ぼくは今、「宗教」という非常に現実感のとぼしい形骸化された無用の長物といわれているものに対面している。この「宗教」という言葉はある人々には憎悪と敵意を、しかしまたある人々には絶対的な価値として迎えられており、なぜこのように「宗教」が両者を分裂させ、そして対立させているのだろう。
そこで一体ぼくはこの「宗教」というものと果してどのようにかかわっているのか、あるいは無関係なのか、そのへんのことについて少し考えてみようと思う。
ぼくが初めて「宗教」を経験したのはやはり両親からだったと思われる。ぼくの家には至る所に神仏が祀ってあって、それらを両親は朝晩熱心に祈祷していた。祈願は大抵「家内安全、商売繁盛」そしてぼくの「学業向上」と「立身出世」がその主な内容だったようだ。また「神」についての概念は、日本にいずれ神風が吹いて第二次世界大戦の勝利をもたらすという教訓を受けていた。このことは事実敗戦色が濃くなった時期でも非常に強い信念としてぼくの頭の中にあった。だから終戦と同時にぼくの中からも国民の中からも「神」の存在は永久に消えてしまったのではないかと思われた。
しかしぼくの両親はそれでも依然として信仰の手は休めようとはしなかった。そして六十九歳で脳溢血で死んだ父も、七十四歳で膵臓癌で死んだ母も死の床まで神仏と共にあったようだ。特に癌に巣くわれた母の最期は壮烈なもので、彼女の信仰と裏腹に神仏の存在さえ疑わしいありさまだった。だからぼくが神を考える時、ぼくはいつも母の最期を想像して首をかしげてしまうのだ。一体母にとっての信仰は何であったのだろうと。母に限らず、信仰者の答は常に死の床で結論がでるような気がしてならないのだ。客観的には母は確かに地獄の責苦を味わっていたとしか考えられなかった。しかし、ぼくの知らない母の内部では全く別の事態が起っていたかも知れず、その証拠に母の死顔は母の若かりし頃を彷彿させる美しさがあった。ぼくはこの母の死顔を見て、母が御仏のもとに嫁がれていったように感じ、せめて心が救われたような気になった。
しかし、その後母が一度ぼくの前に幽霊の姿をとって現れたり、霊聴を囁いたり、またしばしばぼくの夢の中に幽霊として現れ、自ら写経を書いたりするビジョンを見せられるに至っては、あの美しい死顔を残して逝った母がなぜ成仏できなかったのかが、ぼくには理解できなかった。「チベットの|死者の書《バルド・ソドル》」によると死から再誕生への中間状態《バルド》に死者は自らの体を探求め、体への欲望が捨切れないためいつまでもバルドから解放されない魂のあることを告げているが、幽霊としての母はまだこのバルドに留っているのだろうか。死後母は、自らのカルマによってこのバルドを経験して、再びこの現世に帰ってくるはずだ。
母が癌で死ななければならなかったのは母のカルマの結果とすることはとても残酷なことになるのだが、このことは宇宙原理としてほぼ過ちがないようだ。母の長年にわたる熱心な信仰の結果があのような苦渋に満ちた死とすると、何か母にとって信仰が真の信仰と結びついていなかった部分があったのではなかろうかと疑問を持ってしまう。確かに母は数知れない悩みを抱き、それ故に宗教を求めたのかも知れない。しかしそれは母の死の瞬間まで問題は未解決のまま魂の中に記憶されてしまったのではないだろうか。もし母が神仏と一体化する想念に反する負の想念を潜在意識に抱いていたとすると、それはカルマの法則に従って負の結果を起すことになるだろう。母の生き方を見ているとぼくはどこかに信仰の非論理的な部分で負の働きが起っていたような気がするのだ。母は想念のエネルギーが宇宙的力の場において正負両極に平等に働きかけるという原理に気づかず、信仰を単なる形式と考え、潜在意識にはより強烈な負の想念を抱続けていた可能性が伺えるのだが、このことは母に聞いてみなければわからない。
