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なぜぼくはここにいるのか04

时间: 2018-10-25    进入日语论坛
核心提示:  物質界と精神界 ぼくはデザイナーのくせに自分の生活空間を、気のきいたインテリアで飾りたいという気持を全く持ちあわせて
(单词翻译:双击或拖选)
   物質界と精神界
 
 ぼくはデザイナーのくせに自分の生活空間を、気のきいたインテリアで飾りたいという気持を全く持ちあわせていない。ぼくの自宅や仕事場を訪問された方なら誰もその事実を認めているはずだ。どれひとつ気のきいたデザインのない、ごく普通の日常品だけが乱雑とした部屋で、仕事をしたり、食事をしたり、寝たりしているわけである。ちょっとした小奇麗な生活をしている人から見れば、ぼくのところがあまりに非デザイン的なため不思議に思われるかも知れない。いくら乱雑にしていても、統一された趣味で選択された物で空間を作っている場合は、それはそれなりに美しいのだが、ぼくの部屋の品物はそういう意味では特にセンスのない物ばかりの集りで、およそデザイン感覚というものからは遠い存在といえそうだ。
 何もこうした空間が気に入っているわけではなく、統一した美しいインテリアで飾った部屋に住むのが理想なのだが、どうも住いに特別の愛着を抱いていないせいか、一向にこのことは実現しない。しかも、買物にほとんど興味がなくなったため、あるもので間に合せようとするから、ますます生活臭の強い生活空間になってしまう。このことはいいことなのか、それとも困ったことなのか自分でもよくわからない。いくらなんでも、もう少し気のきいたインテリアで囲まれた空間で生活しなければ、このままでは無感覚になって創作の方に多大な悪影響をおよぼすのではないかという多少の心配もあり、今度引越した時には、もう少し自分の趣味に合せて、インド風に飾ってみようとか、部屋の雰囲気を宗教的空間として演出してみよう、などのプランはあるのだが、一体いつのことになるのだろう。
 人間が肉体という物質的存在である以上、どうしてもこの世界を物質で満し、物質を崇拝しようとするのが人情だろう。ところが人間は単に物的存在だけではなく、同時に心的、霊的の三つにおいて存在しているわけである。だから、たとえ物的エクスタシーに満されても、残る心的、霊的に充分満されなければ人間は不満感を抱く。
 物質的なものに精神的なものを求めようとして自分の気に入った品物を買う人がいるが、これも最終的には精神の充足を物質で解決しようとしているだけで、問題解決にはならない。このような苦渋は誰でも大なり小なり経験していることである。だからというわけではないが、ぼくもこの苦々しい経験者の一人であるため、できるかぎり物を買うことだけはさけようとしている。このような考えを持始めると、もはやデザイン的という観念は受けつけなくなってしまうのである。
 物質的なものへの価値ではなく精神的なものへの価値に移行する時、ぼくはどうしても宗教的な方向に魅かれ、無形の存在に心を奪われてしまう。だからこうなれば終日、神のことばかり想起していればいいのだろうが、情ないことに人間はどうしてもこの肉体が存在する三次元的物質世界から離れることはできないのである。もし肉体から遊離し四次元アストラル界に行くことができるまでぼくの魂が浄化されれば、もはや肉体への執着から解かれ、ぼくは物質界に用はなくなり、デザインのことなど考えなくてもすむのである。しかし、悟りに達しない限り、せめても物質界と精神界の中道を行くことを理想的目的としなければならないと思っている。このことは釈尊の教えでもあるが、ぼく自身にとってもかなり厳しい難行苦行である。人間は肉体がある以上死を怖れ、こうした恐怖感が物質的欲望に走らせる。ところが、こうした物欲がさらに死の恐怖を増進させることになる。このような人間の弱点をカバーするために生れたのがデザインではなかろうか。
 われわれの生活環境をデザインで塗りつぶすことは死をごまかすことでもある。デザインの合理性はあくまで物質世界の肯定であり、心的、霊的なものの否定の上に立っているのではないだろうか。だからぼくは自分のデザイン創作の上において、極力合理性を無視する方法をとっている。たとえそれが結果として合理的であり機能性を果していたとしても、このことはぼくの知ることではない。そういう意味ではもはや世間的な呼名でいうデザインではないかも知れない。なぜなら、ぼくのデザインはぼく自身のためにのみ創作されたものであるから、むしろ絵画の方法に近いかも知れない。デザインによって商品を主張するという考え以前に、ぼくはぼくの個人的考えを主張しようとする。商品の宣伝あるいは包装(装幀)は単なる商品のイメージであり、それ自体が決して商品ではないということになっている。しかしぼくはデザインはイメージという名の商品だと考えている。デザインがイメージという商品である以上、イメージメーカーであるデザイナーがどのような個人的解釈のもとでデザインしようがそれは自由である。
 ぼくのデザインはその日その日の日記であると同時に自伝でもある。だからぼくにおけるデザイン空間はぼくの外部にあるのではなくぼくの内部にあるのだ。したがってぼくの日常の物質空間のデザインなどはっきりいってどうでもいいのである。ヨーロッパのアンチークに飾られたしゃれた空間でもよし、とにかく最初にもいったように、仕事ができ、食事ができ、安眠できる静かな空間があれば、貧富を問わず万事OKである。
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