——兄弟の争い
出雲《いずも》大社から西へ下ったところに稲佐《いなさ》の浜がある。稲佐は諾否《いなせ》の変化であり、諾否は字を見ればわかる通り諾と否、つまりイエスかノウかである。
アマテラス大御神《おおみかみ》が高天原《たかまのはら》から送った使者はタケミカズチノオとアメノトリフネの二人。前者はたけだけしい雷《いかずち》、後者は鳥のように速く走る船、名は性を表わし、まあ、陸海の両軍を従えて出雲を脅かした、と考えてよいだろう。出雲の海辺に降り立ったタケミカズチノオはオオクニヌシの命《みこと》の前で剣を抜き、刃を上にして砂に突き立て、その上にドーンとあぐらをかいて……お尻《しり》が痛くないのかなあ、と少し心配になるけれど、そこがこの神様のすごいところ、
「国を譲れ。イエスか、ノウか」
と、直截《ちよくせつ》に迫った。
オオクニヌシの命があらためて侵入者の理屈に耳を傾ければ、
「アマテラス大御神の仰せですぞ。あなたが治めているこの国は、そもそも大御神の子が治めるべきところなのだ。どうかね」
である。態度がデカイ。
——そりゃ、あんまりな——
と思うけれど、背後に強い武力が控えていたにちがいない。オオクニヌシの命は賢い。無駄な戦《いくさ》はしたくない。
「私はなんとも申し上げられません。息子のコトシロヌシに答えさせましょう。今、漁に出ていて、いませんけど」
と、とりあえず即答を保留した。息子もそれなりの立場にあって、オオクニヌシの命の一存だけではこんな大事は決められない。
早速、アメノトリフネが船を出して、コトシロヌシを呼んで来る。この人にも脅しをたっぷりとかけたにちがいない。コトシロヌシはすっかりびびってしまい、
「はい、はい、どうぞ。アマテラス大御神の御子《みこ》にさしあげます」
自分の船を踏みつけて沈没させ、逆手《さかて》にポンと手を打って垣根の中に逃げ隠れてしまった。
タケミカズチノオはオオクニヌシの命に向かい、
「どうだ? ほかに文句を言う者がいるのかな?」
「もう一人、タケミナカタがいます。この子が承知してくれれば……」
これは暴れん坊だ。
交渉を聞きつけ、腕力を誇示するように大きな石を持って現われ、
「なに内緒話をしている? 力比べをする気か? さあ、お前の手をつかむぞ」
グイとタケミカズチノオの手を取って握り潰《つぶ》そうとした。
ところがタケミカズチノオの手は氷の刃《やいば》そのもの、冷たくて痛くて、とても握れない。
「どうした?」
今度は逆にタケミカズチノオがタケミナカタの手を取って握ると、
「あれーッ」
若い葦《あし》を抜くように引っ張られ、体もろとも投げ出されてしまう。
タケミナカタは尻尾《しつぽ》をまいて逃げ出したが、タケミカズチノオがあとを追う。なんと、信濃《しなの》の国の諏訪《すわ》湖にまで追いつめ、命を奪おうとしたが、
「お許しください。私は絶対にこの地から外に出ません。出雲国は大御神の御子に献上いたします」
タケミナカタが平謝りに謝ったので殺されることはなかった。それゆえに諏訪大社の祭神はタケミナカタの神となっている。ずいぶん遠くまで逃げたものだ。
こうなると、もはやオオクニヌシの命も言いのがれができない。タケミカズチノオの強談判《こわだんぱん》を受けて、
「わかりました。この国をアマテラス大御神のお心のままにお委《まか》せします。ただ一つ、私の住まいとして壮大な社をお造りくださいませ。しっかりした土台石の上に太く高い柱を建て屋根の千木《ちぎ》を天に届くほど美しく飾ってください。私は隠居します。私の大勢の子どもたちはコトシロヌシに従ってアマテラス大御神に背くことは断じてありません」
と、全面的な恭順を示した。この願いが出雲大社の淵源《えんげん》であることは言うまでもあるまい。
さらにオオクニヌシの命はクシヤタマという神を料理人にして聖なる皿に山海の珍味を盛って和睦《わぼく》の宴を催す。侵入者と握手してこの国の繁栄を祈念した。
