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なぜぼくはここにいるのか40

时间: 2018-10-26    进入日语论坛
核心提示:  参禅記 ぼくが一度坐禅をやってみたいと思うようになった最初は昨年「芸術生活」誌の取材で福井の永平寺に立寄った時からで
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   参禅記
 
 ぼくが一度坐禅をやってみたいと思うようになった最初は昨年「芸術生活」誌の取材で福井の永平寺に立寄った時からである。案内役の若い雲水僧が、「ここの参禅はなかなか厳しいですよ」といった時、ぼくはすでに心の中で来年の夏の参禅を堅く決心した。そして参禅申込書をもらって帰った。
 その後色々な人々から参禅の話を聞いていくうちに、参禅生活の厳しさが手に取るようにわかり、次第に億劫になっていった。そして禅のことも完全に頭から離れてしまったある日、川崎にある総持寺の宝物館のオープニングに個展をやってほしいという話が舞込んで来た。早速総持寺に下見に行くことになり、監院《かんにん》と逢ったり、精進料理を頂いたり、禅堂を見学している間に、ふと永平寺で決意した坐禅のことが想い出され、その場で参禅を申込んでしまった。こうして発作的に決めてしまったのも何かの因縁があるのかも知れない。
 一人で入るのも何だか心もとないので友人の人形師四谷シモン君を誘って六日間の参禅を決めた。いよいよ寺に入る当日になって急に女房も参加することになった。われわれ三人の他に、ぼくの個展を企画してくれた関係の二人を加え計五名が一つのグループとして個室を与えられた。皆な坐禅の未経験者ばかりで、一体どのような生活が始まるのか誰一人予期できず、ただわれわれは毎回の指示に従って行動するだけだった。ここでは全く個人の自由もなく、全て参禅係の雲水の意志に従わなければならなかった。こうした経験はぼくにとっては全く初めてのものだっただけに最初は何だか楽しく、自由意志を持つことができないということがすでに悟りへの道に違いないと決めつけて勝手に喜んだりしていた。参禅期間は自室以外一切の私語は慎まなければならなかった。また院内を歩行する時は叉手《しやしゆ》といって左手親指を中にして握り、手の甲を外にむけ、右の手の平をもって左手の甲に重ね、ミゾオチの辺に置き、人と出逢った時はその手を顔のところに持ってきて合掌しなければならなかった。だからここでは全く雲水達と同じ作法に則って非常に厳格に生活しなければならないと教った。
 われわれの生活は先ず午前三時半に雲水の廊下を全速力で疾走する鐘の音で起床する。この時間はわれわれの下界の仲間が床に着いてそろそろ眠りに入る頃だ。この時間に起きると不思議に優越感などあって、何か非常に立派な事をしているような気になるものだ。坐禅は四時から始まるわけだがこの間はまるで戦場のようだ。他の数十名の団体参禅者に奪れないように、起床と同時に洗面場に駆込み朝の用を足し、部屋に戻って寝床を片づけ、三階から一階にある禅堂に時間がないので走るようにして行く。
 一般参禅者と雲水達の禅堂は廊下を隔てて建物が別になっている。禅堂の中は凹字型が向い合った形になっており、その外側にさらに二つの凹字型の部屋を囲むように細長く畳が壁にそって敷いてあり、禅堂の中は昼間でもなお薄暗い。向いの建物にある雲水の僧堂(禅堂)は、ここが彼等の生活の場で、坐禅が生活の中心になっており、食事も寝起きもすべてここで営れ、一人の雲水が占有するスペースは畳一枚で、それに函櫃《かんき》という物入がついているだけだ。
 禅堂に入るのも坐り方にもすべて作法があってそれを間違いなくやらなければ、雲水の容赦ない言葉が飛出し、われわれはいつも気を抜くことができない。坐禅が始まる時|止静《しじよう》といって小鐘が三つ鳴る。これを合図に坐禅を開始するわけだが、少しでも姿勢が崩れていると容赦なく警策《きようさく》が入る。警策は樫の棒の先を平たくしたものだが結構痛いのである。最初叩かれた時などは五分位痺れたままだった。女房などは紫色に斑点ができた。そこで彼女は参禅係の単頭老師に、「私達はプロのお坊さんになるために坐禅をしにきたのではありません」と厳しい警策に抗議を申込みにいった。そのせいか二度目からはそんなに強い警策は入らなかった。しかし警策を構えた僧の影が目の前の壁に映る時など思わず肩に力が入り背筋を恐怖が走る。だから最初のうちは警策の恐怖ばかりに気を取られ坐禅に身が入らなかった。早朝の坐禅は四十分で終り、この後長い地下廊を渡って大祖堂に朝課(朝のお務)のため入る。ここは畳の数だけでも千畳近くあり、板間まで合せると二千畳は優《ゆう》にあると思われる大広間である。
