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箱の中05

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:死 ん だ 女 父は四十九歳で死んだ。 若い死だった。 死因は脳|溢血《いつけつ》。その日の朝、家を出るときにはなんの変調
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 死 ん だ 女
 
 
 父は四十九歳で死んだ。
 若い死だった。
 死因は脳|溢血《いつけつ》。その日の朝、家を出るときにはなんの変調もなかったらしい。母がそう言っていた。
 ──父の体質が遺伝しているんじゃあるまいか──
 自分が四十九歳になったとき、私はそのことがひどく気にかかった。四十九歳を超えた日には、ほんの少し安堵《あんど》を覚えた。
「馬鹿ね。今どき五十前で死ぬ人なんかいないわよ」
 と、妻の秋子は、不正確な知識を呟《つぶや》いて笑う。
 調べたわけではないけれど、四十代で死ぬ人だって、それなりにいるだろう。比較的めずらしい、という程度のものでしかない。
「そうかな」
「寿命が延びてるもん」
「うん」
 父の世代と比べて、どのくらい延びているのか。それはそれで、またあらたに気にかかることである。五年延びているとして……私は今年五十四歳になった。
「お祖父《じい》さんは長生きだったんでしょ」
「六十二だから、長生きってほどじゃない。死因は狭心症だし……」
 高血圧と無縁の病気ではあるまい。
「あなたの体型なら大丈夫よ。脳溢血になる人って……もっと太っているわ」
 たしかに私は中肉中背である。しかし、父だってそれほど太っていたわけではない。私と同じくらい……。体型だけではわからない。
 私自身、若い頃はむしろ血圧が低かった。このごろになって、急に「血圧が少し高いですね」と注意を受けるようになった。いずれにせよ気をつけたほうがよい。
 ──塩昆布はやめるかな──
 車のハンドルを握りながら、そんなことをちらっと思った。
 塩昆布は私の好物である。老舗《しにせ》で販売している高価なやつ。二センチ四方くらいに切られていて、表面に塩が吹いている。それを食後のお茶と一緒に一、二枚食べる。
 ──まあ、いいか──
 塩昆布のことは、すぐに忘れた。
 日曜日の朝。街《まち》は人通りが少ない。とりわけ倉庫の並ぶ一画は人影を見ない。もう少し走って右へ曲がれば早稲田通りに出るだろう。車のスピードをあげた。通り慣れた道ではない。
 先日……と言っても三カ月ほど前のことだが、高田馬場で会合があり、その帰り道にタクシーで落合のあたりを通った。家並みのあいだに�消防機具・唐辺商会�と記された看板を見つけて、
 ──ほう──
 と思った。唐辺は�からのべ�と読む。多分そうだろう。
 ──昌代の兄さんだな──
 この推測には百パーセントに近い自信がある。消防機具を専門に扱う商店なんて、そうたくさんあるものではない。それが昌代の家の職業だった。唐辺という苗字《みようじ》はさらにめずらしい。以前は大塚の駅の近くに似たような看板を出していたが、一画はすっかり整理されて広い道路に変っている。数年前に通りかかって、それを知った。区画整理のときに店を移したにちがいない。昌代は二人|兄妹《きようだい》だった。兄が父の仕事を継いでいるような話も聞いた。それならば、その兄の店が都内のどこかにあっても不思議はない。落合の商店街で看板を見たとたんに推測が生じ、すぐに確信に変った。
「消防機具の専門店なんて……あるのかいな」
 三十年も昔、馬鹿な質問をして昌代に笑われた。昌代が現に、その店の娘なのだから……。
「あるのよ」
 昌代は、笑うと片えくぼがくっきり凹《へこ》む。肌の柔らかさを感じさせるえくぼだった。
 あって当然だろう。家庭用品としては、せいぜい携帯用の消火器くらいしか思いつかないが、工場ならば、どんなに小さくても、さまざまな消火設備が義務づけられているにちがいない。ニーズがあれば、それを扱う専門店もあるだろう。
 赤く塗られた消防用具、ヘルメット、銀色のマント、銀色の長靴、ホース、避難|梯子《ばしご》……しかし私は昌代の家の店内を見たわけではない。いつも近くまで送っていって、そこで別れた。
 
