九月の声を聞き、記録的な猛暑にも翳りが見え始めていた。
県北の草津通信部に単身赴任する前日、悠木は安西の病室を訪ねた。五分だけ二人にしてほしい。そう言って、小百合に席を外してもらった。
悠木はベッドサイドの丸椅子に腰を下ろした。
「よう、来たぞ」
安西は少し痩せたように見えた。瞳の輝きは変わらない。らんらんと。そんな形容が当てはまりそうなほどに生き生きとしている。
ゆうべ、城東町の「ロンリー・ハート」に行ってきた。黒田美波をつかまえて詳しく話を聞いた。上に命じられ、安西が社長のスキャンダルを調べさせられていたことを知った。
「お前、北関を辞めて山の世界に戻るつもりだったんだろ」
「………」
「下りるために登る──そういうことだったんだよな」
「………」
「けど、なぜ俺を衝立に誘った? 俺にも下りろって言いたかったのか」
「………」
「笑ってくれ。俺は下りられなかった。これからも、みっともなく生きていくしかなさそうだ」
「………」
「明日行く。しばらく会えなくなる。お前の本当の気持ち、お前の口から聞きたかったよ。衝立に登ればわかるか? だが、どうすりゃいい。お前がいなくちゃ、俺はとってもあんなところへは登れない」
「………」
「いつか起きるよな。そうしたら一緒に衝立に行こうな」
その時だった、安西の顔に変化が起こった。
悠木は、あっ、と声を上げた。
笑ったのだ。微かだが、確かに安西は笑った。目元や口元や頬だって──。
「安西……なあ、安西! 聞こえるのか? 俺の声、聞こえるのか? 悠木だ。わかるか? 北関の悠木だ! おい!」
物音に振り向いた。
花瓶を手にした燐太郎が入ってきたところだった。
「なあ、安西が笑ったぞ。お父さん、いま笑ったんだ」
燐太郎は嬉しげに頷いた。
「ええ、そうなんです。父さん、最近よく笑うんです」
「そ、そうかあ……」
悠木は安西に顔を戻した。
「きっと治るな。そのうち、ムックリ起き上がるぞ」
「はい」
背後で燐太郎が答えた。
「うん、絶対起きる。安西は不死身だからな」
「はい」
改めて燐太郎を見た。よく日焼けしている。ほんの少し逞しくなったように感じる。声も変だ。そろそろ声変わりするのだろう。
「なあ、今度おじさんと山に行かないか」
「山……?」
「そうだ、ウチの息子も一緒だ。きっと楽しいぞ」
「はい、行きたいです」
「おじさん、月に何度か家に戻れるから、絶対誘うよ」
「はい、ありがとうございます」
「よし」
悠木はポケットに手を突っ込み、仕込んでおいたゴムボールを取り出した。
「じゃあ、その前にキャッチボールだ」
「あ、はい!」
二人で病室を出た。
廊下でばったり伊東販売局長と出くわした。安西の見舞いに来たらしい。
「草津だってなあ」
「ええ」
「いいなあ。温泉三昧かあ」
不思議とネチャネチャした声が気障りでなかった。半分は本気で悠木の草津行きを羨んでいる。そんな気がしたからかもしれない。
「けどまあ、君には期待してたのになあ」
「俺は下りたわけじゃないですよ」
「えっ……?」
「新聞は白紙じゃ出せない。草津の記事で埋めるってことです」
悠木は伊東の細い目を見つめた。迷ったが、やはり言っておこうと口を開いた。
「局長──子供の頃、家は楽しかったですか」
伊東の顔色が変わった。笑おうとして、だが醜く頬が引きつった。
やはり、そうだったか……。父親が女の元へ通いつめている家庭が幸せであるはずがなかった。伊東の心の中にも暗い納屋が存在するのだ。
「安西のこと、よろしくお願いします」
頭は下げず、悠木は先に行かした燐太郎の背中を追った。