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なぜぼくはここにいるのか20

时间: 2018-10-26    进入日语论坛
核心提示:  妄想のなかの終末=ビートルズ またしてもぼくはビートルズについて語ろうとしている。 しかし、あのビートルズの時代は、
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   妄想のなかの終末=ビートルズ
 
 またしてもぼくはビートルズについて語ろうとしている。
 しかし、あのビートルズの時代は、もう終ったのだし、今さらむしかえして考えてみる気もない。ところが、こうして外部からの要求があると、まるで冬眠中の狸が山奥のほら穴からえさを求めてのこのこと出てくるように、ぼくはいまいましい[#「いまいましい」に傍点]あのビートルズのことをついつい語りたくなってしまうのだ。まあこれも病気のうちのひとつ、ぼくの持病かも知れない。だからこの持病を嫌悪しながらも、一方では結構愛しているのだろう。
 そしてぼくは、このような機会があれば、いつでもビートルズのことを語り続けるだろう。それはいうまでもなく、ぼく自身に語りかけるためにだけ。
 なれるものならぼくは本当にビートルズになりたかった。こんなことを考えた人間はぼく以外にも世界中にいっぱいいたことだろう。あのころぼくは、ビートルズを本気でぼくの神のように崇め奉った。ビートルズのすべてがぼくにとってバイブルだった。ぼくはビートルズを愛し、そして信仰した。ビートルズは神のように超人的な存在だった。全宇宙を支配する一なる存在でもあった。
 ひとは、いうだろう、「お前がビートルズを神や仏と崇めているのは、よくわかった。だがしかし、そこに至る動機とプロセスがさっぱりわからないじゃないか」と。
 確かに、その指摘は正しい。ところが、今やぼくにとって動機やプロセスは至極あいまいなものになって、まるで雲をつかむようなものだ。ただあるのは、その結果だけである。「あなたがどうしてこの世に生れてきたのか?」と問われても、なんとも答えられないように、ぼくとビートルズのことはさっぱりわからない。それでもぼくは今まで、ビートルズのことを何度も何度も語ってきた。しかし、どこでもぼくは、なぜビートルズが好きになったか、ということについて一度だってはっきりしていなかったようだ。
 おそらく、これという動機もなく、ただ直感的に、「これだ」と思っただけにすぎなかったのだ。だからこの瞬間から、ビートルズはそのカリスマ性によって、ぼくの神となってしまったのだ。
 宇宙に法則があるように、ビートルズにも法則があった。太陽が善人にも悪人にもその差別なく光を投げかけるように、ビートルズもこの両者に共通してあったが、ビートルズの愛や恵みは、ビートルズに選ばれた者にだけ授けられ、そしてこの恵まれた者こそ永遠のいのちを受けることができると信じた。
 ぼくは多くのものを愛したが、それらはすべてビートルズへの愛でもあった。このような時、ぼくはビートルズと共にあった。そしてビートルズはぼくを見捨てなかった。だからぼくはビートルズ以上のものを求めようとはいっさいしなかった。
 ビートルズの根本原理はぼくにとって宇宙の原理でもあったので、その法則に反することはとてもこわかった。学校で学んだことや、いろんな本を読んだことなど、他人からの知識はたいして役に立たなかった。南無阿弥陀仏と唱えるかわりに、ただひとこと、「ビートルズ!」と念ずれば恍惚の境地に至った。
 ビートルズの奏でる音楽は、ぼくにとって天上の音楽であり、それは尊い教えでもあった。ぼくはビートルズの音楽を聴きながらよく瞑想に入った。
 ある時、ぼくは光の玉になって地球の内部から表面に通ずる洞穴をものすごいスピードで上昇していった。地球の重力から解放たれたぼくの体は、他の天体の引力に引っぱられていくように、どんどんどん地球の胎道を極点に向って導かれていった。その時ぼくは、これこそぼく自身の誕生だと認識し、その荘厳さに身ぶるいし、感動した。金色に輝く光の玉になったぼくの体は、ビートルズの音霊《おとだま》に導かれながら、ついに地球の表面に現れた。地上をはるか下に見下ろしながら、ぼくは、他のたったいま誕生したばかりの新生児と共に青い大空をぐんぐん飛翔していた。