ぼくが母の死から学んだことはやはり運命的なカルマの法則が人に大きく作用しているということだった。この原因結果の法則が母に作用したと同じようにぼくにも作用しているはずだ。しかしぼくの一生を決定する巨きなカルマはぼくが前世を記憶していないためその因になるものが判らない。ヨーガにはこのカルマを離脱する力が解かれているが、これは容易なことではない。カルマの法則が少しずつ判ってくると自分の存在は全て己にかかっており、今日の自分は昨日の反映であり、明日の鏡ということになる。だから幸、不幸さえも自らが蒔いた種ということになり、これを摘むのは他ならぬ自分である。
しかし、生れたばかりの幼児や、子供の不幸は一体どのように考えれば納得いくのだろう。多少占星術に興味のあるぼくは自分の天宮図を作成してもらい、それによって自分の大まかな運命を知ることができた。これによるぼくの過去や性格はかなり当っている。未来についてはまだその時が来なければわからないが、ここで不思議なことにぼくが予感する自分の未来図がほとんどそのまま示されていることだ。これは一体どういうことだろう。この疑問にぼくは一つの解答を得ることができた。それは未来はすでに決定しており、それ故にぼくは自分の未来のビジョンを薄々予知している結果ではないかと思うのだ。生年月日と時間、そして生誕場所によって計算するこの古代科学ともいうべき占星術が、なぜぼくの半生をこんなに正確に言当てるのだろう。過去のデーターの正確さは、ぼくが万一自分のカルマを解脱し、運命の路線のレールを敷きかえない限り、過去と同様ぼくの未来は天宮図が示す通りに確実に実現することになるだろう。
しかしもし人間の運命がこのまま天宮図に従うなら、あまりにも味けなく人間の自由意志は一体どうなるんだということになり、人生の目的さえつかめなくなってしまうではないかという疑問にぶつかるはずだ。もしこの宇宙に絶対的な至上なるものが存在している限り、それを万物の創造主、あるいは神、または宇宙根本原理といえばいいのか——それは人間の自由意志と結合されるものであると思う。だからこの自由意志が至上なる存在と一にする時、ぼくはその人のカルマには何ら影響されず、彼の自由意志による行為全てが善に働き、この宇宙をわがものにできるのではないかと考える。そして彼は自分の運命を自由自在に操り、自らの運命の主人公となるだろう。
そしてもし人がこのことを望むなら、ここに何らかの形で「宗教的なるもの」の介入と存在を受入れなければならないのではないだろうか。このぼくがいう「宗教的なるもの」とは世間でいう「宗教」とは異なり、彼に内在する宇宙意識との統一による実在の知覚をいうのだ。ドラッグの経験者であれば大抵このインスタントによる実在感を体験しているはずである。確かにこの状態は一種の解脱であり超越的境地にあるわけだが、この体験は限定された時間内での「悟り」で、決して永遠のものではなく、ここにはその後における魂の浄化や進化は全く望めない。ところが、ぼくの内部ではどこかこのドラッグ体験と「宗教的なるもの」がかすかに重りあっていた。
数年前ニューヨークで初めて体験したLSDによってぼくは至上なる者との統一|幻覚《ビジヨン》を見た。これに伴い各種心霊的体験も起った。また肉体意識の喪失感、時間、空間観念の破壊、意識内|瞬間移動《テレポーテーシヨン》、離魂現象、非物質の物質化などの現象も矢継早に体験しなければならなかった。この体験からぼくはこの現象界とあきらかに隣合せにあるもうひとつの異次元世界の存在を知った。そしてこの別の世界は、ぼくがふだん知覚している現実感をさらに凌駕《りようが》する生々しい現実であったことも事実だった。むしろこの世界を現実と呼ぶべきではなかろうかという疑問がぼくの中に起った。この明確な実在感の前では物理的現実は、色褪せた幻の世界、虚の現実としか映らなかった。するとわれわれは常に他次元の影である現実を真の現実として知覚しているという大きな錯覚世界に生きていることになる。またぼくはこの物理的現実と心理的現実との両側に立った時、ぼくは初めて狂気を体験した。他次元の記憶をそのままこの現実に持帰った時そこに初めて狂気的世界が出現するようだ。
それは全く悪魔《サタン》的世界であり、自由意識を剥奪された宙ぶらりんのどうにもならない状態といえる。
