女帝で終わる旅
——返り咲いた顕宗《けんぞう》・仁賢《にんけん》天皇
のっけから下賤《げせん》な話で恐縮だが、女性に対して次から次へと、あまりにも手広く、すばやく博愛主義を行使すると、逆に子どもには恵まれない、という説が巷間《こうかん》に実在している。
———エキスが薄くなるからなあ———
それかあらぬか雄略天皇は女性関係こそ華やかであったが、御子《みこ》のほうは皇后ワカクサカベの王にはなし。マヨワの王を最後まで守って死んだ豪族ツブラオホミの娘カラヒメとまぐわって男女二人の子をなした、と二人の名だけが古事記に記してある。
その男子シラカの命《みこと》が、父の跡を継いで第二十二代|清寧《せいねい》天皇となる。
この天皇は妻もなく子もないまま没したので、さあ、困ったぞ、だれを世継ぎにしたらよいものか、市の辺のオシハの王の妹であるイイトヨの王が捜しまわった。
折しも山部《やまべ》の連《むらじ》オダテが播磨《はりま》の国の長官となり、この地の有力者シジムのところへ新築の祝いに赴いた。宴たけなわ、みなが次々に舞い踊るなか、火焚《ひた》きの少年が二人、かまどのそばに坐《すわ》っている。
「お前たちも踊れ」
と誘われ、一人が、
「兄さん、先に踊って」
「いや、お前が先に踊れ」
と譲り合う。
やけに大げさに譲り合っているので周囲の者たちが笑ったが、やおらまず兄が舞い、次に弟が意を決したように踊り始めた。踊りながら歌を詠じて訴えるに、
「朝廷に仕える武士が腰につけた太刀《たち》、その太刀に赤い模様をつけ、その太刀の緒に赤い旗を飾り、旗を立てて見てください。もろこしの故事にもあることです。竹の枝葉を押さえたように勢いよく、たくさんの絃《げん》を持つ琴を弾くように勢いよく、天下を治めた、履中天皇、その御子の市の辺のオシハの王の子なのですよ、私は」
一同が色めき立つ。〈殺して歌って交わって〉で触れたように、履中天皇の子、市の辺のオシハの王は、オオハツセの命(雄略天皇)に馬から射落とされ、命を奪われた。市の辺のオシハの王にはオケの王、ヲケの王、二人の幼い息子があったが、いち早く逃れて播磨の国のシジムの世話になり、馬飼い牛飼いに姿を変えていたのである。それがいろりのそばに坐していた二人だった。
長官のオダテは、これを知ってびっくり仰天、床から転げて、二人のそばに行き、人払いをする。二人の王子を膝《ひざ》に抱え、これまでの苦労を聞いて、もらい泣き。仮宮を造って二人を住まわせた。さらに使いを走らせ、世継ぎを捜すイイトヨの王に連絡を取り、都の宮殿へ二人を送った。
さて二人の王子は国を治める立場となったが、それより前に弟のヲケの王が妻を求めようとして歌垣《うたがき》の集まりに赴く。歌垣とは男女が集《つど》って歌い踊る集団見合いのような風俗である。お目当ての美女オオウオがいたのだが、豪族の一人シビの臣《おみ》が邪魔をしてオオウオの手を取っている。
ヲケの王が、どうしたものかと戸惑っていると、シビの臣があざけるように、
宮殿のはしっこが傾いてますよ
と歌った。意味するところは、天皇家はろくな後継者も得られず傾いてますよ、であろう。
ヲケの王が返して、
大工が下手くそなので傾いているんだ
と、これはシビの臣を大工にたとえ、傾いて見えるのは、私(ヲケの王)のせいではなく、仕える者がわるいからだ、である。
シビの臣はたたみかけて、
王様がぼんくらで弱虫だから
家臣が幾重にもめぐらした柴垣《しばがき》のような歌垣に入ることもできずにいるわい
と、この文句は充分に挑発的だ。ヲケの王も負けていない。
潮の寄せくる波間を見れば
鮪《しび》が泳ぎ
鮪のひれのところに私の妻が立っている
と、これは少しわかりにくいけれど、シビの臣を魚の鮪にたとえ、おまえなんか私の妻のそばにいても魚同然だ、と蔑《さげす》んでいるのである。当然、シビの臣は気をわるくして、
王子の館の柴垣なんか
いろいろ結んであるけれど
すぐに切れてしまい、焼けてしまう
ぼろの柴垣だ
つまり、偉そうなことを言うのも今のうちだぜ……。ヲケの王が返して、