高天原のほうでは、アマテラス大御神が、
——よかった、よかった——
安堵《あんど》の胸を撫《な》でおろし、かねてからの計画通りわが子アメノオシホミミの命を出雲国統治司令官として派遣しようとしたが、アメノオシホミミの命は、
「いや、私は出発の支度をしているうちに子を得ました。地上の国にはこの子ニニギの命を行かせてください」
と願う。父にも負けない俊秀だ。
「じゃあ、そうしなさい」
こうしてニニギの命の降臨が決まった。アマテラス大御神は、
「豊葦原千秋長五百秋水穂《とよあしはらちあきながいおあきみずほ》の国は、これ、吾が天孫の治むべきところなり……」
とかなんとか、私の記憶が確かならば、昭和十八、九年頃の五年生の歴史の教科書の冒頭にこんな文言《もんごん》が載っていたのではなかったか。古事記は伝説ではなく学校で教える公認の歴史だったのだ。幼い私としては、
——ふーん、アマテラス大御神の言葉がそのまんま残っているのか——
と、おおいに感動し、ひときわ真剣に神棚の前で手を合わせたけれど、文字通りの史実と考えるには無理がありすぎる。
話を古事記にかえして……ニニギの命の出発を前にして、アマテラス大御神が下界を望み見ると分かれ道のところで、ピカピカピカ、天上|天下《てんげ》を照らして異相の神が立っている。アマテラス大御神がウズメの命に命《めい》を下して、
「あの人、だれ? なんであんなところで道を塞《ふさ》いでいるのか、尋ねて来ておくれ。あなたは弱い女だけれど、人と顔を向き合わせれば、けっして負けない人なんだから」
と頼んだ。
ウズメの命とは、天《あま》の岩戸《いわと》の前でストリップ・ショウまがいの踊りを踊った、あの女神である。アマテラス大御神が告げた台詞《せりふ》の後半は原文では�い向《むか》ふ神と面勝《おもか》つ神なり�と舌ったらずの言い方だが(そのうえ古文でわかりにくいが)想像をめぐらしてみると、見えてくるものがある。よほどおもしろい顔をしているので顔を合わせると相手が気を許してしまうのか、人間関係の妙を心得ているからなのか、とにかく相手を仕切ってしまい、結果として勝ちを収める、そんなタイプの女性なのだろう。
ニニギの命の降臨は史実かどうかおおいに疑わしいけれど、ウズメの命のパーソナリティにはみごとな現実感がある。こういうタイプの女性は確かに実在するような気がする。
路傍に立つ男神のところへウズメの命が歩み寄って、
「あなた、なにしてんの?」
と問えば、
「私はサルタビコです。天の御子が降臨されると聞いて道案内に参上しました」
それならば、なんの問題もあるまい。
アマテラス大御神は、ニニギの命の配下としてアメノコヤネの命ほか四部族の神を同行させ、勾玉《まがたま》、鏡、剣《つるぎ》、いわゆる三種の神器《じんぎ》を預け、オモイカネの命、タヂカラオの命、アメノイワトワケの命など有力な神々をも副臣として与えた。
「鏡は私だと思って大切に祀《まつ》りなさい。それからオモイカネの命、あなたはニニギの命の知恵袋になって手伝ってあげてね」
「わかりました」
ニニギの命を長とする降臨遠征団は高天原を出発し、八雲の立つ道を押し分け、筑紫《つくし》の東なる高千穂の峰に降り立った。そこから海へ向かい、笠沙《かささ》の御前《みさき》に至り、そこは朝日が射す国、夕日の照る国で、その海浜に上陸、すばらしい宮殿を建てた、と古事記は伝えている。
高千穂という地名は悩ましい。
鹿児島県の北東、宮崎県との県境に高千穂峰がある。海抜一五七四メートル。一帯は、中岳、新燃《しんもえ》岳、御子戸岳、韓国《からくに》岳と頂上を並べて霧島連峰を形成している。一望、神々《こうごう》しさを感じさせる山々だ。
一方、宮崎県の北端にも高千穂がある。ここは高千穂峡がよく知られ、高千穂神社もある。高千穂町もある。このエッセイの第二話で訪ねた岩戸|神楽《かぐら》の里でもある。