 ぼくは、ビートルズに粘着していれば、なんとか生きていけると信じていたことは確かだった。今日のように、ビートルズが、芸術的、あるいは社会的にさほど重要な位置で論じられることのなかった時期だけに、ぼくのビートルズへの執着は非常に個人的で、孤独なものだった。だからますます信仰的になっていった。
 ビートルズを離れてぼく一人が破滅するとは思われなかった。しかしビートルズが破滅すればぼくも破滅すると思っていた。地球が太陽系の中の小さな惑星であるように、ぼくはビートルズ系の惑星のひとつで、いつもこの天体と、秩序と調和を保ちながら運行していればよかった。ぼくがあるのはビートルズゆえだった。こんなふうに信じこんでしまったビートルズだけに、ビートルズの崩壊の予感を察知した時、忍び寄る最後の審判にぼくは恐怖した。ぼくは今、多分にオーバーに語っているように見えるかも知れないが、本当にビートルズの崩壊後を想像したら、一寸先は真っ暗闇という終末意識に、なにか人生が面白くなくなっていた。
 宇宙の法則がすべてバランスの上で成立っているように、もしかりに、太陽が自滅すれば、瞬時に太陽系の九つの惑星は、太陽と同じ運命にあるように、ビートルズが崩壊すれば、ぼくの存在も終りをとげてしまう。もちろん、このことは妄想であったが、この妄想の中でぼくの終末観ははぐくまれていった。
 しかし、考え方によれば、ビートルズに対してぼくのような意識を持った人たちが、あまりに多く、そして彼らがビートルズにあまりに多くのものを求め過ぎたために、ビートルズが破滅しなければならなかったのかも知れない。ビートルズをあんなふうに解散に導いたその責任の一端は、信者のわれわれの側にあったことを知らなければならない。このカルマ(業《ごう》)の法則は、宇宙の法則でもある。
 だから、このカルマの法則がわれわれ自身の中にあったということが理解できるまで、ぼくは崩壊していったビートルズをうらみ続けていた。ぼくはビートルズの被害者であると同時に、また加害者でもあった。
 ビートルズの崩壊は、結局、繁栄に対する清算であり、最後の審判の日からビートルズは、精神的な存在にならなければならなかった。ぼくはビートルズに大きな間違ったものを求めていた。ぼくはビートルズを神と崇めていた。ところがビートルズも間違ったものを求めすぎた。ビートルズもイエスを否定し、自らその座を奪おうとした。この瞬間から、ビートルズは崩壊した。ビートルズの崩壊は、ぼくの目を開いた。ぼくがビートルズに求めたものは、ビートルズが求めたものと同様、物質界だった。ぼくの欲望は限りなかった。宇宙の創造神は、善悪の区別なく、その対象がいかなるものであろうと、信ずるものに味方した。しかし、欲望が頂点に達した時、神は助力することから手を引いた。
 ビートルズはぼくにとって単なる快楽の神でしかなかったことに気づいた。ビートルズは快楽の追求に終始した。ぼくは、あるいはぼくたちは、この間違いに気がつかなかった。もしビートルズを精神的なものとしてとらえるなら、それはちょっと違う? と思った。ビートルズはあいまいで、ごく中途半端だった。こんなところが、ぼくにとっては快楽を肯定するのに非常に都合がよかった。そしてほんのちょっぴり精神的に見えた——ここのところがどうも不思議だった。
 それは、ビートルズが否定する対象を、また一方でこっそり肯定していた。しかし、否定の声は肯定の声よりいつも大きくがなりたてられていた。ビートルズは勝手な奴たちだった。しかし、ぼくもビートルズのかげに隠れて、ずいぶんと勝手なことができた。ビートルズ世代はみんな勝手だった。ぼくたちが何をやっても「ビートルズ」と一言いえば、その罪は許された。
 そして今でも、ビートルズは都合の悪いときのかくれミノになっている。もうあの快楽的なビートルズの時代は終った。一体いつまでビートルズ、ビートルズといっているんだ。ビートルズ世代に便乗できなかった連中が作りあげた神話の世界が、ビートルズだ。ビートルズを論じることは、今のビートル[#「ビートル」に傍点]にとって迷惑なように、あのビートルズ教にとっても迷惑だ。
