酒を振舞え、酒をおごれ、と仲間たちからせびられて、不死人と呼ばれていた大男は、腰の革ぶくろから、銭をかぞえて、投げてやった。すると、一人はたちまちどこかへ走って行き、やがて素焼の酒瓶《さかがめ》をかかえて来て、
「さあ、豊楽殿《ほうらくでん》の、おん酒宴《さかもり》としようぜ」
と、さらに車座を、睦み合った。
「待て待て、すこし火が、不景気になった。薪《まき》はねえか」
「なに、薪か。薪なんざ、あんなにもある」
伽藍を指さした一名の者は、立ちどころに、そこの廻廊へ上がって、すでに壊れている勾欄《こうらん》の一部をもぎ取り、また内陣から、経机だの、木彫仏の頭だのを抱えて来て、手当り次第に、焚火の群へ、投げやった。
「ほい。まだあるが」
「もう、たくさん、たくさん」
かくて素焼の瓶から、どろどろした液体を、酌ぎ交わし、飲み廻している程に、ようやく、火気にあぶられた手脚のさきにまで、酒がまわり始めたとなると、彼等の卑猥に飽きた話ぶりは、一転して、胸中の鬱憤《うつぷん》ばらしになってきた。
小次郎は、不死人のそばに、ぴったりと寄せつけられて、立ちも逃げもできないように置かれていたので、ただぽかんと、この光景を見ていたが、彼にとって、実にびッくりさせられたことは、この連中が、時の大臣《おとど》であろうが、親王、摂家《せつけ》の高貴であろうが、片ッぱしから、穀《ごく》つぶしの、無能呼ばわりして、まるでそこらの凡下《ぼんげ》共より劣る馬鹿者視して、罵りやまないことだった。
いや、公卿堂上だけの悪口ならまだしも、はては、天子の暗愚におよび、藤原氏の女《じよ》を閨門にいれて、かれら一門の非望をとげさせた桓武、嵯峨《さが》、淳和《じゆんな》、陽成《ようぜい》など歴代天皇の御名までを口にして、
「いったい、こんな世の中にした一族めらは、極悪党といっても足りねえが、させた者もまたさせた者で、天子様だから仕方がねえという法はあるまい。むかしむかし、おれたちの祖々《おやおや》から語り継がれて来た天皇というものは、仁徳天皇様を持ち出すまでもなく、こんなはずの者じゃあなかったぞ」
と、怨嗟《えんさ》をこめていう語気は、あながち酒だけのものではない。
かれらは、祖々からの慣わしで、天子というも、父母というも、自分たちのものという同意義に考えていた。だから、子が親に悪たれをたたく場合もありうるように、そこらの天皇や法皇の御名にたいしてもくそみそに悪口をいって憚《はばか》らないのであった。
だが、小次郎がもっている習慣では、これは、霹靂《へきれき》にしびれたような驚愕《きようがく》だった。かれらの言葉のうらに持つ天皇と庶民との親愛の変形が、そんな言語になって出るのであろう——などという考察のいとまはない。彼の生国たる坂東地方にあっては、天皇のおん名はおろか、国司、郡司の知事級にたいしてすら、到底、おくびにも、いえた言葉ではない。たとえば、都の摂関家や、太政官の名を以《もつ》て、地方の庁に官符をもたらす使者などに対してすら、慇懃《いんぎん》、拝迎《はいげい》、文字どおり、下文《げぶん》の沙汰書を、土下座して、受けねばならないほど、絶対的な、卑下と高貴を、明らかにされている。
「なんだろう? この人たちは」
彼は、入京の第一夜に、第一の疑問にぶつかった。
だが、てんで見当もつかないのである。ようやく、落着き得た眼をもって仔細に連中の風俗を見ても、公卿の子弟かとも思えるような、人品服装の若者もいるし、猟師か、牛飼《うしかい》の親方かと思われる男だの、法師くずれに違いない者だの、野伏《のぶせ》り姿の髯面だの、どこにも種族的な一致はない。
仲間同士で呼びあっている名前にしても、八坂《やさか》の不死人《ふじと》を始めとして、禿鷹《はげたか》だの、毛虫郎《けむしろう》だの、保許根《ほこね》だの、穴彦だの、蜘蛛《く も》太《た》だのというだけで、これにも職業のにおいはない。だが、その放言の中には、折々、凡下ではいえない知的な批判があったりして、殊に、朝臣のくずれらしい八坂の不死人の言には、小次郎も、耳をそばだてた。