天気は快晴。
でも、風が少し出てきていた。これが、問題。
むしろ、雨は降ってくれてもよくて、気分のことは別にしてよほど強く降らない限り、レースに影響を持つのは天気よりも風の方だ。
走り幅跳びのようなフィールド種目や、直線だけの一〇〇メートルと違って、八〇〇メートルはトラックを周回する。国立競技場のように極端に観客席がせり立ったスタジアムでは、風が底でうずを巻いて常に一方向に吹くこともあるけど、たいがいは追い風と向かい風の両方がある。その両方の風向きに合わせた走り方、高度な技術が要求される。
午後の決勝のときには、いまの風がどんな具合に変わってるのかな。
サブ・トラックに向かって歩いていくと、スタンドに山口が来ているのがわかった。赤い服を着ていて目立っていたから気づいた。向こうでもぼくを見つけた、いや、最初から見ていたようで、小さく手を振って、ぼくに合図した。
こういうのって、めんどう。
試合のことは、訊かれるんで、前から話していた。でも、今日は、ぼくは山口には来てほしくなかった。昨日のことがあったから。
ぼくは、走るときには、走ることだけに集中していたい。他のことは何も考えたくない。
サブ・トラックでは、様々なウエア、ウインドブレーカーだったりTシャツだったりランニングだったりの選手たちが、ばらばらの準備運動をしていた。体操をするもの、ジョッグ、軽いダッシュ。みんな自分のからだのことだけを気にしている。
ぼくは、そういう陸上競技が好きだった。
陸上はなんといっても、自分のからだとの対話なのだ。最終的には、結局のところは、レースの相手なんて関係ない。自分のからだを調整して、一〇〇%の力を試合で出せるようにする。そのための準備なのだ。
だから、サブ・トラックにはいつも緊張感がある。ぼくはその選手たちのなかにはいっていくのが好きだった。自分が同じ陸上競技をするものであることが好きだった。
けれど、トラックのアンツーカーは妙に硬い気がした。アップ・シューズのまま五周。からだが重い。
サブ・トラックは一周が三〇〇メートルだから、一五〇〇にしかならない。いつものウォーミング・アップに比べると、かなり短かった。気温が高いから、まあ、いいことにしようか。
五月の陽射しがきつく、ぼくの背中にいやな汗が流れているのがわかった。
トラックの内側、競技場の芝生とは比べものにならないくらい貧弱な、雑草のような草の上にすわってストレッチングをした。両足の裏を合わせて強く膝《ひざ》を曲げからだのほうに引きつける。つま先が額に触れるくらいまで上体も丸めるようにする。股関節《こかんせつ》を柔らかくし、両膝の外側を地面につける。
からだも硬い気がした。シューズの裏にはアンツーカーの人工的な赤い色がべっとりとついていた。
やっぱりね、ぼくには、どうしても頭の中から追い出せないことがある。
昨日もいい天気だった。
試合の前日の練習は完全に各自にまかされている。前にも言ったけど、自分のことは自分で考えるっていうのは、やっぱり、いいスポーツでしょう?
いつも、ぼくは早く上がることにしていた。二〇分間の軽いジョッグ。筋肉に刺激を与えるために一〇〇メートルを二本。それで終わり。レースが翌日にあることに興奮してしまって、こういうときにハードなトレーニングをしたがるのって、ばかげている。試合に疲れを残してはならない。
いつもより早い時間の電車の中は明るかった。駅も明るかった。だから単線の電車との連絡通路になっている地下道が、とても暗く感じられた。階段をのぼると、改札のところに山口が立っているのが見えた。山口は外の光を背にしていて、そのシルエットが浮かび上がる。
電車に乗らないで、海岸に出て歩いて帰ることにした。
放課後に山口と会うのは初めて。そんな約束をしたこと自体、ぼくも高校にはいってから初めての大きな大会に、ちょっと興奮したというか、特別な気分だったのかもしれない。
午後の海というのは、朝とは全然違う。早朝の強さ、鋭さはないけれど、なにか穏やかで、ぼくにはかえって新鮮な気がした。もちろん、初めて午後の海に来たわけじゃない。そういうことに気づいたのが初めてっていう感じ。
それは、たぶん山口と歩いてるからなのだろうと、ぼくにはわかっていた。でも、ぼくは、はいているのが走るためのアシックスのシューズではないせいだと思おうとした。だって、なんか、認めちゃうとね。
JRの駅の近くから家のあたりまで、砂浜をずっと歩いていけるわけではなかった。ところどころに海に流れ込む小さい川がある。幅が広い場合(と言ってもせいぜい三、四メートルぐらい。水量はごくわずかだし、ぼくのロング・ジャンプの実力なら軽く跳び越えられる)には、海岸に沿っている国道にいったんのぼった。小さい流れには、踏み越えられるように石や木が置いてあったりして、ぼくが先に越えてから、山口の手を引いた。
山口は脚が悪い。バランスを崩して、ほとんどぼくが抱きとめるようにもなった。
ぼくは、山口のからだが細いのに驚いた。手を回したときに、制服の上から触れた背骨は、背筋の疲労を気にして自分の背中をさわるときとは、まったく違う。
ぼくは、山口が小さなべつの動物のような気がした。
けれども、ひきあげられたボートのわきの砂浜にすわっていると、山口は、いつもの朝の電車の中と同じ匂いがして、いつもと同じように微笑んだ。
細く長く伸びた半島の向こうに太陽が沈もうとしていた。
山口はちょっとかすれた声で、なぜ陸上競技に詳しいのかを話しだした。それは最初に会った朝以来、なんとなく避けていた話題だ。
山口は、日常の生活には困らないけれど、スポーツをするには脚にハンディキャップがあった。それで、小さいころから足の速い人に憧《あこが》れたのだろう、とひとごとのように解説した。
そして、山口が前につきあっていた相手というのが八〇〇メートルをしていたのだと教えてくれた。
タイムはどのくらいだったの、と、ぼくは反射的に訊《き》いた。これは陸上部の習慣なのだ。〇〇高校の××というあとには必ず、何分何秒、とか何メートル何センチとかがついてまわり、その数字の方に具体的なイメージがある。
山口の返事は、立派な記録だった。高校の三年間のうちにはたぶん達成できるだろうけれど、いまのぼくにはちょっと手が届かないくらいの。
山口は砂をいじっていた。
下を向いて、指の先で砂浜に意味のない模様を描いていた。
「それって……」
ぼくが訊きかけると、山口は、すぐにうなずいた。ぼくのほうを見ないで。
「そう、相原《あいはら》さん」
ぼくは、山口を見ていた。そのまま時間がすごくたった気がした。