高千穂峰と高千穂峡、つまり山と谷、二つの高千穂は直線距離を計っても百キロ余り。同一の地域と考えるにしては少し距離が遠すぎるが、神々は平気なのかもしれない。
しかし同一の地域と考えるかどうかはともかく高天原からの降臨となると、やっぱり高い、高い山の上ではあるまいか。こんな素朴な感情も作用して、
「やっぱり霧島連峰のほうじゃないの、ニニギの命が降りてきたのは」
という意見が、多数を占めているようだ。
まあ、それはいい。
だが、いま引用した古事記の記述は、この先がさらに晦渋《かいじゆう》だ。笠沙の御前は実在する。鹿児島県は薩摩《さつま》半島の南西。この半島は右足のような恰好《かつこう》をしているけれど、さしずめその短い親指の先あたりに笠沙町がある。付近はリアス式海岸だから岬なんかいくらでもある地形である。笠沙の御前はここのどれかだろう。
枕崎《まくらざき》から車を走らせて坊津《ぼうのつ》、大浦、凸凹を作る海岸が美しい。唐の鑑真和上《がんじんかしよう》が五回の渡航に失敗した後、ようようたどりついたのが、このあたりの浜である。
熊本県寄りの吹上《ふきあげ》浜から南に下って来るコースももちろんあるけれど私は南のほうから左手に海を見ながら北上し、野間岬まで行った。漁港市場の脇の道を高台へ向かって登ると電力会社が建てた風力発電の高い塔があちこちに散っている。バラバラに建っている。風車の位置を変え、方角を変え、多様に変わる風の流れを捉《とら》えようとしているらしい。風の強く吹き寄せる海岸だ。それは太古も同様で、それゆえに船の漂着が繁くあった、と考えることができそうだ。
この周辺では二、三か所にニニギの命の降臨を示す記念碑が建っているけれど、野間岬から道を返した帰り道、
——ここが、ほんまもんかな——
きれいに整備された杜氏《とうじ》の里の近くに黒瀬海岸があり、この水辺こそがニニギの命が漕《こ》ぎ着いた�朝日の直《ただ》刺す国、夕日の日照《ひで》る国�の浜、到着のスポットとされているらしい。目前に枇榔《びろう》島が浮かび、いくつかの小島も乱れて、外海の激しさを消している。よい入江を作っている。付近には舞い瀬、立つ瀬などの地名もあって、これはニニギの命の一行が喜んで舞ったところ、立って来し方を望み見たところ、の謂《いい》だとか。
長い海路を経て、ほどよい浜に降り立てば、舞いもしようし、望見もしようけれど、なんで高千穂峰から日向灘《ひゆうがなだ》を抜けてここまで到ったのか、さらにオオクニヌシの命から出雲地方を譲り受けた伝説とどう繋《つな》がっているのか、よくわからない。甲論乙駁《こうろんおつばく》、古来いろいろの説のあるところだが、それぞれ発生の異なる伝承が一つにまとめられた結果ではあるまいか。薩摩半島の西海岸に立つ限り、ニニギの命の来臨には大陸との関わりを想像せずにはいられない。高天原《たかまのはら》は大陸の空にあったのではないのか。
だが、漂着地の探究はこのくらいにして……ニニギの命はここで美しい娘に出会う。
「あなたはだれ?」
「私はオオヤマツミの娘、コノハナノサクヤビメです」
名前が美しい。古代説話を通じてもっとも美しい名前と言ってもよいだろう。
「姉妹はあるのか」
「姉にイワナガヒメがおります」
「あなたとまぐわいたいのだが、どうかね?」
結婚の申し込みである。
「私は答えられません。父にお尋ねください」
これは当然のルールであった。ニニギの命が早速父親のオオヤマツミに訴えると、オオヤマツミはたいへん喜んで、
「はい、はい、はい」
ついでに姉のイワナガヒメも一緒につけてよこした。
ところが、このイワナガヒメが醜い。ニニギの命は一見おそれいってしまい、
——姉さんのほうは、いらないよ——
姉を返し、妹のほうだけを手もとに留《とど》めて仲よく夜を過ごした。
父親のオオヤマツミが恥じ入りながらも抗弁して、
