なぜ八〇〇メートルを始めたのかっていえば、それは陸上競技場のせいだ、と俺は前に話したね。雨上がりの日の芝生の匂いがしていた。
でも、今は夜遅く、俺たち三人しかいないスタジアム。
三人?
困ったもんだぜ。伊田とふたりだけだったら、どんなによかったかって思うね。俺がさ、散歩に行って競技場に忍び込もうって、伊田を誘ったら、広瀬のこと呼べって言うんだもの。なーによ、それ。
ハードルのことで話があるんだって。ここで拒否できるほど、俺、まだ伊田に対して強く出られないの。
それでも、夜の陸上競技場はすごかった。
きっと、三人ともそう感じてたんだと思う。フェンスを乗り越えて階段のぼって、スタンドのてっぺんに出た。しばらくね、競技場の中、見下ろして、そこで立っていた。
どうってことはないのよ。これまで、三日間、ここで走ってたんだから。どっちかっていったら、見慣れた場所。
はるか下の、すり鉢の底に四〇〇メートル・トラックがあるだけでしょ。
でもね、だれもいないの。
昼間と違ってね。選手もコーチも観客もいない。人の声がしない。もともと、あたりは山ばっかだから、メッチャ静か。風が吹いてる音だけが聞こえる。
ポツンポツンと離れて、ところどころに暗い明かりがついてて、そのあたりだけトラックのコースを示す白線がぼんやりと浮かんで見えていた。
階段になったスタンドを降りてって、観客席から下に飛び降りた。それで、一〇〇メートルのスタート地点に立ったら、ゴールは闇の中だった。
あの、何も見えないゴールめざして、いままで、たくさんのランナーが走ってったんだなって思った。そして、これからもね。
俺が、そんな柄にもないこと考えてたら、広瀬は、ひざまずいて両手をトラックにつけていた。ゴム製のトラックの温度を確かめるみたいに、じっと長く。
俺と伊田が後ろで見てるのに気づいたのかな、広瀬はその姿勢から倒立をすると、数歩手で歩き、直立したところで数秒しっかりと止め、からだを丸めて見事な前転をしてくれた。
俺は、伊田と広瀬をうながして、予定通り、バック・ストレートの方に歩いていった。水のはいってない三〇〇〇障害の水濠《すいごう》の脇を通り、第三コーナーから直線にかけてのところで柵《さく》を乗り越えた。
ホーム・ストレートは階段の観客席になっているけど、ここは芝生の斜面。
俺、絶対にここで横になるのが気持ちいいって、昼間から目をつけていたの。もちろん、伊田とふたりの場合よ、とっても気持ちいいのは。
なるべく照明から遠い、ひとから見つからないところで寝た。伊田が真ん中。俺と広瀬が外側。
これって、川の字じゃないの。
あーあ。