ぼくは考えてばかりいる。
何も考えないでいられたらって、思うことがある。たとえば、中沢みたいに。あいつは本能だけで生きてるように見えるけど、何か考えてるのかなあ?
優秀な機械にとって、内省は必要ではない。
山口から電話があった。
「うちに来ない? だれもいないんだけど」
ぼくは、行くって答えた。わかった。行く。
山口の提案に対して、ぼくは一度も反対したことがないのではないか、と思う。山口がそうしたいんなら、そうしようかって気がしてしまう。わざわざ、よっぽど困るような理由がない限り。
よっぽど困るような理由なんて、ふつう、ない。
二学期になっても、ほぼ毎日、朝の電車は一緒だった。でも、それ以外に会うのは、これが最初。
だから、ぼくは考えてしまう。山口が何を考えているのかを。
ぼくは伊田さんと二回会ったことを山口に言っていない。妹が山口に話しているとは思わないけれど、もちろん確認はしていない。
ぼくは丘をくだって、また別の丘をのぼる。くだってる時には目の前に海が広がっている。その色は夏に比べてどこか黒ずんで、というとふさわしくないな、少なくとも濃くなっている気がする。ときおり沖で白い波が立つ。
丘をのぼる時には、斜面を這《は》い上がるようにして家が続く先、残された緑のラインの上に空がある。こっちは夏よりもずっとすっきりした透明な感じ。
ともかく、ぼくは伊田さんと寝ることができた。
ぼくは、伊田さんと恋愛していたわけではない。伊田さんのことは好きだけれど、少なくとも、山口を好きなように好きなわけではない。でも、ぼくは伊田さんと寝ることができて、山口とはできない。
結局、恋愛と欲望とは、本来、関係がないのだ。
恋愛と欲望との間には、何のつながりもなく、もともと無関係!
こういう考えは、すごく、しっくりする。ぼくの体質に合っている。
ぼくは、本当は、この世の中すべてのものに関係なんて成立しないのではないか、と感じている。すべてのものが、孤立して、相互の関わりなんてなくて、バラバラに、ただ存在している。
それは、人間だって同じ。
本質的に、ぼくたちは無関係に生きている。接触があったって、そんなのは一瞬のことだ。ぼくも、山口も、伊田さんも、中沢も、妹も、みんな、ひとりひとり、無関係に生きている。
山口が、ドアを開けてぼくを迎え入れてくれた。
茶色のざっくりとした長袖《ながそで》のセーターが、そのまま長くなったようなワンピースを着ていた。ウエストは太いベルトで、きゅっとひきしめてある。
ミニの丈だけれど、よく見なければ、左脚が細いのはわからないくらいの長さ。
ぼくはあらためて山口の美しさに驚く。
玄関でなんとなく顔を見合わせて、ぼくたちはどちらからともなくキスをする。セーターが手にここちよい。
それは久し振りのキスだ。この前に山口の部屋で失敗(?)して以来、ぼくは山口に触れることを避けて、というほど大袈裟《おおげさ》ではないんだけど、そんな気になれないでいたから。
そして、その山口の部屋に上がる。そこは、当たり前かもしれないが、ひと月前と、何も変わっていないようだ。
ぼくたちは、どちらからともなくベッドカバーのかかったままのベッドに横になる。それは山口の電話の時点から決定していたことのような気がする。
ぼくは山口のセーターというかワンピースというのかの中に手を入れる。ストッキングをはいていないから、すぐに手は小さな柔らかい下着に触れる。その上から、そしてその中に。
ぼくは山口に重なり、取ってしまった下着と同じように小さく柔らかい山口のからだをぼくのからだで包み込むようにして、キスする。山口がそれに応える。
突然、ぼくは、ぼくのペニスに力がみなぎるのを感じる。
ぼくは急いで裸になり、急いで、また山口の上に乗る。ぼくはセーターを着たままの山口の脚を広げ、その間にぼくのからだを割りこませる。
ぼくは、山口の中に押し入る。
山口は驚いたようにからだをずり上げたけれど、ぼくが両肩を押さえ力をこめるとリラックスする。やがてぼくの胸に顔を埋める。ぼくが動くことで、ぼくの下にいる山口が変化する。裸のぼくは、服を着たままの山口を抱きしめる。
ぼくは、ぼくのからだと一緒になっている山口が好きなのだと思う。それは伊田さんのときとは全く異なっているのかもしれないし、結局は、同じことなのかもしれない。
結論なんてない、まだ。あるいは、永遠に。
ぼくは、からだをはなした。
少ししてから、山口は手をのばし、ぼくの手を握った。
ぼくも握りかえす。
ベルトのところまで、山口のセーターがめくれ上がって、ふたりの汗に濡《ぬ》れた陰毛が見えていた。ぼくはセーターのすそをそっとのばしてから、ベルトをはずし、すそから手を入れ、ブラジャーをしていない山口の胸に触れる。
山口が小さく笑った。順番が変だからかな?
