人は列車が大宮駅に着く直前に二つの品を右田に渡している。右田がそこですぐウーロン茶を飲むとは限らないだろう。飲まずにいるうちに列車が大宮駅を出発し、そのうち本物の列車サービス係がウーロン茶とおしぼりを配って来たら「さっきのは、なんだ」と、いぶかしく思うにちがいない。画鋲であけられた穴を見つけるかもしれない。怪しんで、前にもらったウーロン茶を飲まない可能性も大きい。それでは犯人たちは困る。つまり、犯人たちは右田を、ウーロン茶やおしぼりのサービスがないあおば号に乗せる必要があったのだ。列車内サービスがどのようにおこなわれているか、一般の人はよく知らない。その盲点をついて、犯人たちはあおば号でウーロン茶を渡した。たとえ右田があおば号でサービスのないことを知っていても「おや、民営になってサービスがよくなったのかな」くらいの気分で受け取るだろう。まして隣席の美人が親切に受け取っておいてくれたとなれば……�
ある週刊誌の推理は的確である。まさしく本堂が意図したことを言い当てている。
�だから、この事件すべてが綿密に計画されたことなのだ。右田の行先が那須塩原であるのも、そのためだろう。つまり、あおば号に乗せるのが犯人たちの目的だった。おそらく那須塩原そのものには、なんの手がかりもあるまい。時刻表を見て選ばれただけの土地だろう……�
このあたりの事情は洋子もよく知らない。
——なるほどね——
深く考えることもなく、那須塩原のあたりに本当にからくり人形のコレクターがいるのかと思っていた。こけしのイメージが洋子の頭の中にあって、それがからくり人形と結びついたらしい。だが、こけしとからくり人形では、まるでちがうものだろうに……。
べつの週刊誌は、右田輝男という男の身辺を洗っている。
�……ゆすりや詐欺などと紙一重のところで仕事をやっている男だが、けっして強面《こわもて》ではない。若いころには弁護士になろうとして勉強したこともあったらしい。試験には失敗したが、法律には明るい。他人の弱点を見つけてじわじわと迫る。法律の穴を見つけては巧みに利用する。前科はない。刑務所の塀の上を歩いても、なかなかむこう側には落ちない……�
洋子は右田の顔を思い浮かべた。
赤ら顔だった。
背広を着ていた。多分、ネクタイをしめていただろう。顔は笑っていても目は笑わない、と、そんな印象を持ったのはなぜだったろう。右田の笑い顔を見たわけでもないのに……。ペットが威嚇を示すときのような、攻撃の表情を顔の下に隠していた……。
窓越しに見た最後の顔は、狼狽を載せていた。
——しまった。俺としたことが、充分に警戒しなくちゃいけなかったのに——
そんな意識を表しているように見えた。
洋子の思いすごしかも知れない。一瞬の表情に、それだけのものを読み取るのはむつかしい。
�……最近、右田がくらいついていたのは、ある政治家がからんだ収賄《しゆうわい》事件。右田は証拠となる念書まで握っていて、政治家に代償を求めていた。明るみに出れば、自殺者の一人や二人出てもおかしくないほどの事件である�
そう断定している週刊誌はどこまで真相をつかんでいるのかしら。同じようなことを書きながら�県会議員のK・S�とイニシャルを明らかにしている記事もある。
女性関係もなかなかにぎやかだ。週刊誌の記者は、こちらのほうが好みなのかもしれない。やけにつっこんで書いてある。
�……新宿のクラブMのママとは古い仲だった。そのママは昔はさぞかしきれいだったろうと思わせる人。今でも目つきが色っぽい。「私、本当に悲しいのよ。馬鹿なこと、書かないでね」とけんもほろろの態度である。たしかに最近は右田との関係も薄くなり「ママのほうがやられるならわかるけど……。右田の弱点をいくつか知ってるだろうからね」という噂もあって、犯人はこの筋ではないだろう�
記事には新宿の盛り場の写真がそえてあり、�モレイ�と書いたネオンサインが光っている。文中の�クラブM�は、これです、という意味らしい。