 昌代と知りあったのは目白の英会話スクールで、私はまだ大学生だった。
 ──英語が喋《しやべ》れるようになりたい──
 と、気まぐれのような動機で英会話の中級コースをのぞいてみた。たしか日曜日の午前のクラスだったろう。その学校はミッション系の事業を営んでいて、そのせいで授業料が格安だった。それも私が気まぐれを起こした理由の一つだったろう。昌代のほうも似たような事情だったのではあるまいか。
 昌代は一人だった。つまり、女性はたいていこういうところへは仲間と連れだってやって来る。
「ねぇ、英会話、やらない?」
「英会話?」
「安いところがあるのよ。英語、話せたほうがいいじゃない」
「そうねぇ」
「ね、行こう、一緒に」
 相談をして現われる。
 あとでわかったことだが、昌代も本当は友人と二人で来るつもりだったらしい。その友人に不都合が生じ、仕方なしに一人で顔を出したという事情だった。
 レッスンが始まってみれば、教室は二百人も入る大所帯で、とても会話が学べるような雰囲気ではない。アメリカ人の教師が英語で喋り、何人かの生徒を教壇の上に呼んで会話の真似ごとを演ずる。壇上にあがった生徒はまだしも、それを見ているほうは、ただの見物人である。二百人を対象にしたメソッドが確立しているとは、到底思えなかった。大学の講義じゃあるまいし、二百人も集めた英会話教授法などありえないだろう。
「こりゃ駄目だ」
「そうみたい」
 レッスンが進むにつれ出席者が少なくなる。とことん少なくなったところで、ほどよい英会話教室に変るのだろうか、私は途中で罷《や》めてしまったから先のことまではわからない。
 昌代とは最初の日に隣あわせにすわった。これは偶然だった。つぎの日は、
「おはようございます」
 玄関のところで顔をあわせ、なんとなく並んで腰をおろした。三回目からは、それが習慣となった。昌代は如才《じよさい》のない性格だった。
 私のほうは、
 ──わるくない──
 はじめから昌代に惹《ひ》かれるものがあって、意図的に近づいた。
「コーヒー、飲まないか?」
「いいわよ」
 目白駅に近いコーヒー・ショップに立ち寄った。こうして交際が始まった。
 英会話スクールのほうは、私も、昌代も、三カ月足らずで挫折《ざせつ》してしまったけれど、親しさはそのあとも続いた。
 恋人同士と言えるような間柄ではなかったろう。ただ、会うのはいつも一対一である。ほかに名目があって会うわけではない。会うことが目的である。恋人同士のような気配がまったくなかったわけではない。
 昌代は私と同い年である。厳密に言えば、昌代のほうが四カ月ほど年長だった。高校を卒業して事務機器のメーカーに勤めていた。恋愛とか結婚について、私よりずっと具体的なイメージを抱いていただろう。私のほうは、
 ──適当なガール・フレンドがほしいな──
 と、暢気《のんき》なものである。
 そのガール・フレンドが恋人になってくれればもっとよいけれど、それから先のことについては、なんの展望もない。いい加減なものである。結婚なんて、ほとんどなにも考えていなかった。考えたとしても、おいしい部分だけを想像して、現実性はすこぶる薄い。学生の考えなんておおかたがそんなものだ。自分の身のふりかたも決まらずに、結婚もへちまもあるまい。昌代に対してはそれなりに真摯《しんし》な気持ちで接していたが、なんの目算もないのだから、からまわりの情熱と言われても仕方なかっただろう。
 昌代はもう少し大人だった。
 ──結婚の対象ではないわ──
 と、私の心を見抜いていただろう。
 事実、どの時期から始まったことかわからないが、昌代にはほかに親しい男性がいた。そちらが本命だった。
 ──結婚はべつの人と。でも、その前にボーイ・フレンドと少しくらい楽しんだっていいんじゃない──
 そのくらいの気分だったろう。その気持ちは私がサラリーマンになってからも変らなかったと思う。天秤《てんびん》にかけていた、と、そう思えるふしも皆無ではないけれど、たとえそうだとしても、私の載った皿は極度に軽く、はるかに重いものがもう一方の皿に載っていたにちがいない。
 四年を少し超える関係……。月に一、二度会って映画を見る、食事をする、コーヒーを飲む、一度海へ行ったな、いろいろな時期があったけれど、強いて言えば、同じことをくり返しているような関係だった。もちろん体の関係などはありえない。せいぜい手を握り、肩を寄せあったくらい……。