大きい魚、鮪を銛《もり》で突く漁師よ
魚がいなくなったら、さびしかろう
なあ、さびしかろう
結局、この恋争いはお前が負けてつらい思いをするだけだ、と歌った。
こんなあざけりあいを夜通しやって別れ、翌朝、オケの王とヲケの王は相談して、
「宮人たちはみんな朝のうちこそ宮廷に集っているけど、昼になればシビの臣のところへ行く。シビに唆《そそのか》されて、なにをやりだすかわからない。早く手を打とう。今ごろはまだシビは寝ている。とりまきも少ない。今をおいて謀り事は成功しないぞ」
「まったくだ」
二人で軍を起こし、シビの臣の館を囲み、この思いあがった家臣を誅殺《ちゆうさつ》した。そのあとで、どちらが天皇となるか、
「兄さん、どうぞ」
「いや、お前がいい。シジムの家の宴席でお前が勇敢に身分を訴えなかったら今日の立場はなかった。おまえの手柄だ。弟が先に、天下を治めて、いっこうにかまわない」
と強く勧める。
「そうですか」
重い腰を上げ、ヲケの王が天皇となった。すなわち第二十三代|顕宗《けんぞう》天皇である。
お話変わって、蒲生野《がもうの》の旅。つい先ごろ私は妻と一緒に足を運んだ。地図を頼りに車を走らせたが、大津で頼んだタクシーなので運転手もあまりつまびらかではない。
琵琶《びわ》湖の東南。八風《はつぷう》街道を走った。もよりの駅は、その名も市辺《いちのべ》、近江鉄道|八日市《ようかいち》線に設けられている。ガイドブックに並べて書いてある万葉の里蒲生野はすぐに見つかった。阿賀神社、通称太郎坊宮に隣接して公園がある。広々とした空地がある。このあたりで額田王《ぬかたのおおきみ》(生没年不詳)が、
あかねさす紫野行き標野《しめの》行き
野守は見ずや君が袖《そで》振る
と詠み、それに応《こた》えて大海人《おおあま》皇子(?〜六八六)が、
紫草《むらさき》のにほへる妹《いも》を憎くあらば
人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
と歌った。万葉集を代表する相聞《そうもん》歌であり、
「三角関係の歌じゃないの」
という声もある。
つまり、額田王はまず大海人皇子の寵愛《ちようあい》を受け、子までなしていたが、そののち皇子の兄の天智天皇(六二六〜六七一)の愛人となった。
そんな時期に関係者一同が蒲生野の野遊びに出かけ、大海人皇子がなにかしら額田王に合図を送ったのだろう。それに対して�あかね色の太陽が美しく射し紫草が匂う御料地で私のほうに袖を振って合図を送るなんて、大胆ね、番人が見てますよ�と額田王が歌ったわけである。大海人皇子のほうはそれに答えて�紫草のように美しく匂うあなたが憎かったら、どうして恋をしましょうか、たとえ、人妻であっても私は恋しますよ�と告げているのだから、これは相当に熱っぽい。
実情は、ジョーク、ジョーク。昔、親しかった二人が充分に年を取り、ちょっと五七五七七で遊んだだけ、と取るのが正しいらしいが、歌そのものは美しく、ロマンチックに響く。
さすがにこの相聞歌は知名度が高く、路傍の雑貨屋で聞けばすぐに万葉の里を教えてくれたが、もうひとつのほうは……つまり、その、古事記に関わりが深い市辺《いちのべ》皇子の墓はわかりにくかった。
線路を越え、二、三百メートル走り、疎《まば》らに民家や町工場の並ぶ道筋に入ると、
——これかな——
柵《さく》の中に小高い土盛りが二つ並んでいる。案内板も立っている。いわく、
�当地に所在する古墳二基は、明治八(一八七五)年教部省によって市辺押磐皇子《いちのべのおしはのみこ》(磐坂皇子《いわさかのみこ》)・帳内佐伯部売輪《とねりさえきべのうるわ》(仲子《なかちこ》)の墓に治定《じじよう》され、現在は宮内庁書陵部の管理下にある。
東側の古墳は墳丘の直径一五メートル、高さ三・五メートル、西側は直径六・五メートル、高さ一・九メートルを測り、ともに横穴式石室《よこあなしきせきしつ》を有する円墳で、古墳時代後期に築造されたと推定される。