�……目黒のバーKのママは二年前に右田から資金をまわしてもらったが、最近は結婚したい相手ができて、右田と別れたい。右田は「だったら金を返しな」と取りあわない。このママは若いころ、日劇で踊り子をやっていた。ふくらむところはふくらみ、くびれるところはくびれている。性格については「彼女、カッとなったら、なにをやるかわからないわよ。でも、計画的ってことになるとねえー。次の日はケロッと忘れているほうだから」という証言もある�
動機はあるが、もうひとつピンと来ない、と言いたいのだろう。
渋谷のスーパーに勤めるS子のことも、一、二の週刊誌が書いているが、あまりつまびらかではない。ほかにももう一人いるのかしら。
�……右田の趣味は、からくり人形の蒐集だが、それに負けず劣らず美人も好きだった。とにかく面食い。好みのタイプは一定で、憂いを含んだ美人。和服の似あうタイプ。見かけはスリムだが、けっして貧弱な体ではない。この女と目をつけると、どんな手段を用いてでも手に入れたくなる。コレクターの執念と共通している。最近も上玉を見つけたが、その女性にはもう将来を約束した恋人がいる。普通の人ならあきらめるところだが、右田はあきらめない……�
このあたりから週刊誌の記事はいくつかの方向へ道分かれする。この女性と渋谷のスーパーに勤めるS子とを重ねあわせている記事もあるし、いや、そうではない、S子とは別人で、彼女は豊島区の外科病院の娘、右田はその病院の経営ミスを見つけてゆすり始めていた、と記しているページもある。さらに女性とは関係なく、右田の仕事ぶりの一例として病院をゆすっているという話もあった。
新聞や雑誌の記事というものは、当事者が読んでみるとどこかかならずちがっている。事実のちがいもあるが、それ以上に印象がちがう。同じことを表現していても、見ている角度がちがう。いつか洋子が勤める犬猫病院でも、ペットの安楽死をめぐって女性誌の取材を受けたけれど、できあがった記事を読むと、
——こういうつもりで言ったんじゃないのに——
と首を傾げたいところがいくつもあった。
右田という男の背景についても、当人が生きていたら、
「いい加減なこと書くなよ」
怒りだすような推測がきっとあるにちがいない。
でも……とにかくあまりよいことをやっている男ではなかった。洋子としてはぜひともそう信じたい。ろくでもない男が、本堂の弱みを握っておとしいれようとしていた。
——どの筋かしら——
右田の悪事はたくさんある。本堂に関係があるのは、その中のどれだろう。
洋子がいくつもの週刊誌を熱心に読んだ理由もそこにある。本堂に尋ねても教えてはくれまい。「聞かないほうがいいよ。全部忘れて」そう言うにきまっている。
その後も洋子は新聞雑誌の記事に目を光らせていたが、なんの進展も見えて来ない。事件は早くも迷宮入りの様相を示し始めている……。
一方、本堂はなかなか姿を見せない。
東北新幹線の事件から十日あまりがたち、洋子はすっかり苛立っていた。本堂からは一度電話があったっきり。そのあと、なんの連絡もないのだから……。いくらなんでもひどすぎる。
そう思っている矢先に電話のベルが鳴った。
電話の声が本堂とわかったとたん、
「どうしたのよ」
電話口でなじった。声がけわしくなる。
時刻は夜の十一時を過ぎていた。
「今、近所の公衆電話からかけている。行ってもいいかな」
「ええ」
「じゃあ」
電話が切れた。
——よかった。久しぶりに会える——
本堂が来るとわかったとたんに心の中のつかえがあっけないほど簡単にとれてしまう。洋子の心はなんの節操もなく喜びにくみしようとしている。少しいまいましい。もう少し不機嫌でいていいはずなのに……。
考えてみれば、好きな人を待つ心理にはいつもこんな作用があるものだ。たとえば渋谷のハチ公前の待ち合せ。約束の時間を六、七分すぎるころまでは、なんともない。むしろ胸を弾ませて待っている。十五分をすぎるころから、だんだん不愉快になる。苛立ち始める。三十分も待つと、もう本当に怒りたくなる。だが、そこを過ぎると、
——とにかく早く来て——
哀願するような気持ちが生まれる。そんなときに、ちょうど相手が小走りにやって来たりして……。怒るのを忘れて胸を撫でおろしてしまう。
玄関の鍵をはずし、部屋を片づけ、ベッドのシーツを替えた。
「こんばんは」
本堂は音もたてずに忍びこんで来た。洋子は走り寄り、なにかを言おうとしたが、本堂が自分の唇に指を立てる。表情が「静かに」と告げている。
