俺は、たぶん長い時間、名刺を見つめていたのだと思う。
女は、言った。
「MSUに関しては、もう、じゅうぶん御存知じゃないのかしら」
俺は首を振った。
名刺には、太い字で印刷されていた。
(挿絵省略)
「慧」は、いいけどさ、その次の「(K)」って?
と、いうことは、もしかしたら……
「いままでの手紙は……?」
「そう、私が書いたの」
女は、うなずく。
「でも、どうやって、俺のところに?」
「方法は、いくらでもあるわ。私たちMSUに共鳴する人々のネットワークは、世界中に張りめぐらされているの」
ホントかよ。
だって、あの、誇大妄想の、俺のことを哲学と科学の天才だとか呼んでた手紙。その筆者だって名乗るやつが言うんだから、めちゃくちゃ怪しい話だぜ。
俺は、手紙を受け取ったときの状況を思い出そうと努力した。
一通目は、入院中の出来事だった。洗面所からもどると、ベッドの枕もとに置かれていたはずだ。
二通目は、この女と出会った日。自分の部屋で着替えるときに、上着の胸の内ポケットに入っているのを見つけたのだと思う。
よし、俺の記憶力は、だいじょうぶ。
第三の手紙は、ドクターにこの病院で診察を受けたあと。アパートメントに帰ると、カバンに封筒が差し込まれていた。
どんな手口だ?
「そんなに考え込む必要はないわ。あなたに会ったときは、私が、直接渡してるんだし」
なぐさめるような言い方。
「でも、あのときは偶然だったはずでしょお。俺はバッグを盗ったやつを追いかけた。それで、そのひったくりからバッグを返されたら、被害者が現われて……」
「あの窃盗行為も、当然、MSUの支持者がやったのよ。あなたの目の前で犯罪を仕組んだの。記憶を喪失してしまったあなたの、倫理性と行動力を試すために」
そう言うと、女はにっこりと微笑んだ。
信じられないぜ、そんなこと。急に言われたって、ねえ。
「そのテストに見事、あなたは合格したわ。まず、ためらわずに容疑者を追跡したわよね。そのうえ、暴力に訴えることなく説得する理性も示した。そのあと、私があなたと性的関係を持ったのは、予定外ではあったけれど」
女は、すらすらと「説明」をする。
「MSUでは、不特定多数とのセックスを奨励しているの。あくまで、参加者の自由意思に基づく場合に限るけれど。そして、男であれ女であれ、自分の性を他者から搾取されずに、任意の価格で売る権利も持っている。たいへんな高額でも、あるいは無償でもいい。だから、そのあたりは、教義上の齟齬《そご》はないのよ。あなたのパーフェクトな肉体もチェックできたし」
よく、わかんねえや。
わからないけど、聞いてて、ちょっと、わかってきた。
だんだん、そんな気がしてきたのよ。これまでのおかしな手紙は、この派手な服の女が書いたんだって。
女は、俺の顔をじっと見てから、こう言った。
「残念なことね。結局、あなたの記憶は、いまだにもどっていない。事故の前のあなたは、どこか宇宙の虚空《こくう》に、永久に消滅してしまったのかしら」
女は、淋《さび》しそうに目を細めた。
そう。
そのことを淋しく思っていたのは、まさに、ここにいるこの俺だった。
ドクターや眉子叔母さん(もちろん、サリナや店長)なんかには、言う気にもなれなかったぜ。そんな、みっともないこと。メソメソした感じになっちゃうもん。
俺は、初めて俺に共感してくれて、理解してくれるひとに出会ったのだろうか。
でも、それが、なんで、会ったとたんに寝ちゃって、しかも、わけのわからないMSUの理事長だとかいう、この女じゃなきゃなんないんだよ。