相原さんが、ぼくとのことを山口に話していたとは思わなかった。なぜ、その可能性をぼくは考えなかったのだろう。
「私はすごく悔しかった。さっき言ったみたいにね、それまでは相原さんが私に嫉妬してたの。それが私の番になってしまって、しかもその相手が他の女ならともかく、男の子だなんてね。どうしたらいいかわからないでしょう?」
山口は、本当に、いまでも悔しい、という顔をする。
「それにね、私とより、あなたと寝たときの方がよかったらしいし」
そう言うと、山口は、ぼくのペニスを両手で包みこむ。暖かい手。それはまるで、そうすることでぼくが相原さんを思い出せるようにと促しているみたい。
ぼくが相原さんと寝たといったって、それはたった一度だけのことだ。そのぼくのしたこと、というか、ぼくたちのしたこと(相原さんはどんなふうに話をし、そして、山口はどのように理解しているのだろう?)が、山口というひとりの女の子を苦しめていたことなど、ぼくには、まったく考えてもみないことだった。
もっとも、当時、ぼくは山口を個体認識していない。
相原さんが女の子とつきあっていることは知っていた。でも、それはそれだけのこと、ぼくには関心のないことだった。いま山口に対して嫉妬の感情を覚えないように、ぼくは相原さんに対しても、彼を独占したいなどとは思っていなかったのだ。
そう、この世の中では、いつだって並行していろんなことが起こっている。ぼくらはそれらすべてに気づくことは不可能だからこそ、安心して生きていける。などと、一般論に還元して済む問題ではない。ひとは「一般」ではなく、その個人だけの一回しかない生を生きるのだ。
というのも一般論だなあ。
とにかく、理屈はともかくとして、ぼくは自分のとった、なにげない行動(すべての行動は「なにげない」!)で、目の前にいる、やわらかくていい匂いのするすべすべした小さな生き物に、悲しい思いをさせたのだ。
さて、前に、ひとがひとを好きになることに、理由などない、とぼくは言った。それは正しいと思う。でも、相原さんを好きになったことを考えると、彼がとても速かったから、とだけは言えそうだ。
夕暮のトラック、コーナーを走る相原さんは美しかった。八〇〇メートル・ランナーとして高いレヴェルにある相原さんの脚には、なにひとつ無駄な動きがないように見えた。
太腿《ふともも》の筋肉はくっきりと浮かび上がって収縮と弛緩《しかん》をくりかえし、足首は恐ろしいくらい細かった。
そのころ、ぼくはまだ短距離から転向したばかりの中学三年生だった。練習のメニューは各自の実力に合わせて組み合わされていたから、ぼくは、相原さんのトレーニングの一部に参加し、あとは休息をとりながら見ていることが多かった。
一緒に走るようなときには、まったくついていけなかった。たまに短い距離、一〇〇か二〇〇のレペティション・トレーニングではせりあえることもあった。そんなとき、相原さんは、むきになって、本気で走り出した。それは、なんという喜びだったろう。ぼくの存在が彼を駆り立てたのだから。
相原さんに話しかけられると、ぼくは嬉《うれ》しくて、うまく返事ができなかった。相原さんは、そんなぼくの気持ちを知っていたのだと思う。彼が誘ったわけでも、ぼくが誘ったのでもない。ごく自然なことだった気がする。でも、そんなこと、山口に言ってみたって。
相原さんが事故で入院したとき、陸上部員は、お見舞いを控えるようにと言われていた。大勢でおしかけるには、もう少し回復を待つべきだとされていたのだ。
だから、ぼくにとっては、彼は突然に消滅してしまったのだ。学校のトラック、走り終わって練習のレースを振り返っては、みんなでくだらない冗談を言い合う。相原さんは笑顔でスパイクのひもをほどいている。その姿に消しゴムがかけられていく。
ぼくには八〇〇メートルがあったのだと思う。
八〇〇メートルを速く走ろうとすること、いつかは彼よりも速く走ろうとすること。相原さんの記録はすでに止まってしまったのだ。それを、ぼくが超える。
山口には、そういうものはあったのだろうか。彼との、あのたくさんの思い出以外に。
いま、ぼくの目に、走っている相原さんの姿はすぐに浮かぶ。彼はよく変わった色のウエアを着ていた。色の褪《あ》せた紫や濃い茶色。それらは相原シャツと呼ばれていた。なぜか思い出すのは、そういうつまらない、ささいなことだ。
だけど、ぼくはそのシャツの背中に浸《し》みる汗を見て走っていたのだ。
「私は相原さんのことをすごく責めたの。あなたとのことよ。事故の日に酔っていて車道に飛びだしたっていうのは、それまで、私と会っていたの。私が殺したようなものなのよ」
さて、ぼくはこの事態をどのように処理したらいいのだろう。心の重荷をさらけだした山口は、これまでになく激しく泣いている。山口の論理の飛躍を指摘することはたやすい。けれど、そういう問題でもないだろう。
裸のぼくは裸の山口を、嗚咽《おえつ》する山口を抱きしめる。
ぼくは山口のことを好きだと感じる。とても好きなのだと思う。
たぶん。