 しかし、好きなことは好きだった。そのことが少しずつわかった。わかったときには少し遅かった。はじめから本気で接していれば、もう少し事情が変っていたかもしれない。
 奇妙によく覚えていることがある。
 超高層のビルはまだなかったが、それでも充分に高いビルのレストランで、私たちはカクテルを飲んでいた。西の空がほんのひととき血のように赤く染まり、すぐに鈍色《にびいろ》の夜に変った。
「死ぬって、どういうことかしら」
 そんな話題にふさわしい、沈んだ音楽が流れていたような記憶が残っている。
「息が絶えて、心臓が止まって……」
「そうでしょうけど……。一昨年、従姉《いとこ》が死んで、そっくりの人が博多で歩いてたんですって」
「ああ、そう」
「この世の中って、混ざりあわないカクテルみたいに分かれているんじゃないのかしら」
「うん?」
「博多なんて、うち、なんにも関係がないのよ。なのに、本当にそっくりだったらしいわ。見た人が�君枝さんだ�そう思って追いかけたら、ビルの陰でいなくなってしまったんですって。正面からはっきりと顔を見たそうよ」
「死んだのは確かなんだろ」
「ええ。焼き場へ行って、骨まで拾ったわ」
「じゃあ、見た人の見まちがいだな」
 そう呟いてから私は、
 ──現実的すぎるかな──
 と思わないでもなかった。正解はその通りだろうけれど、それではそこで話が終ってしまう。男女の語らいは、もう少し曲《きよく》があったほうがよい。なによりも昌代がそれを望んでいるらしいのだから。そうと気づいて、
「生まれ変ったわけ?」
 と尋ね返した。多分、私の頬《ほお》は笑っていただろう。
「でも、生まれ変るのって、赤ちゃんになるわけでしょ。一昨年死んで、博多にいた人は従姉と同じくらいの年だったんだから」
「困るなあ」
「だから、みんな一緒に暮らしているように見えるけど、べつな世界が入り混じっていて、こっちの世界からあっちの世界に行っちゃうのね。たまに、それが見えたりするわけ」
「体はどうなるんだろ。焼かれて骨にまでなっちまったんだから」
「そうよねぇ」
 この種の話は理屈を追いかけてみてもつまらない。昌代が続けた。
「お祖母《ばあ》ちゃんに聞いたら、�うちはよくそういうことがあるんだ�って」
「どういうこと?」
「わかんない。よく聞かせてくれなかったから。お祖母ちゃんも、二、三回、同じめにあったみたいよ。一つは母も知ってたわ」
「やっぱり死んじゃった人が、べつなところにいるわけか」
「そうなんじゃない。みんなうちの親戚《しんせき》。そういう血筋なんじゃないのかしら」
「ふーん」
「私が死んで、どこかに現われたら、どうします?」
「追いかけて行くよ」
 たわいのない会話だったが、昌代は思いのほか真顔だった。
 ──よく似た顔がある血筋なのかな──
 このほうがはるかに合理的な解釈である。よく似た顔の血筋がもう一つべつなところにあるとすれば、簡単に説明がつく。代々似た顔が生まれることもあるだろう。
 しかし、この世界がある種のカクテルみたいに混ざりあわずに分かれている、そのくせ一つのコップの中に共存している……そんな昌代の考えかたは、
 ──おもしろいな──
 わけもなく私の心に残った。
 
 ──この人を本気で愛そうか──
 と思ったことは、ある。それは本当だ。
 私自身もサラリーマンになり、二年ほどたって、少しは結婚のことを本気で考えるようになっていた。すぐには無理だとしても一年後、あるいは二年後なら、それができる。昌代ほど心の通う相手はほかにいなかった。
 そのことをどううち明けようか。四年以上も友だちのような関係を続けて来て、ある日、急に、
「ところで、恋愛でもしませんか」
 と告白するのは、むつかしい。やりにくい。
 迷っているうちに、
「お話があるの」
「なーに?」
「実は……」
 と、昌代は言葉を切り、一息ついてから、
「結婚します」
 と告げた。
「いつ?」
「秋に。だから、もうお会いできないわ。いろいろと準備に忙しくて」
 と、最後の台詞《せりふ》はつけたしのように添えた。
 忙しくなるのが、会えない理由ではあるまい。忙しくなるのは本当だろうが、月に一度やそこら会おうと思えば会える。結婚を前にして、
 ──もう、こんな関係、清算しましょう──
 と、それが世間の良識である。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「いい人?」