 朝課はだいたい五時頃から七時頃までかかり、この間荒神真読といって般若心経、荒神真言、伝灯|諷経《ふぎん》、大悲心陀羅尼、御両尊諷経、祠堂諷経などのお経が四十人位の僧によって上げられる。われわれ参禅者も僧と共にお経を上げなければならない。お経と共に色々な儀式が次から次へと目の前で展開していくのだが、これは毎日見ていてもなかなか飽きがこない。ひとつひとつの動きは、大太鼓と鐘、そして大木魚によって伴奏がとられ、次々とまるで能舞台でも見ているように見事に朝課が進行して行く。特に経典を運込む雲水僧のすり足の動きが、美しく何ともいえない清楚なエロティシズムさえ感じる。そしてこれに伴って見事な演出は、何といっても六百巻の大般若経をアコーディオンを大きく開くようにして、パラパラパラと何やらわけのわからないいい加減なことをいって、次から次へと読んでいくシーンは何といっても朝課のハイライトとして圧巻である。ここに至っては能や歌舞伎に匹敵するひとつの芸能として独立した美学になり得るのではないだろうか。
 またぼくが好きなものに荒神真言というのがあってこれはインドのヨーガのマントラ(真言)風で、〈オンケンバヤ ケンバヤ ウンバッタ〉と二十一回ゆっくりと繰返すわけだが、このマントラはまるで地底王国のシャンバラから聞えてくるアデプト(超人)達の波動音のようにぼくの体の中に重々しく響渡る。このマントラは地球を包み、そして太陽系の星々に輪を展げ、ついには宇宙の果まで波紋を展げていっているのではないだろうかと思われるほど大きなエネルギーを持っているのではないだろうかと思われるほどだ。
 荒神真言と共にもう一つ真言《マントラ》風に唱える大悲心陀羅尼というのがあるがこれまた〈ノラキンジー ソモコー モーラー ノーラーソモコー シラスーオモギャーヤー ソモコー……〉という具合に、この二つの真言はその辺に転がっているプログレッシブ・ロックなど足下にさえ及ばない素晴しい演奏と共にぼくの魂を震撼させる。音楽にしろ何にしろそうだが、魂を震撼させるその背後には何か精神が強く凝縮した非常に高次な宗教的ともいえる高揚がなければならないような気がする。
 約二時間に渡る朝課が終る頃十月中旬の朝が白々と辺りの物の存在を明確に描き始めるのだ。部屋に帰って先ず部屋の掃除をし、約三十分の休憩の後食事が始まる。朝食は粥《かゆ》とおしんこに塩。食事も参禅時の行法の一つと心得て待たなければならない。食事に当っては行鉢念誦《ぎようはつねんじゆ》というお経を上げなければならない。粥はすでに冷えきって水分もなくまるで大和糊のようになっている。おしんこ一つ食べるのもいちいち器を手で持上げてから箸で挟んで口に運ぶので、食器の上げ下しに結構忙しい。また食べ終ったらひと切のおしんこを残して食器にお湯をそそぎ、器の中身をおしんこできれいに洗ってそれを最後に飲みほすのである。
 食事当番というのがあって、この時は他の団体客の食事の用意や後仕末をやらなければならない。自分の食器さえ一度も洗ったことがないぼくはここで生れて始めて他人の食器をしかも膨大な量を洗わなければならなかっただけに、これには少々参ってしまった。
 朝食後はしばらく部屋で休憩し、再び坐禅が開始されるが、家にいる時ならすでにこの辺りで一日分の仕事が終ったような気がするのだが、ここでは一日の四分の一がやっと消化されたところだ。時間は八時になったばかりである。二度目の坐禅が始まるのだが、いつもこの時に急に睡魔が襲ってきて瞑想の邪魔をする。また瞑想中に起こる想念といえば、全く想像だにしなかったくだらない事柄が想起され、気がつくと長々とこの想念に引きずられていることが実に多い。それも我欲に関係のある想念がほとんどで自分がつくづく情なくなってしまう。禅の高い境地を体験したことのないぼくにとってはこんな低俗な煩悩ばかりでうんざりしてしまうのだが、こうして坐っているだけでもう一人の自己が露出してくるだけでも自分を知ることになるわけだから、考えようによっては潜在している粗雑な自我の放出には少しは役に立っているのではなかろうかと思うのである。なかなか無心になるということは難しいが、しかし訓練によってこのことも可能になるのかも知れない。時たま異次元にいるような体験をすることがあるが、これは覚醒状態における体験なのか、それとも睡っている状態なのかその辺りが自分では判断できなかった。
 ぼくは少し以前からヨーガをやっているのだが、ヨーガの瞑想法と異なる点がかなり多く、ぼくにとってはやはりヨーガの方が上手くいきそうな気がするので、こうして坐禅をしていてもどこか身が入らないのである。禅がヨーガより劣るというのではなくぼく自身の中身の問題で、もっと禅に対して素直な気持にならなければたとえ何時間坐っても何にもならない。こんなことを考えながらいつも警策や放禅鐘(坐禅が終る時の鐘)を気にしながら坐っていた。
