ぼくは時々こんなことを考える。もしぼくが年老いたら、アンリ・ルソーのような絵を描こうと。ぼくは現在あまりにも日常的な繁雑さに追われ過ぎている。こんな生活から一日も早く脱して、ルソーのように美しい自然や想い出の人々を絵にしたいと考えている。一切の社会的な習慣や束縛から離れ、独り自分自身の内部への旅だけをじっくりと楽しむことができたならどんなに幸せなことだろう。その頃には子供もわれわれから独立し、経済的な面倒もみることもなく、教育することも管理することもなく、お互に親子の関係から自由になっているかも知れない。だからぼくはルソーのような油絵を趣味で描きたいのだ。社会のためでも、コレクターのためでもない、自分自身のために、そうだ、ぼく自身の信仰のために。
そしてそれは神の愛のために。
しかし、果してこんな精神的な余裕がぼくの人生にたった一日でも訪れることが本当にあるのだろうか。ぼくは何となくぼくの未来が予知できるような気がするのだが、それによると、ぼくの一生は何かにかりたてられながらどんどん追いつめられていくようなそんな姿が目に浮ぶ。真の安息が欲しいというこの贅沢な欲望を追続けながら、ぼくはますます自我の虜《とりこ》になってゆくのだろうか。こんな予感がぼくをますますルソーに憧憬させるのかも知れない。ぼくがルソーの絵が好きで、好きでたまらないというのではなく、こんな絵が描けるルソーの魂に魅かれるのだ。
ぼくはルソーがどのような人物でどのような一生を送ったのかは何も知らないのでルソーの内面までは理解できない。こんな不思議な絵が描けるルソーは素朴で純粋な子供のような心を持っている人ではなかろうかと想像するのだが、どうだったんだろう。ルソーの絵は子供の直感力とテレパシックなパワーによって、ものの見事に対象物を自分の内部に転位させ、そこに無限の時間と空間の四次元的世界を展開させ、過去、現在、未来をひとつの画面内に同居させ、われわれをいつまでもトリップさせてくれるのだ。
ルソーが真の素朴画家であるか、どうかという議論はしばしば耳にするが、そのようなことはぼくにはどうだっていい。ルソーの絵を見ることによって、ぼくのすでに失われた子供時代の素朴な感覚が引出され、一瞬でも世俗的な時間からこのルソーの素朴な王国に幽体離脱してくれればそれだけでしめたものだ。
ルソーの絵を見ているとぼくはいつもこのような風景を実際に見たいと思う。しかし、仮にもしぼくがこのモデルになった風景の中に佇《たたず》んだとしても、ぼくは恐らくルソーの絵からくる狂わしいような恍惚とした観念を体験することは不可能だと思われる。ルソーは現実の風景を描きながら、われわれには幻の風景を見せているのだろうか。もしそうだとすればなぜぼくは幻の方にこんなにも恋慕しなければならないのか。世の中には、眼には素晴しいと感じる美しい絵は沢山あるが、ルソーのようなタイプの絵(他にも沢山あるが)は、肉眼にではなく、心の眼に訴える種類のものでルソーとぼくは互いの潜在意識で共通の意識を共存してしまうようだ。この共通の意識こそ万物全てに存在する宇宙意識波動である。
ルソーの絵はシュールレアリズムではないが、画面から伝わる不思議な空気感はシュールレアリズムに共通した潜在意識の空間を有し、われわれを神秘的な奇妙な世界に誘惑する。同じシュールレアリズムのサルバドール・ダリのように奇怪な事物こそ登場していないが、それだけにルソーの絵のごく日常的な事物の影にこそ何か得体の知れない心のお化けが隠れ棲んでいるのではないかと思わせる。それ故にかえってわれわれをイマージュの暗闇に引きずり込んでしまう。この一見のどかな田園や河岸のある風景の背後に夜の世界がひっそりと隠れているのかも知れない。この夜の世界こそわれわれの未知の現実であり、魂の棲処《すみか》であり、そして真の世界なのだ。真の世界はいつの場合でも決して表にはその姿を現さず、ただひっそりと物陰に隠れたまま、そして昼間の世界を操っているのだ。
ぼくがたとえルソーのような絵を描きたいと望んでみても、ぼくにルソーと同じようなカルマが働いていない限りそれは望めないことかも知れない。これは前世からの仕組でどうすることもできない。しかし、ぼくがどこかルソーに魅かれるところがあるということは、もしかすると目に見えない魂の糸で繋《つな》がれているのかも知れないぞ、とかんぐりたくもなり運命に逆らって至上なる神の自由意志によって、運命の転換を計ってやろうかとさえ考えてしまうのだが……。