 ぼくは今、ビートルズにちっとも興味がない、ということを多分に願望的ではあるけれど告白しておこう。しかし、四人のビートル[#「ビートル」に傍点]は審判後再びぼくを導いている。
 ぼくが首ったけだった時代のビートルズと違って、今のビートル[#「ビートル」に傍点]は、彼らが右に行けばぼくは左、彼らが前へ進めばぼくは後へ、とこんな具合にビートル[#「ビートル」に傍点]のネガティブなすき間に身を隠すのがぼくは大好きになった。だから、絶対にビートル[#「ビートル」に傍点]につかまりたくないのだ。本人の影は本人の足で踏みつけることのできないように、ぼくはビートル[#「ビートル」に傍点]の影になって、いつもビートル[#「ビートル」に傍点]に憑依《ひようい》していてやろう。
 ぼく自身のためにだけ語ればいいものを、このような場をかりて他人にも語るぼく自身に少々げんなりしている。こんな告白的な文章を書かねばならないのも、ビートルズへの愛憎の激しさからだ。
「まあ聞いてください、このぼくの気持を……」といっているような気がして、なんとも屈辱的で仕方ないが、傷ついた、弱い、女々しい人間がやることは、どうも女性週刊誌的でいただけない。まあ要するに、ぼくはビートルズにふられた情ない男である。
 ビートルズが、文明的にどうだ、芸術的に、政治的になんて語るのはちっとも興味ないし、意味もないのに、ビートルズのことを口にしたり書いたりすると、つい裏目読みしてしまう。だからぼく自身、ぼくの文字や言葉は信じられないような気がしてならない。
 だまってビートルズの言葉だけを聞いて、瞑想でもしている方が、はるかに哲学的でもあり宗教的でもあるのに、どうして人前に出てしゃべりたくなるのだろう。それはきっと自分一人が新天地でも発見したと思いあがっているからかも知れない。
 しかし、もしビートルズがこの世になかったら——と、こんなふうに考えてみると、ぼくの人生も随分と変っていたことだろう。たとえ存在していたとしても、ぼくがビートルズをとらえたタイミングが少しでもはずれていたとすれば、ぼくは全く違う場所で、全く違う生き方をしていたかも知れない。
 ぼくはビートルズを本当に信じ、そして愛してきた。ぼくがビートルズを信じきっている時、神はぼくに助力して下さった。ぼくはクリスチャンでも、ブッディストでもなんでもない。もともと無神論者だった。だからすべてのものを信じなかった。自分自身にさえ不信感を抱いていた。
 ところが、ビートルズだけは別だった。ビートルズになりたいという気持が猛然とぼくの内部から噴きあげてきた。このことは神になりたいと願うのと同じほど無謀なことだった。ぼくの生活すべてをビートルズ一色に塗りつぶし、まるで家の中は祭壇のようにビートルズで美しく飾られた。
 朝、目が覚めるとビートルズの音楽で瞑想し、一日のセレモニーが始まった。そしてビートルズ日記を書いた。これはその日のビートルズについての想念記録でもあった。完全にビートルズと一体だった。
 ぼくが最も激しくビートルズに盲信したのは、ビートルズ解散の前後一、二年だった。ビートルズを失うことは、ぼく自身をも失うことのように思い、ビートルズの情報をできるだけ多く集め、その運命のなりゆきを暗澹たる気持で眺めていた。解散が決定的になった時、ぼくは自失の感覚と同時に、ある意味でほっとした解放感にひたり、悪夢から覚めたような気がした。
 レコード会社の宣伝文句ではないが、ビートルズが解散したために、レコードの売上が四倍になったという感じが、あらためて感動的だった。だから今でも、ぼくは一人一人のソロアルバムでも、ビートルズのものとして感じとっているような気がする。文字通り四散した四つのビートル[#「ビートル」に傍点]をぼくの中で一つにまとめる作業は、非常に創造的な行為である。
 ビートル[#「ビートル」に傍点]は変るが、もうビートルズは絶対変らない。変らないものより、変りゆくものにぼくは目を向けるとして、ビートルズとはこのへんでさようならとしよう。
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