そしてこのドラッグの世界があまりにも「チベットの死者の書」にそっくりなことにぼくは驚いてしまった。非幻覚体験者はこの書を読んでも恐らく正しく理解することは不可能ではないかと思う。LSDはそういった意味では意識が拡大された状態を示しそこに真の現実《リアリテイ》の在ることを教えてくれるが、再び覚醒した時には体験以前の現実よりはるかに色褪せた脱落したような現実の中にある自分しか発見できない。それは回数を重ねれば重ねるほどこの現実が虚構としてしか存在しなくなってくるはずだ。
ぼくは再びここで「宗教的なるもの」と出逢うことになる。LSDによる神秘体験はぼくの内なる神への呼びかけの糸口になったことは確かである。この体験により、ぼくはさらに人が宇宙的存在であることをより強く認識することができた。そしてこの体験はすさまじいばかりの自我《エゴイズム》との葛藤だった。白昼に晒けだされたぼくの眠れる自我はその檻を破って欲望の牙を剥き出し、虚飾のぼくに襲いかかってきた。しかしそれは疑いもなく真実《ありのまま》の自分の姿だった。ぼくはこの真実の自分を必死で見つめようとしたが、それは何と悲しく、また侘しく、そして哀れな姿だったか知れなかった。この欲望の化身となった自我を観察していると、ぼくは次第に落着きはらってきた。そして次の瞬間ぼくの内部から噴出する非常に大きな喜びに思わず恍惚としてしまった。ぼくの内部で何かが崩れ、そして何かが誕生するという喜びであった。これは「宗教的」体験ともいえるものだった。
この体験があって二、三年後からしばしばぼくの夢の中にマリヤ像やキリストや仏陀、そして聖者が現れるようになった。このころぼくは、さかんにいろいろな聖典を読んでいたので、こうした日常生活が夢に反映したと思えるのだが、この種の夢に関しては不思議な現実感を伴い、その日一日中ぼくは何ともいえない平和な気分を味わうことができた。またこうした霊夢的なビジョンからぼくはぼくを取巻く終末意識を予感せざるを得なかった。またこのころから空飛ぶ円盤が連日のごとく夢の中に現れ始めたのも単なる偶然ではないような気がしてならなかった。ぼくが最初空飛ぶ円盤を目撃したのは十代のころだった。しかし当時はそれが一体何物であり何を意味するものか全く理解できないままでいた。ぼくが空飛ぶ円盤に強い関心を抱くようになったのは夢がその原因だった。アダムスキーの書物を読むようになったのはそれから少し後からであり、空飛ぶ円盤が人類に好意的であり、また円盤搭乗者達が非常に知性の優れた人類であると同時にわれわれ地球の科学をはるかに凌駕していることを知り、彼等が聖書に現れた神々エホバではないかと想像し始めたが、このことは多くの円盤研究者たちの間でも問題にされているようだ。聖書によるとエホバは人類の創成時代からわれわれを観察し、そして何らかの方法で援助と指導をして現代に至っているようだ。またぼくは、三百六十万年前に金星から火車でこの地球に降誕したというサナート・クメラが今なお地球内部のシャンバラなる地底王国に棲んでいるという伝説になぜか強く魅かれるし、あながち否定することはできないような気もするのだ。というのも一万二、三千年前これまた伝説のムーやアトランティス大陸が大洋深く沈没した時、彼等の古代科学は現代のそれとは比較にならず、すでに現代の空飛ぶ円盤に匹敵する乗物を所有して、その国の僧侶や科学者だけが地球内部に通ずる洞窟からシャンバラに入り、そして今なお超人《アデプト》として棲み、地表の人類の精神的指導をするために超科学的な方法で日夜活動していると聞く。そして彼等の所有する空艇は、すでにわれわれがしばしば目撃する空飛ぶ円盤の一部かも知れない。ぼくの考えでは円盤は地球外惑星とそしてシャンバラを首都とするアガルタ国からの訪問ではないかと想像するのだ。またシャンバラは実在することはするのだろうがおそらく三次元的世界ではなく、もっと高次元|振動率《バイブレーシヨン》の世界に存在し、それはわれわれの高い意識層のアストラル体においてのみしか立入ることは許されないものと考える。だからといってシャンバラが存在しないという風には否定できないはずだ。われわれの日頃知覚する世界は最も低い振動率の世界であり、たまたまこれより高い振動率と波長を合せた人が、神や天使を、また心霊現象、あるいは特殊な状況[#「特殊な状況」に傍点]の円盤さえ目撃することになるようだ。人々はこの現象を客観的に奇蹟と呼んでいるのではないだろうか。