「二人の娘を贈りましたのは、ちゃんと理由があってのことでした。イワナガヒメをそばにお置きになれば、神の御子《みこ》の寿命は石のように堅く、長く続きます。コノハナノサクヤビメのほうなら、木の花が咲くように栄えましょうが、命は短い。そのように誓言をして奉ったのです。イワナガヒメをお戻しになったからには、たとえ花のように栄えても御寿命はけっして長くはありません」
これゆえに今日に至るまで天皇家の寿命が長くないのだ……と、これは古事記が言っているのである。現実には、古事記が書かれた時点でも充分に長い寿命をまっとうした天皇の記録が実在していたはずだが、ときには短命もあったにちがいない。それを慰めるために、こんな運命論的な説明が神話にそえられたのではあるまいか。
が、それはともかく、コノハナノサクヤビメは一夜の契りで身籠《みごも》ってしまう。
——本当におれの子かなあ——
情況を考えれば、男はたいていこの疑いを持つだろう。知らない浜にたどりついて女を求めたら、一人はブス、一人は腹ボテ……ありえないことではない。
ニニギの命が、
「一夜で孕《はら》んだというが、本当に私の子か」
と尋ねると、コノハナノサクヤビメが答えて、
「お腹の子が、ここらあたりの男性の種なら無事には生まれません。無事に生まれたら、それこそが神の御子である証拠です」
きっぱりと告げた。
戸口のない家を造り、粘土《ねばつち》ですっかりすき間を塗り塞《ふさ》いで、さらに火をつけて出産した。火があかあかと燃える中から三人の男子が誕生した。
まずホデリの命、次いでホスセリの命、最後にホオリの命。炎が照って、すせって(勢いを増すこと)鎮まることを表わしている。
三人の息子は、その後どうなったか?
このくだりには史料(日本書紀など)に混乱があり、出生の順序が異なっていたり名前がちがっていたり、なによりも三人のうち二人の運命は詳説されているのに、
——もう一人はどうなったのかな——
釈然としないものが残りかねないのだが、古事記の記述だけをたどって行けば、ホデリの命は海の幸をあさる海幸彦となり、ホオリの命は山の幸を求める山幸彦となった。巷間《こうかん》によく知られている海幸山幸《うみさちやまさち》の昔話だ。私見を交えながら、ほんのあら筋だけを紹介すれば、
「いつも同じことしてるんじゃ、つまらない。道具を取り替えっこしよう。兄さんは山へ行き、僕は海へ行く」
提案をしたのは弟の山幸彦のほうだった。
「いやだ」
三回頼んだのに兄は応じなかった。
現代ならともかく文明の揺籃《ようらん》期にあっては生活のパターンを変えて新しいことに挑むというのは勇気のいることであり、珍しいことであった。早い話、人間以外の動物は特に困ったことがなければなにごとであれ挑戦なんかやらない。たとえば……虎とライオンとどっちが強いか? あははは、彼らはそんなぶっそうな喧嘩《けんか》なんかに挑戦しないのである。それを考えると山幸彦は進取の気性に富んでいた。四回頼んでようやく、
「じゃあ、貸してやる。大事に扱えよ」
と、兄は弟に釣道具を渡した。
弟も兄に山で獲物を捕る道具を手渡したが、海幸彦が熱心にそれを使ったとは思えない。山幸彦だけが海に出て釣りを試みたが、一匹も釣れないばかりか大切な鉤《はり》を魚に取られてしまう。一日が終わり、
「やっぱりおれは海がいい。道具をよこせ」
と兄に言われたが、
「鉤を取られちゃったんだ」
「なに! どうでも返せ」
と怒る。
「ごめんなさい」
いくら山幸彦が謝っても海幸彦はかたくなな態度を崩さない。弟が自分の長い剣を鍛え直して五百もの鉤を作ってさし出しても、千本の鉤を作って弁償しても、
「こんなもの駄目だ。あの鉤を返せ」
と無理難題をふっかける。
意地が悪いだけではなく、自分を凌駕《りようが》しかねない弟にコンプレックスを感じていたのかもしれない。物語の、この後の展開をながめれば弟は女性にももてるし、才能もありそうだし……。
困り果てた山幸彦が海辺へ出てみると、海水をつかさどるシオツチの神が現われ、
「りっぱなお血筋の方なのに、なにを悩んでおられるのです?」
山幸彦が事情を話すと、