 聞かずもがなのことを尋ねた。思い返してみれば、数カ月前から、
 ──昌代に好きな人がいるらしい──
 と、感じようと思えば、充分に感じられただろう。感じたくないから、感じないでいただけのことだ。
「ええ、まあ。でも、わからない」
 破顔一笑、幸福そうな笑顔だった。
「俺《おれ》が申し込もうと思っていたのに」
 冗談のような調子で言った。
「遅かったみたい」
 と、昌代も軽い調子で答える。
「今からでは駄目かな」
 これは真面目《まじめ》に呟いたつもりだが、真意は昌代に通じただろうか。
 笑いが消え、
「ごめんなさい。遅すぎました」
 と、きっぱりと答えて首を振った。
「もう一回だけ、お別れの会をしよう」
「なにをするの?」
「ご飯を食べる。思いきりデラックスの」
「いいわよ」
 未練と言えば、未練だろう。
 赤坂のホテルでフランス料理を食べ、お濠《ほり》ばたの道を歩いた。公園は怖いほど静かだった。昌代は終始好意的でやさしかったけれど、心はすでに私を離れていた。微妙な動作にそれが感じられた。
 そうであるにもかかわらず、肩を抱きあって歩き、街灯の光を避けて頬を寄せた。
「さよなら」
「お世話になりました」
 大塚の家の近くまで送って行き、
「さよなら」
「お世話になりました」
 同じ言葉をくり返して別れた。うしろ姿が小走りに去って行く。
 その姿が見えなくなるのを待って私はあとを追い、昌代の家の前をゆっくりと歩いた。�消防機具・唐辺商会�と、その看板をあらためて確認した。家の窓には明るい光が溢《あふ》れ、中に住む人たちの喜びを映しているように感じられた。
 昌代は金沢へ行った。結婚の挨拶《あいさつ》状がそれを伝えていた。夫はその地に住む人らしい。苗字は佐藤と、ずいぶん月並なものに変っていた。
 それから三年ほどたって、私は出張で金沢へ行った。連絡をとると昌代はホテルのティルームまで来てくれた。
「もう田舎《いなか》のおばさんよ」
「変らない。金沢は田舎じゃないし」
「子育てに忙しいの」
「何人?」
「まだ一人よ」
 ほんの十分足らず、短い再会だった。
「東京へ行ったとき、ご連絡をしてもよろしいかしら。そのほうがゆっくりできるから」
 金沢では人の眼もあるのだろう。
「いいよ。もちろん。いつ来るんだ?」
「わからない。いつか……。たまに行くけど主人と一緒だし、実家へも行くから」
「うん」
 曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
 昌代の言う�いつか�は�いつか一人で気楽に東京へ行ったとき�の意昧だったろう。
 おみやげに大きな最中《もなか》をもらった。前田家百万石の紋所を刻したお菓子だった。
 それからは年賀状を交わす程度のものだった。私も仕事が忙しい。年月が飛ぶように流れた。
 ──昌代はどうしてるかな──
 そう思うことさえ間遠くなった。ほとんど忘れた、と言ってもよいだろう。
 金沢で見た海と空は暗かった。昌代の生活がどちらかと言えば、くすんだものに思えたのはなぜだったろう。
 
「もしもし、佐藤です。昌代です」
 電話で声を聞いたのは……そう、金沢で会ってから五年ぶり、結婚のときから数えれば八年ほどの年月が過ぎていただろう。
「今、東京?」
「はい。あの……」
「なに?」
「お会いできますか、できれば今夜」
「えーと、今夜しかあいてないのか」
「すみません。できれば……」
「なんとかなる」
 予定がないでもなかったが、そちらのほうは変更ができる。
 銀座のデパートの前で待ちあわせた。
「久しぶり」
「お変りもなく?」
「変りようもない。まだ独り身だ」
 すぐに親しさが甦《よみがえ》ったのは、やはり四年あまりの交友のせいだろうか。だが、
 ──少しちがう──
 会って一時間も経ないうちにそれを感じた。
 ──俺たちはこんなに仲がよかったろうか──
 昌代の態度がやけに睦《むつ》まじい。人妻だというのに……。ほの白い表情の中に、かすかに浮き立つものが感じられた。ビルとビルに挟まれた細い夜空に点滅するネオンの輝きを見あげ、
「これが東京の夜なのね」
 と、肩をすくめる。
 放恣《ほうし》な街のたたずまいに昌代はなんのためらいもなく身をゆだねている。
 食事のときに飲んだワインに少し酔ってはいただろう。肩が触れると、
「いいわね」
 いたずらっぽい表情で腕をからめる。わけもなく私は、
