男子八〇〇メートル決勝。
この大会は二着プラス二だから、予選の各組の二着までと、それ以外でタイムのよかったもの二名が選ばれる。ぼくは、その最後の二名の枠にぎりぎりですべりこめた。
妹と別れたあと、スタンドにはもどらなかった。山口の相手は妹がしてくれているだろう。それは、ある意味でずるいことかも知れない。でも、ぼくと山口の間で相原さんについて話したって、何になるというのだろう。
彼の身長が一八〇センチで、ベスト体重が六四キロだったことをぼくは知っている。スタンディング・スタートで位置につくときに、右足でトラックを二、三回ひっかくように蹴《け》る癖があるのを知っている。(このスタジアムの、このスタート地点、何番目かのコース、彼がそうするのを山口は目撃しているかも知れない。)
だけど、そんなことを山口にしゃべったからといって、もちろん、彼が生きかえるわけではない。ものすごい月並みな表現だけど。
相原さんは雨の夜に車にはねられ、救急車で病院に運びこまれた。
事故の三日後、相原さんは病室の窓から飛び降りて死んだ。医者は、担当する患者に起こった事件、彼にとっての不祥事となりかねない問題よりも、むしろ大腿骨《だいたいこつ》を折った患者が窓までたどりつき、身を投げることのできた体力に驚嘆していたという。
陸上部の伝説では、相原さんは、自分が二度と走れないと判断して絶望したことになっている。それはあまりに陸上部的な解釈だ、とぼくは思う。真相はわからない。彼は何のメッセージも残さなかったのだから。
いや、真相なんて必要ない。八〇〇メートルを走っていたひとりの高校生、ひとりの TWO LAP RUNNERがいなくなった、それだけのことだ。
世の中には、常に結果しかなく、結果というのは、いつも恐ろしくシンプルなのだ。
そういったことを、今度こそ頭の中から締め出さねばならなかった。ぼくは、レース前に、試合の展開のイメージをつくりあげた。想像の世界では、すでに八〇〇を二度走り終えていた。
そして、実際にその通りに走るのだ。
ぼくの唇には、妹の唇の感触が残っている。それがぼくに勇気を奮い起こす。(本当かなあ?)
スタートだ。
位置について、というスターターの声に右足をラインぎりぎりにつけ、上体を軽く傾ける。四〇〇までとは違って、八〇〇からはスタンディング・スタートだから、「用意」はない。
ピストル。すぐに続けてもう一発。
フライングだ。八〇〇でのフライングは珍しい。たぶん、緊張感に耐えられなくなった選手が、わざとスタートの姿勢を崩して、ラインを踏みだしたのだろう。
ぼくは八コース、予選の記録が悪いせいで一番外側になってしまった。
二〇〇メートルから八〇〇メートルまでの種目は、コーナーでの距離の差をスタートの位置で階段状に調整している。ぼくは、一番前から走りださねばならず、まわりの状況は見えない。選手全員が、ぼくの後ろにいるのだ。
さあ、もう一度、集中力を取りもどさなくっちゃ。スタート位置を越えて逆方向にそのまま腿《もも》を高く上げ、スパイクを強くたたきつけるようにして走る。
しかし、役員が笛を吹き、早く戻るようにと促した。レースの進行が遅れているのかも知れない。
今度は普通にスタート。
アウト・コースで大切なのは、後ろから来るだろう他の選手たちを気にしないことだ。自分の走りのイメージ、大きな走り方をするように心がけてコーナリングをする。
そのまま、第二コーナーを抜けるとオープン・コースになる。少しずつ斜めにインにはいってゆく。ここでペースを乱さないようにして良い位置を確保しなければならない。
ふくらんだひとかたまり。先頭にたっているのは一年の中沢だ。長身なのですぐにわかる。ぼくは四番手ぐらい、一番外に出ていて、三コースの外のラインを取っている。
ペースはやや遅いようだった。県大会で六位までにはいると南関東のブロック大会への出場権が得られるから、記録より順位を目指しているのだ。
第三コーナーで内側にはいる。中沢が加速していて、かたまりが線に伸びる。
ホームのストレートで、ひとりに抜かれた。中沢がなおも前に出て、二位に三メートルほど差をつけている。力強いフォームだ。
でも、コーナーで見ると、肩に無駄な力がはいっているような感じ。気持ちが先走りして、肩からつっこんでいくため、一歩ごとに上体が安定しない。
バックの直線で、急に向かい風が強まる。ぼくは、前の選手について、体を小さくし、強く腕を振る。あと少しは抑えたままでいくのだ。
ストレートの四分の三ぐらいで、ぼくは外へ出て四位と三位の選手をかわす。そのまま加速気味にコーナーにはいり、二位になっていた中沢を抜く。
ここからだ。
ぼくは持っている全部の力を爆発させる。あと、ひとり。
第四コーナーの出口で外にふくらもうとすると、トップにたっているやつも外へ出てきた。ぼくはそのままインの位置でラスト・スパートする。
ところが、トップのやつは身体半分だけおおいかぶさるようにインにはいってきた。抜けない。かといって外へはまわりにくい。
中途半端なまま、五〇メートルほど走り、ゴールではかえって三メートルほどはなされてしまった。
二着だ。
ゴールのラインを走り抜けてから、いったんとまると脚がガクガクして立っていられなかった。優勝した選手が握手をしにきたのにも、膝をついたまま答えた。
最後がもうひとつだったけれど、これはまあ、成功したレースだ。