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なぜぼくはここにいるのか01

时间: 2018-10-25    进入日语论坛
核心提示:  死と創作 ぼくはぼく自身の死について考える時、ぼくは最も想像的になる。ぼくの生き方や創作の原点というものは全て死の観
(单词翻译:双击或拖选)
   死と創作
 
 ぼくはぼく自身の死について考える時、ぼくは最も想像的になる。ぼくの生き方や創作の原点というものは全て死の観念から出発しているように思われるからだ。ぼくが最も恐れるのは死そのものではなく、死の観念である。ぼくは一日とて死について考えない日はない。言い方を変えれば死はぼくの生きがいであり、創作を初めとするぼくの全ての行動は死の証を立てているようなものである。
 ぼくはぼくの周辺を常に死の色でべったり塗りたくっていなければ生きていくことができないのだ。ぼくが死の観念から超克するためにはぼく自身が死そのものになり変わらなければならないのである。ぼくの最大の欲望はぼくから死の観念を永遠に抹殺してしまうことである。ぼくは生ある限り永遠に不可能と思われる難問に挑戦することになるのだろう。だからぼくの全ての苦しみはこの死の観念から起っているといえよう。
 ぼくはこうしたぼくの欲望を最大の罪だと思っている。そしてこの罪がぼくを生かし、創作を続けさせているのである。しかしぼくは一日も早くこの罪から逃れて永遠の平和の中に生きたいと願う。ぼくが神を求めるのもこのような理由からである。ぼくはぼく自身に執着している。この執着がぼくをますます死の観念から逃れ難くする。ぼくがぼく自身から離れた時、ぼくは真の自由と永遠の平和を得ることができるかも知れない。
 ぼくが真の自由と永遠の平和を得ない限りぼくの創作は苦の種から生れた罪の産物に過ぎないのである。ぼくは芸術の源泉は肉体を超えた魂の世界に実在しているものであると信じている。だからもう一つの世界と通じることのできる数少ない天才のみが真の芸術家である。芸術はすでにこの宇宙の中に実在しているのである。だからわれわれはこの実在している世界の扉さえ開けばいいわけだ。しかしそれは神の助けがなくては不可能であろう。
 万物の存在は全て神の想念の結果である。ぼくを創ったのも神である。ぼくの親も神によって創られた。神は土も火も水も風も空も創られた。またこの地球も創られ、引力も、自転のエネルギーも、そして太陽も、この広大な宇宙さえも創られた。何一つ神の手以外のもので創られたものはない。ぼくが生かされていることを知ったり、創作する時、ぼくはどうしても創造主である神のことを考えないではおられないのである。
 しかしぼくがなぜ神の存在を肯定しながらなお一方で死を恐れるのだろう。死を観念としてとらえていると同様、ぼくは神さえも観念として考えているのかも知れない。死が存在すると同様神も存在しているはずだ。ぼくがぼく自身を肉体的存在として知覚している限り、ぼくは死を恐れ、神を信じられないのである。しかしもしぼくが霊的存在としてのぼく自身を知覚すれば、ぼくはその瞬間から、新しい世界が開け、ぼくは神と共にあり、真の自由を得て、神の手になる創作ができるようになるかも知れない。
 ぼくはあまりにもぼく自身を愛し過ぎているようだ。この自己愛が我執となり、ぼくの全ての煩悩を生んで、肉体としてのぼく自身を肯定する結果になっているのかも知れない。肉体への関心は、即、死へ結びつき、物欲を生む。愛が自己に向いた時、それは最終的に死と結ばれるとすれば、もし愛が他者に向いた時、愛は一体どのような様相を呈するのだろう。
 神が万物を創造された時、その根底に愛が存在していたとすると、愛が自己に向いた時それは破滅し、愛が他に向いた時、愛は神に変り、全てを可能にするのかも知れない。また東洋には「無」の思想があるが、無に帰った時、人は仏の心と一体になるといわれている。愛にしても無にしてもつまり自己放棄という意味ではないだろうか。多くの芸術家は自己執着という自我によって創作活動をしているのが現状である。また芸術家の自我が多くの傑作を残したことにもなる。この世で芸術家という人種ほど自我の強い人種もちょっと見当らないような気がする。ぼくはいつも芸術家が死ぬと、彼等の行く場所は地獄だろうと想像する。
 この世に神が存在するとすれば悪魔も存在するかも知れない。神が万物を創造すれば悪魔はそれを破壊するエネルギーを持っているかも知れない。われわれが神の味方を得るか悪魔の手を借りるかは、われわれの魂一つにかかっているのではなかろうか。自我が強ければ悪魔のエネルギーによって自己とそれをとりまく環境を破壊するだろう。ぼくの耳に悪魔が囁く時、ぼくはこの世界の終末を喜々として描くだろう。実際多くの人々が現在悪魔の手によって動かされている。この世界が暴力と性の荒廃によって今、終末へと確実に歩を進めている。死に対する恐怖が人類を終末へと追いやっているのである。
 ぼくはぼくの個人的現実と、この歴史的現実によっていい知れぬ終末感を抱かされている。ぼくがぼくの生活の中や創作の上で、人間の存在を超えた未知なる存在に大いなる関心を抱くのも、ぼく自身が神の創造物である宇宙の一部分であると信じるからである。ぼくは本当に神の救いを求めたいのである。ぼく自身が、もはや自分の手ではどうにもならないような気がする。われわれは、神は汝等の中にあると教えられている。しかしぼくの神はぼく自身の粗雑な自我により足の裏で踏みつけられているのである。
 ぼくは恐らく目に見えない神を求めて死ぬまで生きる[#「生きる」に傍点]のだろうが、果してこのことに、創作するということは如何なる力や助けになるのだろうか、という疑問が湧いてくる。ぼくにとって創作活動は、単に人生の目的への願望表現に過ぎないのかも知れない。しかし創作も一つの変った形態の瞑想であり、求道の小旅行とでもいえるかも知れない。今までのぼくは人生の最大目的を全て創作に託しており、成功の結果だけを夢想していた。このためには如何なる精神的損失をもいとわなかった。しかしこのことはぼく自身を自ら縛る結果になった。創作をぼくは人生の第一義に置いたのが間違っていた。創作はぼくの人生における想念の結果であればよかったのである。エゴイスティックな創作活動がぼくの人生を支配するのではなく、静かで、落着いた安らかな、しかもでき得る限りの単純な人生設計の必然的な結果が創作になればよかったのである。
 現在ぼくの最大の関心事は、「ぼくが何者であるか」ということを知ることである。「ぼくはどこから来て、どこへ行くのだろう」というぼく自身のカルマ(因果)が少しぐらい見えてくれればぼくはそれで充分なのである。またぼく自身の宗教的な作風がぼく自身をいつの人生(来世)かに必ず神の国へ導いてくれることを信じながら現在の仕事を続けて行くことになるのだろう。
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