土曜日の昼さがり、茂一は犬を連れて散歩に出た。会社は週休二日制を採っている。ゴルフに行かない日はやることもない。土曜日のテレビは日曜日に比べて見どころが少ないようだ。
いつもの散歩コースを歩き、家に向かう角を曲がったとたんに鎖がピンと張る。犬が走り出そうとする。目をあげると妻の昭子が小走りに寄って来た。
「どうした?」
昭子は跳びつく犬をなだめながら、
「芳雄さんが来てるの」
と眉根を寄せる。
「ふーん、なんだろう」
「あなたにお願いごとがあるんですって」
「金かな」
「そうでしょ」
芳雄は茂一の従弟だが、年齢はひとまわり以上も若い。たしか三十四歳になったはずだ。
「今、なにをしてんだ?」
「そんなこと、私にわかるわけないでしょ」
「そりゃ、そうだが……」
この前、芳雄の顔を見たのはいつだったろう。多分、芳雄の父の三回忌のとき。黒い服を着て、かしこまっていたが、あのときも、
——なにをしてるのかな——
と訝《いぶか》った。
名刺の肩書きには、なんとか企画の係長と書いてあったけれど、どれほどの会社かわからない。
茂一は芳雄の父にずいぶん世話になった。叔父の家に下宿していた時期もある。だから芳雄に対しても弟のような気分が残っているのだが、むこうはどう考えているのか、これもわからない。
芳雄についてはあまりよい評判を聞かない。昔も、今も……。高校を中退し、家には寄りつかなくなった。くわしい事情は聞かなかったが、想像はつく。女と同棲してヒモのような暮らしをしていたときもあったようだ。
「若い頃はいろいろあるんじゃないですか」
茂一は、どちらかと言えば芳雄の肩を持ってやったほうだ。小さい頃はすなおな子だった。茂一によくなついていた。寄ってたかって鼻つまみにしたら、立ちなおるチャンスも失ってしまう。それに……いったん道を踏みはずしても、三十を過ぎてまともになる人だっていっぱいいる。なにがまともで、なにがまともでないか、それだってはっきり言えることではあるまい。名の通った会社のサラリーマンだけがまともということもないだろう。
だが、この判断は少し甘かったようだ。
芳雄について聞こえて来る噂は、いつになってもはかばかしいものではなかった。
茂一の会社に訪ねてきたことがある。
「お金を少し貸してほしくて。かならず返します」
ひどく困っているようだった。たいした金額ではなかった。それから二年ほどして今度は家に訪ねて来た。このときもやはり、
「お金を少し貸していただけませんか。かならず返しますから」
ちょっとした仕事の手ちがいで不如意になってしまったと、そんな話だったが、実情はどうだったのか。二度とも貸したお金は返って来なかった。めったに顔を見せないが、よい暮らしをしているとは思いにくい。
「子どもたちは?」
茂一は昭子に尋ねた。
「まだ学校よ」
「うん」
安堵を覚えた。正直なところ、芳雄の姿を子どもたちに見せたくはない。
「また貸すんですか」
「金額にもよるけど」
昨日がボーナスの支給日だった。
まさか芳雄はそこまで知っていて訪ねて来たわけではあるまいが、少し気味がわるい。蜂が蜜《みつ》のありかをかぎつけるように、お金のあるときがわかるのかもしれない。
「叔父さんに頼まれたからなあ」
死のまぎわに「芳雄をよろしく」と言われた。
「でも……」
「そのわりにはなにもしてやってない。タバコ銭くらいなら仕方ないだろ。それ以上のことは、どの道できない」
「あなたは断われないたちだから」
話しているうちに家についた。
「やあ、今日は」
「ご無沙汰してます」
芳雄は丁寧にお辞儀をした。丁寧すぎるようにも見えた。着ているスーツはわるくないが、表情が卑屈である。顔色もくすんで健康的とは言えない。