 ──この人の結婚はしあわせなのかな──
 と訝《いぶか》った。
 ティルームに入り、さらに席をホテルのバーに移してカクテルを飲んだ。夜は次第に更けていく。
「いつ帰るんだ?」
「……ええ、明日」
 子どもは金沢に置いて出て来たらしい。
「大塚の実家に?」
「……いえ」
 膝《ひざ》のハンカチを丁寧に折り畳んでいる。
 急に顔をあげ、
「お部屋をとっていただけません?」
 と言い、
「今からじゃ、お友だちの家には行けないわ」
 と、つけ加えた。
「うん」
 うっすらと昌代の頬が上気している。
 ──初めからそのつもりだったのかな──
 私のほうにはなんの支障もない。結局、二人で一つ部屋に泊ることになった。
 四谷のシティ・ホテル。黙ってエレベータを昇り暗い廊下を歩いた。鍵《かぎ》を開けると、ベッドの存在が眩《まぶ》しい。
「いけないわね」
「まあ、こんなこともあるんじゃないのか」
「そうかもね」
 かすかに投げ遣りに響いた。
 私が先にバスを使い、そのあとで昌代が汗を流す。シャワーの水音がとだえ、
「暗くしてくださいな」
 ドア越しに声が聞こえて、
「うん」
 薄闇《うすやみ》の中に白いバスローブが立った。
 ベッドに誘い、並んで体を横たえた。
「今夜だけ……」
「どうして」
 私の問いかけは、むしろ�どうしてこんなことになったのか�だったろう。�どうして今夜だけなのか�と、それを尋ねたわけではなかった。しかし、二つは同じ質問だったかもしれない。
 昌代はどちらにも答えず、
「どうしても」
 と、首を振る。
 これ以上尋ねるのは、心ない仕打ちのようにも思えた。
 男女が体を重ねあうことの意味なんて、いかようにも変化する。あまり軽々しく考えるのは、私の好みではなかったが、そして多分、昌代も同様だったろうけれど、さりとて、さほど重いものでもないのかもしれない。親しい者同士であれば、むしろ自然なことなのかもしれない。そして、昌代と私は充分に親しかったのだから……。
 短い会話のあとで、私たちは体を重ねた。
 昌代の体は充分に熟していた。
 抱擁《ほうよう》のあとで、昔のことをあれこれ語りあい、もう一度、体を交えた。朝近く、昌代の寝息を聞きながら、
 ──人生に、こんなことがあってもいいんだよな──
 と、とりとめもなく私は思った。
 昌代は羽田から空路で帰ると言う。
「ご迷惑かけちゃって……ごめんなさい」
「いや、こっちこそ」
 別れぎわに、
「忘れものをしたような気がして」
「えっ、どこに?」
「ううん。人生に。じゃあ、さよなら」
 意味のわかりにくい台詞《せりふ》を呟いた。
 少し考えて、
 ──ああ、そうか。一度抱きあわないと、人生に忘れものをしたような気がして、と、そういう意味かな──
 と解釈した。
 当たっているかどうかわからない。しかし、ほかにうまい解釈も見当たらない。
「今夜だけ」という約束にどれほどの真意がこもっていたのか、それもわからないが、結果としてはその通りになった。その後、昌代からはなんの連絡もなく、二年後に私も結婚をし、また年賀状を交わすだけの関係となった。
 ──これでいいんだ──
 あまり深入りをしてよいことではあるまい。いっときの気晴し。生活のカタルシス。忘れものなんて、何度もしてよいものではない。
 いつのまにかまた何年かが流れた。
 
「もしもし」
 女の声である。聞き覚えはなかった。
「もしもし、田村です」
 と私は名のった。
「田村洋一様でいらっしゃいますか」
「そうですが」
「佐藤昌代さん、ご存知でいらっしゃいますわね」
「はい?」
「亡くなられましたが……ご存知でしたか」
「いえ、いつ?」
「先月の十七日でした。私、昌代さんと親しくおつきあいをさせていただいていたものですから……あるいは、ご存知ないかと思いまして」
「ありがとうございます。知りませんでした。ご病気ですか」
「はい。一年ほど前から入院されていて……肝臓のあたりに、ちょっと」
 病名は言わないが、見当はつく。
「お子さんは?」
「敏樹ちゃん。高校生になって」
「お一人ですよね、お子さん?」
「はい」
「ご葬儀は?」
「もうすみました」
 そうだろう、二週間もたっている。
「どうしたらよいのかな、私は?」
「あのう……」
 と、戸惑《とまど》うように呟いてから、電話の声は、
「さしでがましいようですが、なにもなさらないほうがよろしいかと思いますが」