ところがわれわれは幸いにしてほとんど毎夜奇蹟に立合っている。それは夢においてである。夢の中では人は超能力者である。瞬間移動《テレポーテーシヨン》から他の動物や植物に化身さえでき、時には死の瞬間さえ体験でき、場合によっては啓示を受けたり、未来を予知したりもできる。つまり肉体意識から離脱し、真《まこと》の自由人として宇宙全域において行動できるはずだ。数年前から夢日記を書いているぼくはかつても古代人がしたように、この無意識の世界にぼくの心の教師を見つけることに現在何らかの意味を求めている。
ぼくが霊夢を見る時は、いつも道徳的倫理的な問題に引っかかっている時だった。そしてこの夢がある決意を促す結果にもなったようだ。ぼく自身自分の周辺に「宗教的」な環境を作上げようと計画したが、いつも何か世俗的な欲望の自我がぼくの計画を邪魔しようとした。宗教書をかじりながらもどうも顕教《けんぎよう》だけでは心の底からの道徳的倫理観というやつはもうひとつ実行できない何か偽善的な矛盾に常に悩まされていた。ぼくが先ず最も悩まされた煩悩のひとつは情欲だった。これさえ断切ることができればぼくはぼく自身がもっと自由になれると考えた。こんなある日ぼくは夢の中で光り輝く一人の老人に逢った。そして彼は強くぼくに情欲を抱くことを戒めた。この夢は、後にぼくを情欲の虜から解放してくれる最も大きな理由のひとつとなった。
そしてやはりぼくに道徳、倫理を強いたもうひとつの存在がある。それは空飛ぶ円盤だ。ただ単に夢に現れる円盤であったが、彼等はいつもぼくの想念観察をしているような気がしてならなかったからだ。しばしば現実に目撃する|UFO《未確認飛行物体》が円盤である場合もあったからだ。夢の中からと円盤の中からと、この両者の視線を感じるようになってからのぼくは常に自分の想念観察を始めるようになった。粗雑な自我をひとつずつチェックしながら出来るだけ単純《シンプル》になることを理想とした。このこともすでに、ぼくにとっては「宗教」の始りだったのかも知れない。
こうした行為と同時にぼくの作品も現実的なものから、「楽園→インド→宇宙→神」という具合にイメージが固定してきた。しかしそれより以前に一九六七、六八年、サイケデリック・ヒッピー・ムーブメントの最盛期のニューヨークとサンフランシスコの旅行がぼくの意識を大きく変えるきっかけになった。ここでのサイケデリック体験は、ぼくにロックとインド指向、そしてオカルトへの関心を決定的なものにした。初めて聴いた「クリーム」の生演奏、ラビ・シャンカールやアリアクバ・カーンのインド音楽、そしてラダ・クリシュナへの興味、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーのフラワー・チルドレン達の自然讃歌などがぼくを呑込むように変えていった。この年の数ヵ月のアメリカ生活には目に見えない大きなカルマの力がぼくに作用しており、来るべくしてアメリカに来ていたというより他に理由はなかった。
後にぼくは交通事故に遭い四ヵ月の入院生活の後、二年間の休業という形をとって再び目的のない海外旅行に出るのだが、この休養のきっかけになった事故にしても大きなカルマが働いていたとしか考えられない。アメリカでのサイケデリック体験が下地になっていたこともあり、この間の肉体的苦痛がぼくをいよいよ強く「宗教的」な方向に導く結果になった。最初は禅への興味が強かったが、次第に密教に関心を抱始め、さらに、この辺りからヨーガへの異常なる力に引かれ始めている自分にどうすることもできなかった。それにはビートルズの「リボルバー」が口火を切り、次にグリニッチ・ビレッジにおけるラダ・クリシュナ寺院への接触、ラビ・シャンカールとアリアクバ・カーンの二人の奏者、そしてマハリシ・マヘシュ・ヨギやスワミ・サッチダナンダ、グル・マハラジ、ヴィヴェーカーナンダ、ヨガナンダ等の聖者の他に、クリシュナ・ムルチイや、リバイ・ドーリング、さらにM・ドーリル等の教えによるところが多く、次第にぼくは「インド」から呼ばれているような気になっていった。このことは無理に理由をつけるならやはり運命的なカルマの作用としかいいようがないだろう。