日本書紀によると、安康天皇三(四五五)年に天皇が暗殺された後に有力皇子たちの抗争が続き、允恭天皇の子|大泊瀬皇子《おおはつせのみこ》は履中天皇の子市辺押磐皇子を近江|来田綿《くたわた》の蚊屋野に誘い出して殺害し即位する(雄略天皇)。市辺押磐皇子の二遺児|億計《おけ》(兄)、弘計《をけ》(弟)は雄略天皇の追求を逃れて播磨に潜伏するが、やがて都にのぼり顕宗(弟)、仁賢《にんけん》(兄)天皇となる。顕宗天皇のとき、|狭々城山君倭※[#「代/巾」、unicode5e12]《ささきやまのきみやまとぶくろ》の妹、置目《おきめ》の記憶により市辺押磐皇子及び帳内佐伯部売輪の遺骨が発見され、この蚊屋野の地に二つの墓が築かれたという。
これらの記事から、この二つの古墳が磐坂市辺押磐皇子及び帳内佐伯部売輪の墓と定められた�
とあるように日本書紀にくわしく、古事記のほうは情報も少ないし、中身も少しちがっている。が、事件のあらましは一致している、と言ってよいだろう。
主として古事記の記録を追えば……即位した顕宗天皇は父の遺骨を捜させた。すると近江《おうみ》の国に住む老婆が、
「市の辺のオシハの王を埋めたところを知っております。オシハの王は歯に特徴があったから、骨を見れば、わかります」
歯が大きく、一枚の歯が三つに分かれていた、とか。老婆の言うところを掘ってみると、まさしく遺骨が現われ、歯が三枚に割れている。手あつく葬って御陵を造った。古事記では、現在御陵に並ぶもう一つの墓についてはなにも触れていないが、これはオシハの王とともに殺された忠臣ウルワの墓で、日本書紀では歯に特徴があったのはウルワのほうで、上歯が抜けていた、とか。いずれにせよ老婆の記憶により亡骸《なきがら》の埋めどころの識別ができたわけで、
「よくやった、名前を授けよう」
と、老婆はオキメという名を与えられた。
さらに天皇はこの老婆を宮中に召して、たっぷりと褒美を与えた。オキメは、察するに目はしのきく婆さんで、世間の見聞も広かったのではあるまいか。顕宗天皇はしばしば呼び寄せて世間話を聞いたらしい。近所に住まわせ、鈴を鳴らせば、すぐに参上するようにした。歌まで詠んで、
浅茅《あさじ》の生える原っぱや小さな谷を越えて
鈴が揺れ、鈴の音が響き
オキメがもうやって来るぞ
と楽しんでいたが、オキメもさらに年老い、
「もう駄目です。故郷に帰らせてくださいませ」
おいとまごいを言うので、また天皇は歌を贈って帰郷を許した。
オキメよ、近江の国のオキメよ
明日からは、あの山のかなたか
もう二度と会うこともできないようだ
こうして天皇はオキメのほうには優遇をしてやったけれど、
——そう言えば、あのときの豚飼いめ——
幼い兄弟の逃避行のさいちゅう入れ墨をした豚飼いが大切な乾飯《ほしいい》を奪ったことを思い出し、これを捜し出し、飛鳥《あすか》川のほとりで殺した。豚飼いの一族にも罰を与え、これは膝《ひざ》の腱《けん》を切ってしまった。それゆえに、この一族の子孫は大和に参上するときは、ずっと足を引きずったままでおり、また豚飼いの住むところを明らかに示したため、その地を志米須《しめす》と言うようになった……と、なんだかよくわからない。
しかし、ヲケの王、思い返してみれば、憎むべきは豚飼いよりもなによりも兄弟の父を殺した雄略天皇のほう。せめて、
「御陵をこわして目茶苦茶にしてやれ」
家臣を送ろうとしたが、兄のオケが言うには、
「他人をやってはいけない。私が行こう」
「じゃあ、兄さん、お願いするよ」
「うん。待っててくれ」
オケは雄略天皇の墓所に赴き、付近の土をチョロチョロと掘り返しただけで帰って来た。天皇は怪しんで、
「どうした?」
「うん。御陵のそばの土を少し掘って来た」
「父の仇討《かたきう》ちなんだから、もっと墓を目茶苦茶にしなきゃあ」
オケは頭《かぶり》を振り、
「いや、いや。確かに父の仇ではあるけれど、私たちの叔父《おじ》でもあり(正しくは父の従弟《いとこ》)偉大な天皇でもあった人だ。仇ということで墓を荒しまわったら後の世の人のそしりを受けるだろう。さりとて、なんの報復もしないというのではしめしがつかない。形だけ荒して、恥を与えたというわけだ」