 と言う。
 それはわかる。私の立場は……たった一度のことではあったけれど……まあ姦夫《かんぷ》である。秘密は守られていただろうが、残された夫はなにかを感じているかもしれない。今となってはなにもしないことが、昌代への一番のはなむけだろう。
「わかりました。そうします」
「ずっと前に、昌代さんが言ってらしたんです。私が死んだら、この人に連絡してって。田村様のお名前をうかがっていたものですから。冗談みたいな言いかたでしたけれど」
 親しい友人にちょっと漏らしたことだったろう。そのときの昌代の心境はなんだったのか。
「幸福だったのかなあ、彼女は?」
 それが見ず知らずの人に対する精いっぱいの質問だった。
 夫婦の仲はうまくいっていたのだろうか。恋愛結婚のような話だったけれど、だからといって、いつまでも睦まじいとは言いきれまい。
 私と過ごした夜のこと……。昌代は気まぐれのように装っていたが、なにかしら切羽つまった気配がないでもなかった。ありていに言えば不幸な結婚に腹いせをするような……。
「若い死でしたから。敏樹ちゃんを残して……さぞかし気がかりだったと思いますわ」
 電話の声は私の疑問には答えてくれなかった。
「そうですね」
「とりあえずご連絡だけはと思いまして」
「ありがとうございます」
「では」
 電話が切れた。私はやはりうろたえていたのだろう。相手の名前も聞かなかった。
 ──死んだのか──
 ゆっくりと電話の中身を反芻《はんすう》した。驚いたけれど、それほど意外ではなかった。ありそうなことにさえ思えた。あの夜、昌代の裸形《らぎよう》は、とても薄く、頼りなく感じられた。根の丈夫な人ではなかったろう。そのくせ頑張り屋で……。無理をすれば、命を縮めかねない。
 ──友だちに連絡を頼んでおいたのか──
 少し意外だった。わるい気はしない。電話の様子では、それは大分、前のことらしい。まさか自分の死を知っていたわけではあるまい。
 それとも、人は漠然と自分の死を知るものだろうか。夫婦の仲は、少なくとも�非常によい�という状態ではなかったろう。いっときのことかもしれないが、険悪な時期もあっただろう。そうでなければ、女は昔の男を誘って一夜を過ごしたりはしない。
 ──不幸な結婚だったのかもしれない──
 それが彼女の死を早めたのではないのか。疑えば、子どもが一人というのも、あまり円満とはいえない夫婦の証《あかし》かもしれない。
 その夜、昌代の夢を見た。
 少女のようにかぼそい裸形だった。茎のような腕を伸ばし、
「あなたと一緒になればよかったのね。ばちが当たったみたい」
 縄のように身をよじって歓喜を訴える。この世に存在しない、文字通り夢の中の快楽であった。
 ──そんな人生もあったのかもしれない──
 と、なつかしんだ。とはいえ、
 ──なにもかも過ぎさったこと──
 私はそれほど深い感傷に浸ったわけではない。現実問題として、昌代のことは、私の意識からすでに消えていた。いや、消えたというのは言い過ぎだろう。いくらかの記憶は頭のすみに残っていたが、それとても思い出そうとしなければ、思い出すことではなかった。どのような意味でも、私の日常生活に影響を及ぼすことではなかった。
 ただ……なんと説明したらよいのだろうか。死の知らせを聞いてから、ほんの少し、しこりのようなものが頭のすみに残った。
 ──いつかゆっくりと彼女のことを思ってあげよう──
 あえて言えば、そんな心境だったろうか。
 そのまままた十数年が流れた。
 
 落合の商店街で�消防機具・唐辺�の看板を見たとき、長いあいだ放っておいた感傷が心に甦《よみがえ》って来た。とても大切な忘れもののように……。それを追うようにして、
 ──どういう人生だったのかな──
 昌代のことが少しずつ心に浮かんだ。
 なにもかもすっかり過去の中に埋れてしまった。これだけの日時が経過してしまえば、昌代の夫も、昌代とはほとんど無縁の人生を生きているだろう。私が昌代のことを思ってみても、迷惑をかけることはあるまい。墓があるものなら(金沢となると少し厄介だが)一度訪ねてみたい。
 大袈裟《おおげさ》に言えば、私の心に芽生えたものは、
 ──人の一生とはなんなのか──