「よいことをお教えしましょう。この船にお乗りなさい。海の道を通って海神の宮殿に着きます。井戸の脇に桂の木がありますから、その枝に上がって待っていらっしゃい」
「わかりました」
言われた通り海の道を潜《くぐ》り抜けて宮殿の井戸の脇、桂の枝で待つこととなる。
女が来た。
海神の娘トヨタマビメの侍女が器を持って水を汲《く》みに来たのである。それを見て山幸彦が、
「水をください」
「はい」
と侍女は驚きながらも器をさし出した。
この情景については、青木繁(一八八二〜一九一一)の名画〈わだつみのいろこの宮〉が名高い。日本を代表する洋画家の代表作だ。代表の二乗である。縦長の画面の中央上部にホオリの命が腰をおろし、画面の下側は、右に白い衣裳《いしよう》をまとった侍女、左に薄赤い衣裳を巻いたトヨタマビメが立っている。女たちは水がめを支えて見あげている。名画は歴史的な出会いを厳かに描いて間然するところがない。トヨタマビメの横顔が見知らぬ男性への関心と憧憬《どうけい》を訴えてつきづきしい。明治四十年(一九〇七)の作。今はブリヂストン美術館に所蔵されている。
古事記のほうでは……山幸彦が首にかけている玉を口に含み、侍女の持つ器の中へ落とす。侍女は急ぎトヨタマビメのところへ戻って、
「井戸の脇の桂の上に、とてもりっぱな殿方《とのがた》がいらっしゃいます。玉を器の中にお吐きになりましたが、ぴったりと底にくっついて取れません」
「だれかしら」
トヨタマビメが出て見ると、たしかにすばらしい青年だ。ここでおたがいに一目惚《ひとめぼ》れ。
トヨタマビメは父なる海神のところへ急いで、
「門の前にりっぱな方が見えていらっしゃいます」
海神も外に出て、
「うむ。これは尊いお血筋の方だ」
と、瞬時にして見抜く。
山幸彦は宮殿に招かれ、大歓迎を受け、トヨタマビメとまぐわう。
こうして三年の歳月が流れ、ある日、
「あーあ」
さすがに山幸彦も来た目的を思い出して、大きな溜息《ためいき》をついてしまう。トヨタマビメが目ざとく見つけて、
「どうされましたか」
「実は……」
と、山幸彦は兄との確執を語った。
魚を集めて調べてみると鯛《たい》の喉《のど》に鉤が引っかかっている。
「あっ、これです。長らくお世話になりましたが、これを持って地上に帰りたいと思います」
海神が大きく頷《うなず》いて、
「それがよろしいでしょう。この鉤を兄君に返すときは、うしろ向きになって�貧乏鉤だ�と言ってお渡しなさい。兄君が高いところに田んぼを作ったら、あなたは低いところに。兄君が低いところに田んぼを作ったら、あなたは高いところに。私は水をつかさどっております。兄君はひどいめに遭い、三年で貧乏になります。争いになったら、この潮の満ちる玉を出して溺《おぼ》れさせ、あやまってきたら潮の干る玉を出して生かし、こうして苦しめなさい」
と、玉を二つ贈ってくれた。
鰐《わに》が一日でもとの海辺へ運び戻してくれた。山幸彦が海神から教えられた通り背を向けて兄に釣り鉤を返すと、果たせるかな、三年のうちに海幸彦は貧乏のどん底へ落ち込む。豊かに暮らしている弟を妬《ねた》んで争いとなったが、山幸彦が持つ二つの玉にはかなわない。
「降参だ、許してくれ」
「許さないでもないが……」
「これより私はあなたの配下となり、あなたを護衛するものとなろう」
「よし」
山幸彦は大和朝廷の先祖となり、海幸彦の子孫は朝廷を守る隼人《はやと》となった。
ちなみに言えば〈日本国語大辞典〉(小学館)は隼人《はやひと》の読みを採り、その語訳として、
�古く、大隅《おおすみ》・薩摩(鹿児島県)に住み、大和朝廷に従わなかった種族。五世紀後半頃には服属したらしく、やがて朝廷に上番して宮門の警衛などに当たり、一部は近畿《きんき》地方に移住した。律令制《りつりようせい》では隼人の司《つかさ》に管轄され、宮城の警衛に当たった。また、儀式の際には参列して犬の吠声《ほえごえ》のような声を発したり、風俗《ふぞく》の歌舞などを行なって奉仕し、また竹笠《たけがさ》の造作に従事した。はやと。はいと�
