人と人との出合いには運命的なものがある。もしぼくが田中一光さんにあの時出合ってなければ、今頃ぼくは一体どのようなデザイナーになっていただろう——と考えることがしばしばある。ぼくにとって一光さんとの出合いは本当にかけがえのないものだった。
初めて一光さんと口をきいたのはぼくが日宣美展に初入選した二十一歳の時だった。自分から名乗り出た時、一光さんはぼくの出品作を覚えていてくれ、「うまいねえ」とたった一言いってくれた。この一言がぼくにとってどれほど自信と勇気を生んでくれたか知れない。
この頃一光さんは神戸労音のポスターを毎月デザインしていたので、当時神戸に住んでいたぼくは一光さんの生《なま》の作品に接することができた。このことはかけだしのデザイナーのぼくにとってどんなに刺激的で興奮に満ちていたか、想像を絶するものだった。この頃すでに結婚していたぼくは女房の友人の紹介で神戸労音の寺井昭子さんを知り、例会の機関紙の表紙のデザインを担当することになった。こうなるとぼくの作品が一光さんの目にとまる可能性が大であり、ひょっとすると一光さんともっと話ができるかも知れないという期待に胸が燃えた。ところがぼくが機関紙の表紙デザインを始めるや、一光さんは突然上京してしまった。ぼくが上京を決心した大きな理由のひとつに一光さんの上京があった。
当時大阪の若手デザイナーの中心人物でもあった一光さんの上京は、関西のデザイナーに最も大きな衝撃と打撃を与えた。関西のデザインの灯が消える思いだった。神戸新聞社に勤めていたぼくは、ここをただちに辞め、一年後に東京進出が決っていたナショナル宣伝研究所に入り、そして予定通り上京し、東京に住居を移すことになった。ところがこの年、上京と同時にショッキングなニュースが入った。一流のデザイナーが総結集する日本デザインセンターの発足である。そして一光さんもこれまで勤めていたライトパブリシティを退社し、この新会社のメンバーの一人になっていた。この時のイメージとしてぼくは日本デザインセンターに入社しなければ将来デザイナーとしての地位が約束されないような感覚に襲われ、何とかしてこの会社に入社したく、このことを暗にほのめかしながら上京、一週間目に一光さんの家を訪ねた。しかしこの日はこの気持が上手く伝えられず失敗に終ってしまった。どうも一光さんが怖くてなかなかデザインセンターに入れてほしいと頼めず、ついに上京一ヵ月のナショナル宣伝研究所を退社してしまった。こうでもすればぼくの気持が伝わるだろうと思ったのだが、このパントマイムがなかなか通じず、一光さんの目にはしごくぼくの態度があいまいに見えたようだ。
ところがまあ何とか、会社にとっては必要もない人間一人を一光さんを初め永井一正さん、木村恒久さん、片山利弘さんなどの大阪勢の先輩の強力な推薦などもあってやっと待望の日本デザインセンターに入社が決定した。しかしこの幸運もつかの間、入社一週間目に右手親指を骨折する羽目に会い、半年タダめしを食うことになってしまった。このことは会社における一光さんの顔に泥をぬるような結果になり、ぼくの内部では一光さんが以前にも増し、ますます恐怖の対象になってしまった。
半年後やっと筆が持てるようになった時、焦燥したぼくに一光さんは京都労音と藤原歌劇団にぼくを紹介してアルバイトとしてポスターの仕事を与えてくれた。また劇団民芸などのイラストレーションを描かせてもらったのもこの時期だった。しかしこれより以前に、上京間もなく神戸労音の「椿姫」のイラストレーションを描かせてもらい、生れて初めて一光さんと共作することになった。ぼくとしては想像もつかない事件だっただけに欣喜雀躍した。
その後も機会ある度に色々と仕事の場を与えられたが、何といってもぼくの作品を百八十度転換させてくれたのは、一光さんが依頼された土方巽のガルメラ商会と名づけられた舞踊のポスターをぼくに紹介してくれたことだった。ぼくはこのことで土方巽を知り、引続いて寺山修司や唐十郎と一緒に多くの仕事をすることになった。もしこの時一光さんが土方巽のポスターをぼくに回してくれていなければ、ぼくは自分を発見するのにどんなに多くの時間を費すことになったか知れない。勿論土方巽の一言一言がぼくの中に潜在する土着性を掘起す作業を助けてくれたわけだが、この時と場を演出してくれた一光さんにはぼくは何と感謝していいかわからない。
一光さんは人と作品に対して非常に厳しく、時には冷酷に見えることさえある。われわれの仲間の多くの人が一光さんを怖がることがあるが、それは何らかの形で自分自身や自分の作品に不誠実である時だと思う。だからぼくは自分自身や自分の作品に誠実である時は一光さんがとても優しい人に見える。だから自分が自分に誠実であるかどうかを計るバロメーターを一光さんに向けることにしている。
一光さんのデザインの特徴は一言でいって「誠実」ということだろう。これらの作品の背景には一光さんのデザイナーとしての社会的責任が非常に大きく支配している。
また一光さんが完全主義者であると思われるのもこのせいかも知れない。一光さんと立場の違うぼくから見れば、一光さんのデザインが余りにもデザイン、デザイン(変な表現ではあるが……)されているところがぼくを拒否するが、しかし、デザインとは本来このようなものかも知れない。
一光さんのデザインは燈台の灯のように、航路を誤ったデザインをいつも正しく導く役目を果しており、ぼくなんかもいつも一光さんの灯が見える範囲内で航海しているが、時には暗黒の海原に流されてしまうことがあると、あわてて一光さんの燈台の灯の見えるところまで引返してくることにしている。一光さんがある限りぼくはいつも安全だ。