ぼくが「インド」を自分の作品に現した最初は、一九六八年に出したエッセイ集「一米七〇糎のブルース」の背表紙のヒンズーの女神だった。そして二度目は、三島由紀夫氏の割腹自殺の直後出版された、氏の「薔薇刑」の畳《タトウ》の内部だった。このような形でぼくは自作の中に次第に「インド」を取入れ始めた。そして一九七三年、「聖シャンバラ」の版画シリーズ、七四年のダンテの神曲とタントラの結合でできた「クリアー・ライト」のシリーズと進んできたわけだが、この創作行為はぼくにとってのヨーガへのアプローチであると同時にそれは瞑想《メジテーシヨン》でもあった。
過去インドへの旅は再三計画されながらそれらはいつも出発寸前に障害が起り、中止になってしまった。だから昨年の暮から一月にかけてのインドとネパールへの旅はぼくをどんなに喜ばしてくれたか知れない。今回のインドへの旅でぼくの心の垢の一部が流されたような気分で、旅行中常に高揚していた。前世からの因縁か、それとも来世への繋がりか、とにかくインドとぼくは深い絆で結ばれているような予感がしてならない。インドはぼく自身の宇宙の焦点であり、ぼくの「宗教」の核でもある。そしてこの母なるインドはヨーガという宇宙の根本原理をぼくに授けてくれた。
ラージャ・ヨーガを始めて間もないが、ぼくの内部ではいい知れぬ感動が起り、巨きな「宗教的なるもの」へ焦点を絞始めた。このことをぼく自身の第二の誕生として予感されるだけの信念がぼくの背後で大きく脈打っている。朝夕の瞑想は明らかにぼくを超越存在の領域に送る何らかのエネルギーが作用を始めていることを薄々知ることができる。現象界の粗雑な状態は微妙な状態へと変質しながら、存在へと進行するのだろう。この時、万物は我がものとなり、人は宇宙と共にあるだろう。この大いなる存在を、単なる「宗教」と呼ぶにはあまりにも宗教の概念の器が小さ過ぎる。自らが宇宙的存在になれば「宗教」のための宗教はもはや不必要だ。「宗教」という言葉が存在する限り「宗教」は存在しない。ヨーガは「宗教」を超越した人間科学として、古代の超人《アデプト》を生んだ古代科学である。
ぼくはヨーガに早くから目をつけながら、それを始めるのに余りにも躊躇し過ぎた。というのもヨーガにおける禁戒《ヤーマ》と勧戒《ニヤーマ》を征服してからでなければヨーガに入れないと考えていたために、随分無駄な時間を浪費してしまった。つまり禁戒《ヤーマ》と勧戒《ニヤーマ》の二つの道徳的戒律を解決しなければ一歩も前に進まないと考えていたからだ。だから前にも書いたように煩悩の問題の解決にぼくは余りにも時間を使過ぎてしまったのだ。人間の欲望なんてそう簡単に頭で考えたぐらいじゃ解脱しないものだ。瞑想の実践の中で自然に禁戒と勧戒が溶解していけばいいのだった。
しかしヨーガはその人に最もふさわしい時期が到来しない限り、それをスタートすることは困難であり不可能なことだ。そしてヨーガはその人のカルマによって押進められて行くものかも知れない。幸いぼくはぼくの占星術によってスタートのタイミングを知ることができたような気がする。そしてぼくが次に求めるものはぼくの導師《グル》だ。果してぼくはぼくの導師と出逢うことができるのだろうか。心細い気がするが、その時はぼくの導師になるべき導師をはっきり決定する運命的な瞬間を逃さないようにしなければならない。この時期がいつであるかぼくは知らない。それまではぼくの導師はぼく自身でなければならないと心に決めている。
ぼくが人生の後半からヨーガの道を選ぶことになった数々の理由の中でも、最も深く関わってきた問題は両親の死後常につきまとっていた死の恐怖だった。そしてでき得ることなら死を避けたいと願うようになった。この頃の考えは多分に唯物的だったが、後に考えは次第に変り、われわれの生命は永遠の海の中に生かされていることを多くの事柄から知るようになったが、真の自分は肉体ではなくその内部に存在する魂であるという考えは頭では理解できてもなかなかその実感が伴わなかった。しかし深い瞑想に入った時しばしばこの実感を体験する。こんな時自分の存在はより固有のものになり、時間、空間を問わず万物全てが自らの支配下にあることを観想し始めるようになった。
