三
神田橋近くへ来ると、番屋からも手を借り、十四、五名になった捕手《とりて》を、石垣の裾《すそ》だの、樹蔭《こかげ》だの、橋の袂《たもと》だのへ配って、
「じゃあ、あの長屋門から出て来るな」
と、小倉庵は、念を押した。庄次郎は、うなずいて、藩邸の門を入って行った。ここの様子は知りぬいている彼だった。
公用人の平岡円四郎の家の裏口へそっと廻って、
「渋沢氏——」
垣越しに呼ぶと、
「やあ、土肥君か」
書斎の窓が開いた。
「よろしいか」
「その木戸を押したまえ」
庄次郎が、入ってゆくと、渋沢は縁の障子を開けて、敷物を出した。
「約束をたがえず、わざわざ、お届けを願って恐縮じゃな」
「ところが……実は……その書付はまだ持参して来なかった」
「えっ? まだ?」
渋沢は疑った。
庄次郎は苦しそうに、頭の毛の根を、もじもじと掻いた。そして、自分の情婦《おんな》の手に預けて、紛失《な く》してしまったことを白状すると、渋沢は、案外こだわらなかった。
「ははは、紛失《な く》してしまった物ならしかたのない話、なぜ先日、そう云わなかったのだ」
「どうも、面目なくて」
「ただ、それが、幕吏の手へ渡ると、他人に迷惑をかけねばならんので、それだけが、気懸《きがか》りであったが……」
「それだ」
庄次郎は、縁へ、身を伸ばして、
「小倉庵の長次が、捕手をつれて、藩邸の外まで来ている。今のうちに、裏門からお逃げなさい。——これだけが、お礼の寸志。——それを、報らせるため、手引をすると偽《いつわ》って、これへ来たのだ」
「ほ……」
渋沢は、明るい昼を、見まわして、何か、咄嗟《とつさ》に、意を決したらしい。
「かたじけない」
彼が、書斎の障子を閉めたので、庄次郎は藩邸の塀の際《きわ》まで行って、塀のみねから、外部の動静をのぞいていた。
神田橋の袂《たもと》に、小倉庵の姿が見えて、塀の上に生《は》えた彼の首に気づくと、眼で、合図をたずねた。庄次郎は首尾のよさを告げるように、手を動かして見せた。
すると、後ろで、
「やっ、おのれはっ」
聞いたような声がした。
振り向く間に、脚を引っ張られて、庄次郎は大地へ、もんどり打っていた。