 朝食後の坐禅が終って昼食までの間に、作務ともう一度坐禅がある。作務というのは禅堂や廊下、あるいは庭の掃除をすることだが、これは子供心に帰れるチャンスであり、作務が終った後のすがすがしい気分は、まるで心が洗われたようで、またしても大したことをしたような気になってしまうのだ。如何に日頃、他人のために奉仕をしていないかという証拠だ。
 昼食はご飯にみそ汁、そしておしんこだ。みそ汁とおしんこだけではどうしてもどんぶりのご飯が全部食べられないのでぼくはいつも半分残すことにした。残す場合は先ず最初にどんぶりの縁に取って置かなければならない。この残したご飯は餓鬼のためのもので、境内の鯉や鳥や虫にあげるのである。食事の開始と終了は全員が一致しなければならないのでどうしても全員が早く食べることになる。終った後はご飯の器の中に他の食器を入れて、目の高さに薬指と小指を器に触れないようにして、両手で顔の高さまで持上げて台所まで運ぶことになっている。薬指と小指は不浄とされているようだ。
 昼食後約一時間の休憩があり、再び坐禅が開始されるが、この時は一時間以上になる。長時間にわたる坐禅の時は経行《きんひん》といって鐘二声が合図で組んだ足を解き台から下に降り、床面を半歩ずつ前進する寂黙緩歩の法を行う。この経行も坐禅の一つに数えられている。しびれた足を直すためにもこの行法は大変気持がいい。床はコンクリートになっており裸足に冷い感触が伝わり何とも心地いい。
 この長時間の坐禅の後は講堂に集って単頭老師の講話がある。この老師の講話はきまって良寛の話で、良寛がいかに底の抜けた人間であったかということ、これは風鈴と同じく南から風が吹けば北に揺れるが如く、打てば応えるという良寛の生き方が禅の心を表しているというような内容で、この老師は大変良寛に心酔しておられ、老師自身どこか底が抜けているようにわれわれはお見受けした。
 講話の後少々休憩があるのだが、この頃になるとわれわれも相当疲労の色が見え部屋に帰るなり全員横になってしまう。また糖分が欠乏するのか、甘いものが欲しくなるのだ。二、三日経った時同室の幡磨さんという七十三歳の方が売店でアメを買って来られた。ぼくはこれを見るなり咽から手がでるほど欲しかったが、何だかここで誘惑に負けたらおしまいだと考え、折角のこの老人の好意をお断りした。しかしついに四日目には全員がそれぞれ都合のいい理由をつけて甘いものを口にしてしまった。
 夕食の前にもう一度坐禅があるが、ぼくはこの時が一番気持が落着くような気がした。屋外では境内で遊ぶ子供達の声や、鳥の声、遠くを走る電車の音や救急車のサイレンなど一日の内で最も音の種類が多くなる時だが、不思議と心が落着く。ヨーガの方で重要視するのだが、日没には地上のプラーナが充満して辺りが活動的になり、瞑想に最も適した時間になる。この時間になると今朝の朝課がまるで一日も二日も前のように遠い気がする。ところが夕方の坐禅の後夕食があり、就寝の九時までまだ二回坐禅が待っている。入浴のある日は一回で済むわけだが、この入浴も坐禅の行の一つに数えられている。風呂の中では一切話をしてはいけないことになっている。また浴室に入る時は入口の賢護大士に三拝して入浴するのが法になっている。入浴の後、院内の暗くてとてつもなく長い廊下を一人で自室に帰る時がぼくは一日の中で一番好きだった。この廊下を渡れば長かった今日一日が終るのだという感慨を胸に抱きながらキュッキュッと泣くように鳴る廊下を渡る時はちょっと感動的だ。もう辺りはすでに暗くなり昼間沢山いる鳩の姿も子供の影も何ひとつなく、風呂上りに心地よい夜風が顔を撫ていくだけで、この場所が地上から離れた遥かな高い所にあるような気がして、奇妙に心が高揚するのである。
 六日間の参禅はわれわれにとっては非常に長い時間だった。ひと口にいって毎日がつらい日々だった。体重が四キロ減ったが、これがぼくの自我の重さであってくれれば何より嬉しいのだが、やはり脂の目方だったのだろう。参禅中ぼくは何度も何のためにこんな生活をしなければならないのだろうという疑問がわいたが、このことについては深く考えぬことにした。理由《わけ》を考えないことが禅の道でもある。明日からまたぼくはヨーガの瞑想に帰るかも知れないが、心と肉体をひとつにすることにおいては両方共同じことだろう。今回の参禅生活に於てぼくは全て受身になることができなかったことがぼくの内に葛藤を起し少々苦痛を生んだが、次の機会には徹底的に風鈴のように受身になってやろうと心に決めている。
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