自分を取巻く世界を知るためには、自分が何者であるかということを先ず知らなければ、この世界と自分の関係の謎は解けない。自分自身を知ることはこの宇宙の神秘を知ることであり、人が宇宙的存在であることを認識する瞬間、われわれは神意識にあり、真の実在を獲得し得るはずだ。「宗教」がもし存在するならば、この実在を「宗教」というのかも知れない。世間でいう「宗教」は、すでにその歴史的役割は終っており、ただ形骸だけが横たわっているだけだ。
われわれの時代と世界は、こうした過去の「宗教」ではなく、もっと別の「宗教」を求めているはずだ。物質的存在が「宗教」の役割を果してくれなかったことも悟った。今われわれは全く新しい形の精神的ルネッサンスが破滅と創造の予感の彼方に到来する足音を聴いている。ヒンズーのシヴァ神はぼくの胸のペンダントの中で宇宙の周期の終末を前にして、舞踊を踊り始めている。このターンダヴァと呼ばれる舞踊はこの現象界を消滅させ、そして絶対界の中に回復させ、人間を幻影から離脱させるという。またサナート・クメラも世の終末にシャンバラから地表に現れるという。聖書にも同じくその時が近づいたら空に印を見せるという。この印はすでに多くの人々によって目撃されているあのUFOではなかろうか。しかし世の終末は決して永遠の終末ではない。かつて地球上に存在しなかった全く新しい文明の到来の前触れではないだろうか。創造のためには破壊が伴うものだ。旧形態が破壊され、新しい形態が出現するなら破壊は喜ぶべきだろう。破壊と創造の神シヴァ神はきっと、われわれ人類に輝かしい未来を約束してくれている。ユリ・ゲラーの出現だって、歴史的必然のもとに出現するべくして出現したようだ。ゲラー現象ひとつ取っても古い人間と新しい人間の二つに分離できる。これからの新人類は宇宙的存在としての「宇宙人」でなければならない。幸い現代は宝瓶宮《アクエーリアス》の時代に入っている。今後二千五百年間はこの星の影響を受けて人類は急速な発展を遂げ、目ざましい霊的進化をなすという。そしてこの時期はすでに始まっており、われわれは様々な宇宙的な力《パワー》を受けている。これによって現代の若い世代は非常に敏感になっており、既成の社会や概念内では生きていけないところまで来ており、大きな転換を強いられているようだ。若い世代にオカルトの関心者が増加しているのもただ単なる流行現象ではなく、内発する強い自己探求の欲求の表れかも知れない。また、このことは人類全体に関わり始めた巨大なカルマのなすところともいえそうだ。
人類全体が大きな転換にさしかかっている如く、ぼく自身もこの兆候を受けている。合理と非合理とのひずみが起きつつある中で、われわれは今そのどちらか一方の選択を強いられている。そういう意味ではこの人類の歴史的過渡期に立合うことができ、そして生き方を決定できるこの状況はわれわれにとって最大のチャンスである。これこそ神が人類に与えた試練であると同時に最高の贈物である。ぼくはこうした時期に生れてきたことを感謝すると共に、この最後のチャンスを是非我がものとしたいと思っている。人間は絶体絶命の状況に置かれると神の力を発揮するという。つまり「無の」体験が神に通ずるわけだ。われわれが素直になり、謙虚になった時、「無」はわれわれを宇宙的存在にしてくれる。人類の傲慢が物質文明を築き、公害を生んだとすれば、二十一世紀の文明は精神文明にならなければならず、「物の科学」から「心の科学」への研究に切換えなければならない。物質科学は人類の始原的な本能を磨滅させ、動物以下の存在になり下らせたのではあるまいか。混乱した現代を救うには、現代の科学ではない全く別の科学によってしか不可能ではないだろうか。そのためには人類一人一人が魂のレベルにおいて進化しない限り、いつまでたっても反自然的、反宇宙的な科学に終始するだろう。人が自分自身を知ることによって宇宙的存在になった時、その人は万物をあやつる科学者なのだ。