としている。むしろこういう種族が実在していることから逆に海幸彦との関わりが作られたのではあるまいか。
また、これとはべつに日常会話の中で、
「あの人、薩摩隼人だから」
と言ったりするのは、ただ鹿児島県の出身者の謂で、歴史的な意味とは関わりを持たない。
薩摩富士の名で知られる美峰|開聞《かいもん》岳のふもとにある枚聞《ひらきき》神社は名山そのものを御神体とし祭神はアマテラス大御神だ。すこぶる社格の高い神社だが、ここの宝物殿に玉手箱があると聞き、しかも別名あけずの箱とあって、
「えっ、浦島太郎のおみやげかな」
と、もう一つの海の伝説を考えたが、残念でした、秘宝は室町時代の高貴な女性の化粧箱で、国の重要文化財、正しくは松梅|蒔絵櫛笥《まきえくしげ》と呼ぶらしい。箱も美しいが、折しも梅の花の盛りで境内の美しさはなかなかのものであった。
そこから一キロ余り、舗装道路にそって玉の井がある。これぞ信じようと信じまいと山幸彦ことホオリの命《みこと》がトヨタマビメの侍女に会い、さらにトヨタマビメその人とまみえて一瞬のうちに恋情を燃やした、あの井戸である。本当かなあ? 道路の反対側は酒屋さんで、自動販売機が店頭に立っている。周囲の雰囲気はいまいちだが、こんもり繁った並木の細道の奥に古井戸があった。
——あれ、海の底にあるんじゃないの——
と疑うむきもあろうが、案内板は謡曲〈玉井《たまのい》〉を引きあいに出してホオリの命はトヨタマビメに会ってから海底に向かったとも取れる説明になっていた。
——まあ、どっちでもいいか——
遠路はるばる訪ねたむきには少々たわいなく、鼻白むかもしれない。
「こんなもの、見るために来たの?」
と同行の女性が(もしあなたが女性と一緒の旅であるとして)眉《まゆ》をひそめたら、
「じゃあ、こっち」
と、これも近くにあるハーブ農園を訪ねるのはどうだろう。
いろいろな香水を売る売店、ハーブ・ティを飲むティ・ルーム、さりげなく群がっている庭園の草花はみんな香りの素材である。葉を摘んで鼻に寄せると、
「とってもいい香りね」
玉の井よりは点数を稼げるにちがいない。
トヨタマビメがその後どうなったかと言えば……海から現われてホオリの命に申すには、
「身籠《みごも》っております。いよいよ産むときが近づいてまいりましたが、やんごとない御子《みこ》を海中で産むのはよろしくありません。おそばで出産いたします」
波打ち際に鵜《う》の羽を使って産屋を造った。
いよいよそのときが来て、
「子を産むとき女は本来の姿に返って産むものです。覗《のぞ》かないでね。私の姿を見てはいけません」
固く願って産屋に隠れたが、ホオリの命としては、
——どういう意味かな——
不思議に思い、そっと覗いてみると、トヨタマビメは、とてつもなく大きな鰐となって、くねくねと悶《もだ》えていた。
見られたと知ってトヨタマビメは、すっかり恥入ってしまい、
「私は海の底からたびたび通って来て、お務めをしようと考えておりましたのに、本来の姿を見られては、もういけません」
産んだ子だけを残して海中へ帰って行った。
とはいえトヨタマビメは地上が恋しくてたまらず、せめてものよすがとして妹のタマヨリビメを送り、生まれた子ウガヤフキアエズの命の養育に当たらせた。また、ホオリの命に宛て�今でもいとおしくお慕い申し上げております�という意味の歌を贈り、ホオリの命も恋の歌を返した。
ウガヤフキアエズの命は成長して自分を養育してくれたタマヨリビメと結婚して四人の男神を生む。長男から三男までの名前は省略して四男はカムヤマトイワレビコの命、と舌を噛《か》みそうだけれども、これが後の神武《じんむ》天皇である。
古事記は上の巻、中の巻、下の巻、つまり上中下の三巻から成っているが、ここで上巻が終わる。ここまでが言わば神話の時代であり、古事記のもっとも古事記らしい部分と言ってもよいだろう。
