一
「そう、恐縮されては、自分《てまえ》も困る。まず一献《いつこん》」
と、渋沢は、くだけて、
「今も申した通り、金子は、差し上げたつもり、ご返却などしていただこうとは思ってもおらぬが、後で気づくと、あの金入れの中には、他人に見られてはちと都合の悪い書付《かきつけ》二、三通と、自分の印形《いんぎよう》も入っている。それだけを、実は、お返し願いたいものと思い、しばしばお住居《すまい》にまでお訪ねした次第ですが」
「いや、何とも、はや」
庄次郎は、赤面しながら、頭を掻いた。
「ここで、お目にかかったのは何よりだ。あの書付と印形だけを、お戻し下さらんか」
「もとより、お返し申さねばならないが……実は、その……」
「どうなされたか」
「ただ今、ここには、持っておりませんので」
窮したあまり彼は一時遁《のが》れを云ってしまった。ほんとは、お蔦が、金ぐるみ持って出て、いまだに帰って来ないのであったが、堅人《かたじん》の渋沢栄一に、そんな女の話はしにくいし、またあまり無責任のようで、書付や印形まで紛失したとは云えなかった。
「四、五日うちに、必ず、私の方からお届けしますが」
「そう願えれば、結構」
「今、お住居は」
「やはり、平岡円四郎殿の邸内に、匿《かくま》われておる」
「ははあ」
ちょっと、彼の眼が、渋沢の顔を正視した。渋沢は、その眼に答えて、にやりと笑った。