 そんな思いに近かった。だれにだって一生のうちに、いくつかの輝いた時間があるだろう。だれかが思い出してあげなければ、その輝きは永遠に消えてしまう。昌代と二人で過ごした夜は、昌代にとっても、私にとっても、平凡な人生の中でそれなりに輝いていた瞬間ではなかったか。私自身のためにも、それを呼び戻して、いつくしんでみたい。私が少し年を取り、まれには自分の死なども考え、それが契機となって、過去を顧みるようになったせいかもしれない。
 さりげなく�唐辺商会�を訪ねてみよう。
 昌代の兄に会えば、なにかしら昔に繋《つな》がるものが見えてくるだろう。
 そう思いながらも実行までには、一カ月あまりの日時がかかった。人は、現実的な用件については、ずいぶんつまらないことでも体を動かすが、こうしたぼんやりとした用件には、なかなか腰をあげないものだ。
 ──それで、どうする──
 その判断がつきまとう。
 快晴の日曜日に、
 ──行ってみるか──
 ようやく決心をした。
「ちょっと車を走らせてくる」
 家族に告げて家を出た。
 車の中で父の死を考えたのは、昌代の若い死に誘われて自分の死を考えたから……だろう。それにしてもこのごろよくそんなことを思う。
 ──昌代も考えたのかな──
 自分の死のことを……。
 重い病気にかかっていたのなら、当然それを考えただろう。
 そう言えば、もう一つ、これもずいぶん古い出来事なのだが、昌代と親しくつきあっていた頃、私は昌代に贈るつもりで金のブローチを買った。当時の懐《ふところ》ぐあいを考えれば、かなり奮発した買い物だった。
 だが、間もなく昌代が結婚することとなり、せっかくの贈り物も渡しそびれてしまった。そのあと四谷のホテルで話すと、
「今でも、あります?」
「もちろん。Mの字を花のように刻んで、わりとよいデザインなんだ」
「ほしいわ。よい思い出になるから」
「うん、あげよう」
 あのときは、また会うこともあるだろうと思っていた。
 だからそのまま引出しのすみに、放っておいた。そのうちに忘れた。引出しそのものが父の家の物置きにある。先日、見つけ出して、もし昌代の墓へ行くことがあったら、
 ──これを土に埋めてあげよう──
 ぼんやりとそんなことを考えた。
 墓のありかはわからないが、とりあえずブローチを握って家を出た。
 
 車が倉庫の並ぶ道へ入った。人通りは……だれも見えない。
 スピードをあげた。そのとたん、
「あっ」
 黒いものが……犬がいきなり倉庫のあいだから飛び出して来た。
 犬だ、と、はっきり見たわけではない。
 ──いかん──
 激しいショックを覚えた。一瞬、血の流れが止まるような不思議な感覚を覚えた。
 脳裏が白くなった。
 緩慢な動作で車を出た。周囲にはだれもいない。だれも見ていない。ただ人気《ひとけ》のない道がひっそりと延びている。
 ──どうしたのかな──
 とても奇妙な感覚……。
 ──早く立ち去ったほうがいい──
 そのまま歩いた。
 角を曲がると、商店街だ。すぐに�消防機具・唐辺�と記した看板が見えた。黄ばんだ看板が、背景から浮かびあがったようにはっきりと見える。
 ──ここだ、ここだ──
 と、納得する。
「ごめんください」
 と、ドアを開けた。
 男が一人、奥のほうでうしろ姿のまま仕事をしている。私の声は届かなかったらしい。
 赤く塗られた消防用具、ヘルメット、銀色のマント、銀色の長靴、ホース、避難梯子……私が想像した通りの品々が棚に並んでいる。気配を感じて、
「なにかご用ですか」
 と、男が振り向く。
 ──昌代の兄さんだ──
 一度も会ったことのない人なのに、すぐにわかった。眼と鼻のあたりの表情が昌代によく似ている。
「家庭用の消火器はどれですか」
「普通のご家庭なら二キログラムの蓄圧式でよろしいと思いますよ」
 と、笑いながら一番小さな筒を指さす。
 ──私のことを知っているのだろうか──
 親しげな様子でこっちを見つめている。
「あの……以前、大塚のほうでお店をお持ちじゃなかったですか」
 意を決して尋ねてみた。
「はい」
「同じ唐辺商会で……」
「父の店です。私もおりましたが」
「そうですか。やっぱり。妹さんがいらして」
「はい」
「昌代さんとおっしゃいました」
「そうです」
「私、昌代さんを存じあげていましたので」
「ああ。田村様でしょ」
 と、相手は頷くように言いあてた。
 ──知っていたのか──
 それならば話しやすい。しかし、どの程度のことを知っているのか。
「はい、田村です」
「このあいだもお噂をしてたんですよ」
「えっ」