「なるほど。それも道理だな」
と天皇は納得した。
顕宗天皇の治世は八年間、三十八歳の、若い死であった。
跡を継いだのは兄のオケ。すなわち第二十四代仁賢天皇である。古事記の記述はこのあたりから急に疎略とはなり、ページを埋めるのはもっぱら帝紀のほうで本辞がない。帝紀とは、だれがだれを娶《めと》ってだれを産んだか、系図的な記述ばかりでエピソードや歌がない。もちろん天皇家にとって系図は血筋の正統性と絡んで(どこまで正しいかはともかく)すこぶる重要な記録だが、残念ながら、そのままでは楽しい古事記にはならない。軽く触れておくに留めておこう。
替って帝位に即《つ》いた仁賢天皇には七人の子があり、王子の一人が跡を継いで第二十五代|武烈《ぶれつ》天皇となっている。
この武烈天皇には子がなく、やむなく第十五代応神天皇から五代下った子孫……つまり遠い親戚《しんせき》の子を迎えて第二十六代|継体《けいたい》天皇とした。
と書くと話は簡単だが、これは古代におけるクーデター的政権交代であったかもしれない。この分野に卓見を持つ歴史家・直木孝次郎氏によれば(たとえば「日本神話と古代国家」〈講談社学術文庫〉など)古代の大和朝廷は、まず第十代|崇神《すじん》天皇のときから権力を顕在化し(それ以前は神武天皇も含めてフィクションとしての王朝だったろう)これが第一期。いったん勢力を衰退させたのち第十五代応神天皇が入婿《いりむこ》の形で王朝に参入して中興、これが第二期。ふたたび衰えを見せたとき越前《えちぜん》地方の豪族が入り込み、これが第二十六代継体天皇で、第三期となる。継体天皇は応神の五代|末裔《まつえい》とされているが、血の繋《つな》がりはむしろ薄く、皇位継承権を主張するための便宜的な子孫であったかもしれない、と判じている。
以後はしばらくこの血筋が続く。継体天皇の子は男七人女十二人。もちろん母親は一人ではない。三人の王子が跡を継ぎ、第二十七代|安閑《あんかん》天皇、第二十八代|宣化《せんか》天皇、第二十九代|欽明《きんめい》天皇となる。
この中では欽明天皇が圧倒的に子だくさんで、治世も長かった。男女二十五人の子があり、四人が天皇となった。第三十代|敏達《びだつ》天皇、第三十一代|用明《ようめい》天皇、第三十二代|崇峻《すしゆん》天皇、そして第三十三代|推古《すいこ》天皇、わが国最初の女帝である。皇位を継承した四人の中では圧倒的に長く強く支配の座にあったのが推古女帝で、いっときは敏達天皇の皇后であったが、崇峻天皇が蘇我馬子《そがのうまこ》に殺されると、そのあとを襲って即位、聖徳太子を摂政としてあつく用い、飛鳥文化を創り出している。六二八年の没。すでにして世は明確な歴史時代に入っており、多くの記録により時代の実像が見え始めていた。おそらく古事記の基となった史料が(本辞はもっと古い段階で、帝紀はこのあたりで)記述を終えていたのだろう。古事記もここで下つ巻を終え、全体を閉じている。日本書紀のほうは、この先第四十一代持統天皇まで扱っているが、これも女帝である。
古事記は物語と歴史が渾然《こんぜん》と入り混んでいた時代の産物であり、民族の、かけがえのない財産であることは疑いないが、歴史そのものではない。遠く離れている。小説家である私は物語としてのおもしろさに注目して、このエッセイを綴《つづ》った。だから読者諸賢は、
——私たちの祖先は、こんなお話を自分たちの拠《よ》りどころとしていたのか——
おおらかな心で接していただきたいと願っている。
そして、もう一つ、信ずるかどうかはともかく、古事記の痕跡《こんせき》は各地の旅の中にも点在している。
——ふーん、これがそうなの——
これまたおおらかな気持で、確かなものは確かな歴史として、突拍子もないものはイマジネーションの産物としておおいに楽しんでいただきたい。そんなとき、このエッセイが役に立てば、それ以上の喜びはない。