ぼくにとってインスピレーションの根源は「死」からやってきているように思われます。ぼくのデザインはぼくの生活や物の考え方が反映した結果です。それらは時には現実の姿であったり、願望や夢を描いていたりすることもあります。だから日頃の言動に矛盾した形で、非常に理想的に美化した世界を描いてしまうことさえあり、このような時は自分自身が大変恥しいと同時に、自らの偽善性に悩んでしまいます。最近のぼくの作品の大部分は宗教色の濃いデザインが多いのも、できるだけ日頃の二律背反したような自分のエゴイズムから解放されたいための願望が、このような作品を生んでいるのですが、ぼくがここでますます聖なる世界を素材にすればするほど現実の自己とのギャップを拡げてしまうという皮肉な結果を作ってしまうのです。だから、ぼくと作品とは切っても切れない関係にありますが、ぼく自身の在り方よりもぼくの作品の世界の方によりぼくは憧れます。
こうした宗教色の濃い作品はぼくの目から見れば、本物ではなく偽物の宗教的世界にしか見えず、ぼくは自分がインチキな人間と思えて仕方ありません。デザインという広い世界にこのような個人的な悩みや考えを持込むということは許されないことかも知れませんが、ぼくにとってはデザインはぼく自身でしかないため、どうにもならないのです。だから、ぼくはどのような仕事を依頼されてもすぐ個人的な世界を描いてしまうくせがあります。
ぼくの作品はぼくの心の理想像であると同時に今日の世界が最終的に到達してもらいたい平和な神の世界でもあるのです。ぼくは神を信じています。しかし本心から信じているのかどうかわからない時があります。もしかしたら苦しい時の神頼みかも知れません。もしぼくが本当に心の底から神を信じているのなら、ぼくには多くの悩みや苦しみがないはずです。しかし、色々と悩みや苦しみが多いことは、やはり、どこかで神の存在を疑っているのでしょうか? ぼくが神を信じているのは理屈の上でのことかも知れません。ぼくは宇宙的なものに大変興味を抱き、また魅かれます。そしていつの間にか宇宙への興味は神への関心に移ってしまったのです。われわれが住むこの宇宙には神が関わっているとしか考えられない多くの事実を発見します。しかし今日の科学はただ単に神を認めようとはしないようです。この世界に起る不可思議な超常現象や奇蹟をできるだけ合理的な方法で解釈しようとつとめていますが、人間が真理を把握しない限りこうした人間の存在を超越した何者かの存在の発見は不可能なように思います。
われわれの大部分は真理を知らず、それに背を向けて生きていくため、常に苦悩の人生を送って、自由をこの現実の社会の中に、つまり自分の外側に求めて終始しているようです。真の自由は真理を知った時から得られ、真理は神の意志と繋《つな》がっており、それは自分の内部にしか存在しないことなどを、ぼくは多くの教典から教わりました。そしてこの神の存在をオカルトの世界において理解することができました。
ぼくの作品はイエス・キリストや仏陀や、クリシュナ神の他にUFO(空飛ぶ円盤)やピラミッド、マンダラ、ヨーガ、禅、そしてアトランティスやムー大陸などの失われた古代文明がでてきますが、こうした素材は全てぼくの宇宙感覚の波長上に並ぶ一連のイメージです。またこれらのイメージは、一方で死後の世界とも関わっています。ぼくは生きることを考えると同時に常に死ぬことを考えています。輪廻《りんね》転生を堅く信じているぼくは、前生のことや死後の世界(霊界)、または来世のことまでをひっくるめて、今の人生(今生)のことを考えます。ぼくの中には仏教の因果の法則が非常に根強く生きています。原因があれば必ず結果があるというこの単純な法則こそ、人生の法則であり、運命の法則であると考えるところからぼくは輪廻転生を信じ、また信念の魔術をも理解しています。信念(想念)はこの宇宙の中でも最も強いエネルギーではないかと思っています。ぼくがたった今ここにいること自体がぼくの過去における想念の結果であり、この今という瞬間が、未来を作る原因であると思っています。だから常にこの「たった今」を最も大切にしなければならないと考えます。
以前のぼくの作品は暴力や、性や、政治や、花形スターなどが入混ざったごった煮のデザインで、こうしたポップアートから受ける影響と日本の前近代的な土着感覚の中で無国籍な頽廃を描いていました。このことは西洋の合理的機能主義のきれいごとにおさまった戦後のグラフィック・デザインへの挑戦と嫌悪の証明でもあったと思います。またこのことは反面ぼく自身の知的コンプレックスや、あるいは田舎者のコンプレックスへの居直り的反動でもありました。当時ぼくは各ジャンルの前衛芸術に最も強い関心を抱き、貧しかったせいもあって政治的にも反体制の立場を取り、世の中の古い概念を混乱させることを目的としていました。またそれと同時に、ぼく自身さえ何が何だかわからない立場に置くことにより、自らを混乱させ、狂気の沙汰の中で唯一孤立した安堵感を求めたかったのです。あの当時のぼくの作品はこうした状況から生れた結果で、今はあの当時の自分や作品が何だか他人のもののように見えます。
勿論当時は現在のような宇宙感覚など毛頭興味なく無神論者の最たるものでした。こうしたぼく自身の変容の最も大きな理由のひとつは交通事故に遭って二年近くデザインを休業したことです。実際四ヵ月入院し、自宅療養の四ヵ月の計八ヵ月の間にぼくはいつの間にか仏教書に取囲まれた生活をしていました。肉体の苦痛や創作の禁欲がこうした書物へ導いて行ったのです。しかし、こうした精神主義的な方向はぼくを以前にも増して苦しめ始めました。今までなるべく自分を見つめることを、避けてきただけに、自らの想念観察は自分自身を完全に解剖するようなものだったのです。こうした作業がいつしか、生とは? 死とは? という難題にぶつかり、今では後に引けないほどこうした哲学的課題の虜になっています。
およそぼくの作品は一口にいって死にささえられながら、やっと生の証をたてているようなものです。ぼくにとってインスピレーションの根源は「死」からやってきているように思われます。死は生を考える以上にぼくの中で重要な要素を占めています。もしかするとぼくは他界に真の幸福を願っているのかも知れません。いずれにしてもこの現実の中で幸せを求めることがほとんど不可能なように思われるせいからでしょうか。ぼくが神の世界や他の星の世界や、または霊界や四次元の世界の風景を描きたくなるのも、よほどこの現実にいやけがさしているからかも知れません。しかし、ぼくがあくまで肉体的存在である以上、肉体のままこのような他次元の世界に行くことは不可能なのです。ところがぼくは肉体の他に魂を持っています。もしこの魂の存在を肉体の価値と同じように考えるならば、魂はもっともっと身近なものとして、いずれは、本当の自分は肉体ではなく魂であるということに気づくはずです。
ぼくの描く世界は肉体的世界(物質現象界)ではなく魂の世界、つまり真の自分[#「真の自分」に傍点]の世界です。だからぼくの作品は魂の風景と呼んでもらってもさしつかえないと思います。もしも本当にぼくが魂の世界と行ききできるようになったなら、今のぼくの作品は他次元というような呼び方ではなく現実、それも真の現実と呼ばれる風景になります。ぼくが今後何回ぐらい転生を繰返すかわかりませんが、ぼくの最後の肉体の人生が一日も早く来ることを切望しています。つまり、輪廻の鎖から解放されたいのです。ぼくが肉体を脱捨てて永遠に神の国に入るようなことがあれば、その時こそぼくは真の芸術家になる時だと思っています。なぜなら神の国そのものが実体であり、芸術的存在であるからです。