神武天皇以降の伝承もまた神話的な要素を払拭《ふつしよく》するものではないけれど、ページが進むにつれ少しずつ歴史に近づいていくのは本当だ。
話は前後するが……古事記の成立は和銅五年(七一二)第四十三代元明天皇の世に太安万侶《おおのやすまろ》が筆録|撰上《せんじよう》したものである。時はすでに天智《てんち》・天武《てんむ》の治世を経て大和《やまと》朝廷は律令国家の基盤を固め、揺るぎない権力を集め始めていた。
古事記には意味深い序文があって、そこに成立の事情がつまびらかに記されている。そもそもの企画は天武天皇の発案から始まり、記憶力抜群の舎人《とねり》・稗田阿礼《ひえだのあれ》が召されてイザナギの命、イザナミの命二|柱《はしら》の頃よりアマテラス大御神を経て今日に到るまでの伝承を暗唱するよう命じられた。それは四十年前の勅命であった。その暗唱を筆写・編集したのが太安万侶で、その記述には漢字以外の表現が不充分であったため、いくつかの困難があったと、大昔の日本語事情が述べられている。稗田阿礼が何者であったのか、男女の区別もはっきりとせず、阿礼が典拠とした史料も散逸しており、太安万侶の編集もなにを採り、なにを捨てたか、欠けている情報も多いのは困りものだが、もっとも肝腎《かんじん》なポイントは、企画立案者の天武天皇が、
�ここに天皇|詔《みことのり》したまひしく、「朕聞かくは、『諸家の齎《も》たる帝紀と本辞と既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふといへり』。今の時に当りて、その失を改めずは、いまだ幾年《いくとせ》を経ずして、その旨滅びなむとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基《こうき》なり。故《かれ》ここに帝紀を撰録し、旧辞《くじ》を討覈《たうかく》して、偽を削り実を定め、後葉《のちのよ》に流《つた》へむと欲《おも》ふ」とのりたまひき�
という事情で古事記が編まれたということである。
いかめしい引用の意味は……いろいろな家に帝紀とか本辞とか言って歴史的な伝承があるけれど、どうも嘘が混じっているようだ。ここで正しておかないと、後々本当のことがわからなくなってしまう。こうした歴史は国家のありかた、天皇制の基《もとい》なのだから、本当の記録を作って後世に伝えようと思う、くらいの事情である。
正論にはちがいないが、語るに落ちるの感なきにしもあらず。古代の歴史書は……洋の東西を問わず、権力を得た者が(時期的には権力がようやく安定し始めた頃に)自分たちの血筋が権力の所持者としていかに正統なものであるか、その由来をもっともらしく、身びいきに作って書き残す、歴史書がその結実であることが多い。冷静な判断も含まれているが、ボールをストライクと見ている部分もけっして少なくない。古事記も例外ではなかった。天武天皇の言葉は、裏を探って勘ぐれば……大和朝廷に対抗するいろいろな家で勝手な歴史伝承を持っているようだが、どうも気に入らない。ここで国家というものが天皇家を基として成っているという真理をきっかりと明文化し、それ以外の考えが嘘だということを後々にまで伝えたい、と読むことができる。
上巻を終えて神武天皇が誕生したが、それはイザナギの命、イザナミの命が矛先で大八島《おおやしま》を造ったときから、いや、それよりもっと前から、言わば天の意志として、ゆるぎない真理として決まっていた道筋なのである。この真理に叛《そむ》くなんて、トンデモナイ。古い伝承は巧みに編集され、おもしろい話もたくさん綴《つづ》られているけれど、読む人をして、いつのまにか、
——なるほど、日本国はこうして成立したのか——
操作された伝承がイデオロギーを形成することを、古い時代にあっても的確に知っていた知恵者が実在していたのである。上巻は、その根まわしと言ってよい部分である。