ぼくは山口にキスする。
ぼくたちは幸せだ。
きっと。
しばらく、そのまま横になっていた。
山口はぼくの耳に口をつけ、
「下に行って、何か飲もう」
と、ささやいた。まるでだれかに聞かれるのを恐れているかのように。
いつもと違って、声がかすれていた。
圧倒的な脱力感におそわれていたぼくは、
「うん」
とだけ短く返事する。
山口が、また、ささやく。
「やっぱり、伊田さんのおかげって言うべきなんでしょう?」
赤ワインを飲むことにした。ぼくは、コルクに金属のリムーヴァーを回転させる。
もうビールという季節ではない。スポーツ選手とは考え方の異なる山口は、アルコールを常飲している。家族も黙認している。ぼくよりもはるかに強い。
冷蔵庫からオレンジを出してきた。
山口は、伊田さんがぼくのことをよく見ているのに気づいたのだという。そして、つきあっても私はいいけど、って言った。
「あなたの電話番号書いたメモをあげたの。かまわないってこともないんだけど、伊田さんならいいような気がして」
と、ベッドで説明してくれたのだ。
「なぜ、ぼくが伊田さんと寝たって考えたの?」
ぼくは、すごくことばを選んで質問した。
「そんなの、あなたの態度で、すぐに気がついたわ」
山口は、ぼくの努力を無視して、年表に出てる史実と同じくらい既定のことのように、あっさりと言った。
「あなたは、いつだって考えてることが全部顔に出るのよ。私にはわかる」
ぼくは、ことのなりゆきにあきれていた。
栓が抜けた。
ぼくたちは乾杯する。ぼくたちの初めてのセックスに。さすがに伊田さんに感謝、などとは言わなかったけれど。
運動のあとで、ワインを飲んで、ぼくは早くも酔いが回ってきていた。
「そうそう、奈央ちゃん、いまごろどうしてるかしら? 中沢君とデートでしょ」
それも、まったく知らなかった。ぼくから見たら、妹は、いつものように遊びに出かけただけだ。
「奈央ちゃん、中沢君て優しいし精力ゼツリンっていう感じでスゴソォって言うから、試してみなきゃわかんないわよって言ったの」
ぼくは、ワインをがぶりと飲んだ。
目の前にいる山口を見る。
「あなただけじゃなくて、中沢君にだっていいことがなくっちゃね」
山口は下を向き、ちょっと、けだるげにチーズを切っている。
ぼくは、これまでのすべてが山口によって創られたことのような気がしてきた。朝、海岸で出会ったこと。そして、相原さんのこと。中沢に伊田さん。
あり得ないことだろうけど、山口と相原さんがつきあっていたというのも、もしかしたら嘘なのではないか、とぼくはそのとき初めて考えた。
ぼくは立ち上がって、山口のそばに行き、キスする。
ワインとチーズの香りのキス。
山口はグラスを手にしたまま、顔をあげてそれに応える。ぼくの舌と山口の舌が、すてきになめらかにすべり、からまる。
すべてが、この山口の頭の中で創られている物語に過ぎなくて、ぼくはその登場人物のひとり。
それなら、それでよかった。
ぼくはすべてを受け入れ、肯定する。