「午後の便で北海道へ行くもんだから」
羽田空港はここから近い。だが、それだけの理由で立ち寄ったわけではあるまい。
「今、なにしてんの」
「ええ、会社をぼちぼち……」
と言葉を濁す。それ以上は言わない。
しばらくは世間話を交わした。
芳雄の話しかたは丁寧だが、どこか胡散《うさん》くさい。含むところがありながら下手《したて》に出ているような……。そんな口調が、身についてしまったのだろう。
「茂一さんはエリートさんだから、よろしゅうおまっしゃろけど」
時折関西弁をまじえ、チラッと上目遣いで様子をうかがう。厭な目つきだ。
「なにか用? 急いでるようだけど」
「ええ……。またちょっとお金を拝借しようと思って……。すんません。今度は本当に返しますわ。あてもありますねん」
それを言うのなら、今までの借金について釈明があってしかるべきだろう。それを返さずにおいて、今度は本当に返すと言っても当てにはならない。
「なんで私のとこなんだよ。ありゃしないよ。家を買ったときの借金も残ってるし、子育ても大変だ」
芳雄は�ご冗談を�とばかりに目の前で手を振り、
「いいお宅でんな。三十万ほど、お願いします。恩に着ますわ。一生の頼み、この通り」
と、すわりなおし畳に頭をつける。
三十万は大金だ。とても相談にはのれない。
「駄目だな」
「ボーナスなんかたっぷり出るんでしょうなあ。こちとら、そういうものには縁がないから」
と薄笑っている。
「芳雄さん。まじめな話、三十万円は私が気安く都合できるお金じゃないよ。今までのぶんはもういいから、返さなくて。だから、こんな話、なかったことにしてほしいな。ね、そうしよう」
きっぱりと断わった。
「駄目ですか」
「残念ながら駄目だな」
「困ったなあ」
大げさに眉をしかめる。
「あいにくだったね」
冷たく言い放った。
「どうしても?」
「どうしても」
「そうですか、茂一さんだけが頼りだったんじゃけど」
「サラリーマンも楽じゃないんだ」
「そうは思えませんがね……。ま、そうおっしゃるなら仕方ないわね。じゃあ、ほかをまわらなくちゃならんので失礼をさせてもらいますわ」
思いのほかすなおにあきらめた。気の毒に思ったが、ここで弱味を見せたらいけない。
「わるかったね、役に立てなくて」
立ちあがった芳雄のうしろ姿に告げた。
「まったく八方ふさがりですわ」
「今年の後半くらいから景気が回復するらしいよ。少しはいいこともあるさ」
芳雄がふり返り、妙な薄笑いを浮かべた。
「景気が回復したって、わしらにはなんも関係ないわね。そりゃ、茂一さんたちは日本の景気がよくなりゃ、わけまいをたっぷりちょうだいするでしょうけど、わしら、日本がどうなろうと関係ないわね」
まなざしが冷たい。一瞬、茂一は、得体の知れない気味のわるさを覚えた。
「元気でね」
「あ、どうも」
芳雄はそそくさと立ち去って行く。
「どうでした?」
昭子が心配そうに顔を出す。
「やっぱりお金を借りに来たよ」
「それで?」
「断わった」
「よかった」
「うん。しかし、こわかったな」
「どうして? ゆすられたの」
「いや、そうじゃない。目つきがよくなかった」
「いやねえー」
唇を一つとがらせてからキッチンへ戻って行く。
茂一は縁側に出てタバコを喫った。
——叔父さんはりっぱな人だったのに——
それを考えずにはいられない。
叔父といえば……よく記憶している話が一つある。叔父の家の縁先だったろう。
「犬釘を抜くやつがいるんで困ってしまう」
叔父は話のうまい人だった。身ぶり手ぶりをそえて子どもたちに話して聞かせる。なにげない話の中にも教訓が含まれていた。
あれは……戦時中の大陸……。韓国か中国。叔父は鉄道の技師だった。現地人の中に、鉄道の犬釘を抜き、それを屑鉄屋に売って銭に換える者がいたらしい。