 一瞬、息を飲んだ。聞きちがえかと思った。
 ──ああ、そうか──
 噂というのは……たとえば、昌代の母親が生きていて、その人とこの兄とが話しあうこともあるだろう。
 ──どう切り出したらよいものか──
 戸惑ったすえに、
「昌代さん、お気の毒でした」
 と呟いた。
 相手はゆったりと笑ってから、
「まあ、亭主と別れて……仕方ないでしょう」
「はあ?」
 思考が混乱する。
 なんだか様子がおかしい。さっきから周囲の気配に違和感がある。
 相手は、そんな私を見つめながら、とどめを刺すように言った。いや、言いかたはなにげなかったが、少なくとも私にはとどめを刺されるように響いた。
「いると思いますよ、今。裏の二階に」
 と、横手の出入口のほうに首を向ける。敷地の一部がアパートにでもなっているのだろうか。
「昌代さんが?」
「はい。行ってごらんなさいませ」
「……はい」
 かろうじて声が喉を通り抜けた。「お亡くなりになったんじゃないんですか」と言いかけて、それを飲み込んだ。あまりにも馬鹿げている質問だ。不謹慎と思われるだろう。
 思考がまとまらない。
 たとえば、夢の中で、なにかを掴《つか》まえようとしているのだが、いっこうに掴まえられない。そんなときのあせりに似ている。頭の中に薄い膜がかかったように、はっきりとしない。
 ──ああ、そうか──
 ようやく思考の糸が繋《つな》がった。
 昌代の死を知ったのは、たった一本の電話だった。それも見ず知らずの女性からだった。その人は昌代の友だちだと言い、昌代の死を教えてくれた。
 それだけの経緯だった。葬儀に出席したわけではない。死亡通知を受け取ったわけでもない。
 ──迂闊《うかつ》だった──
 なんの確認もしなかった。ただ一途に信じてしまった。もしあの電話が嘘だったら……。
 ──なんのために──
 嘘の目的はわからないけれど……。なにかしら悪意があったにちがいない。
 ──いずれにせよ、今はそんなことを考えているときではない──
 やっとのことで、そこまで考えついた。
「どうぞ」
 男は横手のドアを押しあけた。
「おそれいります」
 ドアをくぐりぬけると、なんと……一面に花が咲き乱れている。いくつもの色彩が地面を埋めつくしている。まばゆいほどに美しい。花の群を割って細い道のむこうに、昌代のすみからしい家が見えた。
 大きな窓がある。
 磨《す》りガラスの窓だが、窓辺に人が立っているのがわかる。こちらを見ているらしい。走り寄って、
「昌代さん?」
 と呼びかけた。われながら声が弾《はず》んでいる。
「はい」
「田村です」
「お久しぶりね」
「一人ですか」
「最近兄が一緒に暮らすようになって」
 と、意味ありげに呟く。
 昌代は窓に顔を寄せたらしい。うっすらと顔が映る。はっきりとは見えないが、面ざしはほとんど変っていないようだ。
 歓喜が胸に込みあげてくる。
 ──昌代に会えるなんて──
 死の知らせを聞いてこのかた、何度も昌代のことを思った。とりとめのない想像だったが、いつも楽しい空想……。もう一つの、あったかもしれない人生……。
「へんてこな電話がかかって来て」
 事情を説明しなければなるまい。
「ええ?」
「階段はどこにあるんだ?」
「待って。大切なこと、忘れているわ。あなた、車の中で……」
 言われて閃光《せんこう》のきらめきのように私は気がついた。
 いや、そうではない。気づいたというのは正確ではない。大切なものを忘れていながら、それがなにかわからない。そんな感覚に似ている。
 とっさに思い出した。
 ──金のブローチ──
 車の中に忘れて来た。
 それが、なぜこんなときにそんなに大切なのか。
 よくはわからないけれど、「あなたにあげよう」と約束した。昌代は「ほしいわ」と眼を輝かせていた。それを昌代の墓に埋めようと思い、車の小物入れに入れて家を出た。たしかそうだった。
 ──忘れ物は……本当にあれかな──
 不安が胸をかすめる。
 急いでいま来た道を戻った。風のように走った。
 倉庫の並ぶ道。人気のない一画。しかし、すでに四、五人の人影が集まって私の車の中をのぞいている。忘れたのは金のブローチではなかった。
 近づいて私も車の中を見た。
 シートにうずくまって中年の男が一人、息絶えている。私だ。
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