無言で胸にすがりついた。本堂は洋子の肩を抱え、そのまま押しこむように部屋の奥へ進んだ。
「なにかあったの?」
「いや、なんにもない。すべて順調だ」
「まだしばらくこんなことしてなくちゃいけないの」
「うーん。そうだなあ」
本堂が洋子の目をのぞきこみ、頬を寄せ、唇を重ねる。
「抱きたかった」
本堂の手が洋子のガウンを奪った。
パジャマのままベッドに運ばれた。
なにもかもそれをすませてからでなければ始まらない。男と女のあいだにはそんな時期があるものだ。
——体がこの人になじみ始めている——
洋子は目を閉じ、体のうちに高まって来るものをさぐりながらそう思った。
性の営みには本当に計り知れない部分がある。春の日の陽だまりのように、なんのかげりもない幸福のまっただ中で抱きあうのも無上の歓喜にちがいないけれど、その反対に、邪悪な欲望が業火のように燃えさかる、そのまっただ中で抱きあうときも、果てしない喜びが募って来る。他のしあわせとともに手をたずさえ、うらうらと心地よく抱きあう喜びも捨てがたいが、頭のどこかで地獄を意識しながら、その邪悪さゆえにかえって計り知れない歓喜に洗われることもある。性の営みは、天使だけではなく悪魔ともたやすく手を結ぶところがあるようだ。
——たとえば、今——
喜びに溺《おぼ》れてよいときではない。なにはともあれ二人の人が死んでいるのだから……。
——私たちの手は、まっ赤に汚れている——
ところが、その意識が洋子を高ぶらせる。むしろ一層の歓喜をかきたてる。自分の心の中にそんなよこしまなものが潜んでいるのが恐ろしい。
——本堂さんも同じなのだろうか——
いつものように体の内奥で白いものが弾け、男の体が重さを増す。洋子の中でゆっくりと潮が退き、黒い火も輝きを失う。
「なにを思っているの?」
洋子はおぼろな意識にさからって尋ねてみた。
なにかの本で読んだことがある。男は放出の直後に、しろじろとした冷静さを取り戻すと。その瞬間の男ごころが一番正しいものだと……。そんな判別法があるらしい。
「うん。君が好きだ」
本堂は型通りに答える。だが、ただのリップ・サービスかもしれない。本心は簡単に見えるものではあるまい。この判別法は男が自分自身に問いかけて、自分の本心を知るためにのみ役立つものだろう。
「わるい人だったのね、右田って男」
「そうだよ」
「なにをした人なの」
「それは聞かないほうがいいよ」
本堂の返事はいつもと変らない。
「そう。私はなんにも知らされないのね。あやつり人形みたいにあやつられて」
「気をわるくしないでくれよ。そのほうがいいんだ。僕だって話したいことじゃない。どうせなら、もう少し楽しいことを考えたほうがいいよ」
「どんなこと」
「初めて会ったのは十月の……?」
「七日。短いあいだにいろんなことがあったわ」
「さそり座だって言ってたけど、誕生日はいつ?」
「言わなかったかしら。十一月十七日よ」
答えながら洋子は自分でも忘れていたことに驚いた。
「ついこのあいだじゃないか」
「ガタガタしてたから」
「なんにもお祝いをしなかった」
「いいわ。もう三十歳を過ぎたんですもの。誕生日なんてとくにめでたくもないわ。あなたは?」
「四月二十日」
「おうし座ね」
「どうなんだ。おうし座とさそり座の相性は?」
「いいはずよ、たしか。相性としては最高にいいの。でも親しくなれるまでに紆余《うよ》曲折があるの」
「なるほど、当たっているみたいだ。あさってからヨーロッパへ行く」
「本当に?」
洋子は身を起こした。せっかく会えたというのに……。
「うん。わるいけど……。でも、こんなときにはかえってそのほうがいい。会わないほうがいいんだ、しばらく」
「冷たいのね」
「そういうことじゃないってば」
本堂が眉をしかめる。
——わかっているのよ。でも——
本堂と洋子が親しくしていることが世間に知れれば、ろくなことはない。それはよくわかるのだが、本堂の態度がなんだか歯がゆい。今夜は甘えたい。わがままを言ってみたい。
「長いの、ヨーロッパは」
無言でいる本堂に尋ねかけた。
「二ヵ月くらいかな」
「そんなに」
洋子はもう少しすねなければ、とても気分が収まりそうもなかった。