「これには手をやいてなあ。対策が立てられない。大陸の鉄道ってのは、無人の広野を走っているんだから。警備隊ぐらいじゃどうにもならん。線路に網を張るわけにもいかんしな……。鉄道が通れば、みんなのために役立つんだが、自分たちのちょっとした欲望のために犬釘を抜いちまう。こういう不心得が国を発展させないんだ」
大陸の鉄道敷設は侵略手段の一つだったろうから、叔父の言葉が全面的に正しいとはいいかねる。戦後に育った世代はそう思う。いずれにせよ古い話だ。
だが、叔父の言わんとしたことがわからないでもない。犬釘数十本であがなえるものなんて一家の食事くらいのものだったろう。それと鉄道の安全を引きかえにされたらたまらない。国は発展しない。叔父はさぞかしにがにがしく思ったにちがいない。
だが、それは叔父の立場だから言えることでもある。正論にはちがいないが、一つの正論でしかない。正論とは無縁の人たちもいる……。今、茂一がこんな話を思い出したのは偶然ではあるまい。
芳雄のまなざしは、とても無気味だった。見てはいけないものを見てしまったように感じた。
そう、たしかに日本全体が豊かになれば、茂一はそのおこぼれに預かることができる。茂一だけではない。茂一が毎日つきあっているほとんどの人たちがそうだ。実際にそうであるかどうかはともかく、茂一が知っている人たちは、みんな無意識のうちにもそう感じている。
——それは俺たちが恵まれた情況にいるから——
つきあっているほとんどの人たちがそうだから……。だが、国そのものが豊かになっても、そのおこぼれにけっして預かれない人もいる。ことのよしあしの問題ではなく、今までの人生で何度もそういうむなしい体験を味わい、
——国が豊かになったって、俺たちには関係ないさ——
と、心からそう思っている人たちもいる。
つい先日、茂一は東南アジアへ行った。
大勢の貧しい人たち……。高層ビルのすぐ裏手にバラックを建て、痩《や》せこけて暮らしていた。
——国が少々豊かになったとしても、この人たちには関係がないのではあるまいか——
そうあやぶんだ。
芳雄がろくでもない生活をしているらしいのは、もとより彼自身の責任である。
だが、茂一がさっき芳雄のまなざしに恐怖を覚えたのは、
——こいつにとっちゃ国が豊かになることなんか、本当にどうでもいいんだな——
と感じたから……。
——そんなこと、俺には関係ないね——
本気でそう思っていると気づいたから……。
なにをやるかわからない。そんな気配を身近に、たしかに感じたからである。
茂一は少しナーバスになっていたのかもしれない。
子どもたちが学校から帰って来た。
「お父さん、きのうボーナスが出たんでしょ」
昭子から聞いて知っているらしい。
「ううん」
「ねえ、出たんでしょ」
「まあな」
「なんか買って」
「そうもいかん」
遅れて部屋に入って来た姉娘が弟に向かってさとす。
「お父さんにボーナスが出たって、私たちには関係ないのよ。お小遣いがもらえるわけじゃないし」
「待てよ。本当にそう思うのか」
茂一はすわりなおした。剣幕に驚いて子どもたちが父の顔を見つめる。
「だって……」
「家が豊かになれば、かならずおまえたちにも、なんかしらいいことがあるはずだ。いいことがなかったことなんか一度もないだろ。大事なことだぞ。忘れるな。目さきの利益じゃない。家にいいことがあれば、かならずみんなにいいことがある。国にいいことがあれば、かならずみんなにいいことがある。ないはずがない」
これだけはしっかり言っておかなくてはなるまい。教えておかなければいけない。茂一は同じ言葉をくり返しながら一人でうなずき続けていた。