どうしたことかぼくは悲哀のカルマに泣かされているような気がしてならない。だからこんな悪魔のカルマを断切り、呑気にオプティミズムな生き方をしたいと望むのだが、ルソーは果してぼくを救ってくれるのだろうか。まあ気休めにでもなってくれればいい、とそんな風に軽く考えた方がいいのかも知れない。
ぼくはここまで書いたところで少しルソー感が変って来たのではないかとぼく自身を疑いたくなってきた。するとルソーはもしかするとぼくと同じように悲哀なカルマの人なのかも知れないということだ。どうやらぼくがルソーに魅かれる本当の気持はこの悲哀な感じが、ルソーの絵の中にあり、それが二人の波長を結んでいるのではなかろうかということに気づきはじめたからだ。
ぼくがさっきいった魂の深い部分でルソーと共存するなら、これはやはり悲哀の部分でかも知れないということになってきた。そうすると、ぼくがルソーのような心の人物になるということはちょっと危険なことだ。ぼくはもっとぼくと反対の人物を求めなければならないのだ。ぼくが魅かれる作品や人物はどこか悲哀に満ちているということになりそうだ。ぼくが欲しいのは安息だったのだ。するとルソーはぼくにとってやはり幻の安息だったのだろうか。
こんな考えが頭をもたげ始めると、ルソーの人物画の表情がなんと恐しく見えてくるではないか。中でも特に子供の表情にその恐しい情念を見てしまうのだ。子供でありながら子供ではない、自らの人生を知りつくしたかのような表情には老人の憎悪さえ浮彫りにされているようだ。それはあるいはルソー自らが子供の肉体を借りてその中に入込んでしまったのかも知れない。大人が子供の心になるということはもしかするとこのような形を借りない限りそれは不可能なのかも知れない。子供の肉体に大人の心が入込むことによって、せめて仮そめの純真を得たかった……あるいはこれより他に方法は見つからなかったのかも知れない。
今生に於いてわれわれは再び子供になり得るということは全く不可能なことなのだ。死という関門をくぐり抜けて再び来世に転生しない限りそれは全く不可能なのだ。人生の終りと共にわれわれは子供に帰ろうとする。このことは死の心構えと同時に再生の準備を始めているのかも知れない。するとルソーは人間や自然を描きながらもそこに常に死との対決があったのだろうか。ぼくはこのエッセイを書く以前にもっとルソーの文献を調べてみる必要があったのかも知れない。というのは、ぼくはルソーについておよそ誤った見方をしているのではないかという不安が起ってきたからだ。しかし鑑賞者は往々にして自分勝手な解釈をするものだから、ぼくの身勝手な見解を許されたい。
人は年と共に幼き頃を回想し、人生の未来を過去に求めたがる。ルソーの絵もそういった意味で古い写真帳を繰っているようなところがあり、ぼく自身の過去の古い記憶と結びつきながら、それは不思議と未来への姿と変化していく。われわれは現実に生きながら同時に過去と未来にも生きている、そんな体験がルソーの絵を見ているとより強く知覚される。そういった意味でもルソーはわれわれが夜見る夢にどこか似ている。時間の動きが停止したような画面には過去、現在、未来がコラージュされ、不思議な内面世界を創上げている。夢は一瞬の間に多彩なヴィジョンを経験するらしいが、なぜこのような器用なことができるのかぼくはよく知らないが、ルソーは夢の時間とは逆に、時間の流れを永遠にある一点に閉込め、そして凍結させてしまう。空を飛ぶ飛行機は空の中に塗込められ身動きひとつできない。また歩を運ぶ人物は股を開いたまま前に進むことも後にもどることもできない。忙しく動廻る夢の世界と微動だにしないルソーの世界がどこか意識の世界で共通しているのはなぜだろう。
われわれは常に物理的時間の流れの中に生きている。そしてもうひとつ全く別の時間の流れが確かに存在することも知っている。この後者の時間はわれわれの前世から脈々と流れる不変の時間であり、死後も存在する時間である。ルソーはこの時間内に起る様々なヴィジョンをこの世にもたらす画家であり、そういう意味でも真の芸術家である。